2022.1.2.小金井西ノ台教会 降誕後第1主日礼拝
ヨハネによる福音書講解説教31
説教 「世の罪を取り除く神の小羊」
聖書 イザヤ書53章1~12節
ヨハネによる福音書1章29~34節
聖書
1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。
エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
フィリピのケノーシス
2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
説教
はじめに. 「キリスト」を証言する洗礼者ヨハネ
先週から、ヨハネによる福音書1章19~34節の洗礼者ヨハネのキリスト証言の記事を読んでいますが、本日は、その後半に当たる29~34節、洗礼者ヨハネによる「メシア証言」について、聖書のみことばをお聴きします。そこで後半28節以下に入る前に、先ず前半19節以下を振り返りますと、19節に「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させた」とありますので、どうもエルサレムの権力者たちは、主イエスだけではなく、洗礼者ヨハネの動向についても、神経を尖らせていたと推測されます。洗礼者ヨハネも洗礼を授けており、主イエスの弟子たちも同じように人々に悔い改めを求める洗礼を授けていたようであります。マルコによる福音書の証言にも「1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」とありますように、両者の宣教活動は、共通して「悔い改め」を強く求める洗礼活動であったことが分かります。主イエスの宣教活動は、洗礼者ヨハネが捕縛された後とされていますが、この頃ユダヤ全土において、こうした預言者活動が活発に引き起こされていたように思われます。エルサレムの権力者たちは、ユダヤ全土に渡るような一種の民衆運動を警戒していたように思われます。エッセネ派、クムラン派、洗礼者ヨハネ、そして主イエスと、さまざまに人々はメシアの到来を求めて、預言活動に参加していたようにも考えられます。やがてエルサレムの宗教的権力者たちと世俗的なヘロデ王とが謀議結託する中で洗礼者ヨハネは斬首され、主イエスは巧妙な陰謀により十字架刑に処せられ殺されます。こうした事実から、エルサレムの権力者たちは、想像以上に、メシアの到来を非常に恐れていたことがよく分かります。当然ながら、メシアの到来を予見させるような民衆運動を初め、民衆に悔い改めを求める洗礼運動やメシアに服従を求める預言活動は彼らの厳しい警戒の対照となっていたはずです。このようにメシア到来とそれを求める民衆運動を警戒するエルサレムの権力者たちは、あちこち祭司やレビ人たちを派遣して取り締まりを強化してと考えられます。そしてついにその尋問は洗礼者ヨハネにも及んでいたことが分かります。取り調べの尋問は「あなた、だれなのか」つまりあなたは本当にメシアなのか、その真相を糾明することにありました。洗礼者ヨハネは、自分自身の口ではっきりと、自分はだれなのか、答えます。「わたしはメシアではない」(19節)、「エリヤ」でもない(20節)、そして「あの預言者」でもない(21節)と答えています。人々に罪を悔い改めさせて、ただメシアの到来のために、道を備えるよう導く使者にすぎない、と自分の素性を明らかにしています。
1.洗礼者によるメシア証言
そして洗礼者ヨハネの証言は、何よりも先ず、後半29節にありますように、イエスが自分の方に来るのを見て「世の罪を取り除く神の小羊」であると証言します。洗礼者ヨハネは、メシアの証言者として絶叫するかのように声を挙げます。「1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」と、文字通り、石が叫ぶかのように、メシア到来を告知しています。おそらく、このメシア証言の背景には、主イエスご自身の方から、ヨルダン川で洗礼を授けていた洗礼者ヨハネを訪ねて来られ、ヨハネに主イエス自らが洗礼を求められたからではないか、と思われます。しかしヨハネからすれば、洗礼を授けるどころか、ついに到来したメシアを眼の前にして、メシアを讃える証言を思わず、叫ぶように声を挙げて発してしまったのかも知れません。いずれにせよ、洗礼者ヨハネが真っ先に声を挙げたメシア証言は、「世の罪を取り除く神の小羊」という証言になります。
次に「わたし(洗礼者ヨハネ)の後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられた」と証言しています。注目すべきは、「わたしよりも先におられた」と証言している所です。言い換えれば、大工の子イエスという人物そのものがメシアであり、そのメシアとは「わたしよりも先在しておられた方」である、ということ、すなわちヨハネ福音書の流儀で言えば、「先在の言(ロゴス)」である、という証言になるでしょうか。
そして最後に「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と告白しています。この証言は、「わたしは、見た」とありますように、洗礼者ヨハネ自身の体験に基づく証言であり、告白ではないか、と思わせるほど、リアルに証言されています。洗礼者ヨハネ自身が見て体験した、主イエスのご受洗の様子や出来事を鮮やかに伝えています。
洗礼者ヨハネのメシア証言とは、イエスとは誰であるか、ということを三つの視点から、非常にはっきりと証言しています。最初にイエスは「世の罪を取り除く神の小羊」であること。次にイエスは「わたしより先におられた」方、すなわちヨハネ福音書らしく言えば、イエスは「先在の言(ロゴス)」である、という証言です。イエスは、時間的な枠の中では、確かにイエスは洗礼者の後に登場するのですが、しかしその本質は、天地が創造される前から、永遠に先在しておられた神の「言」(ロゴス)であることを証ししたのです。そして最後に、イエス「主イエスのご受洗においては、三位一体の神が三位格(ペルソナ)其々が共に一体の働きとして深く相互に関与していることを証言しています。父なる神、子なる神、そして聖霊なる神は、同じ神の本質を有する神でありますが、しかし同時に父と子と聖霊は、それぞれ異なる人格存在であって、天の父から聖霊が御子のもとに遣わされて御子のみわざと一体の働きを担うことが明らかにされているように読むことができます。
2.「わたしよりも先におられた方」
こうした洗礼者の証言は、特に「後に来られる方」でありながら「わたしよりも先におられた」という先在のロゴスにかかわる証言は、1章14節の「1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」という聖書の証言を想い起させます。前に戻りますが、「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」というヨハネ福音書の冒頭の言葉を想い起させます。実は、この1~5節の冒頭部分は、「ロゴスの讃歌」と呼ばれて、元々はヨハネの教会で受け継がれていた讃美歌であった、と言われている部分なのです。そこでもう少し聖書釈義上の重要な所をお話いたしますと、1章1節「はじめに言があった」という「言」という字には、以前にも申し上げたように、ギリシャ語文法で言いますと「冠詞」が付けられています。したがって、抽象的な名詞としてよりも、より明確なある特定の人格存在を想定することができます。同じ1節の次の文では「言は神と共にあった」とありますが、ここでも「言があった」という「言」という字にも「冠詞」が付けられていますので、明らかに特定の、言わば「言」と呼びうるお方がそこにおられる、という意味になります。さらに次の「神と共にあった」という「前置詞」を伴った「神」という字にも「冠詞」が付けられております。ということは、明らかに「言」と同じように、冠詞のある「神」も、「神」と呼ぶべきある特定の人格存在が想定されていることが分かります。つまり、冠詞のついた言も、また冠詞のついた神という字も、其々異なる独立した特定の人格存在が想定されている、ということになるでしょうか。先に結論を言えば、冠詞のある「言」には「子なる神」が想定され、冠詞のある「神」には「父なる神」が想定されている、ということになります。そういう意味で、この讃美歌は造られ、そしてついにヨハネの教会でも受け継がれていた、と考えられます。
しかし釈義上の重要な問題が実はもう一つあります。それは1節の三つ目の文で「言は神であった」とありますね。その三つ目の「言は神であった」という所の、「言」という字には、確かに冠詞がありますので、やはりこれには特定の人格存在が想定されており、この「言」は、神の御子を意味すると考えられます。しかしその後の「神であった」という「神」には、実は「冠詞」は付けられてはいないのです。したがって、どちらかと言えば、文法的には、話の主語や主体となる名詞として、この神という字は用いられているのではないようです。つまり、最初の「神と共にあった」という冠詞のついた「神」は、明らかに「父なる神」という特定の人格存在を指すのですが、この三つめの「神であった」という冠詞のない「神」は、実は、性質や本質を叙述して説明する述語の働きとして用いられている、ということになります。そのため、冠詞は付けて特定の人格存在としての意味ではなく、性質や本質を説明する述語として用いたために、冠詞は付けられなかったようです。要するに「神」という言葉には二つの用法があって、一つは「父」「子」「霊」のように、三つの位格(ペルソナ)を指す、その一つである「父なる神」を指す「神」です。ヨハネによる福音書では、特定の人格的な存在、つまり「ペルソナ」(位格)を指す「父なる神」です。もう一つは、冠詞のつけられずに性質を説明するための述語として、神としての性質や本質を意味する「神という性質や本質を持っている」という意味で用いられています。古くから、父なる神がおられ、子なる神もおられ、そして霊なる神もおられ、しかもそれらは皆、一つの、一体の神の本質をもって存在していた、という讃美歌として歌われていた、ということになります。その1章1~5節は元々教会の礼拝で歌われていた讃美歌であった、それをヨハネは福音書の冒頭に用いたのだ、というのが、最近の多くの学者たちが指摘する所であります。つまりヨハネは、原始教会の古いロゴス讃歌の讃美歌を、福音書の冒頭に掲げたのです。まさにLex Orandi, Lex Credendiの法則をここに見ることができる、と言えるかも知れません。
さらに加えて言えば、マルコによる福音書においても、主イエスご自身のご受洗に触れて、「1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 1:11 すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」と証言しています。したがってイエスさまのご受洗については、ヨハネによる福音書もまた共観福音書の伝承も、相当はやくから、主イエスにおいて三位一体の神が一体に現存しつつ現れていることを認めていたのではないでしょうか。マルコでは「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声によって、聖霊が降る中で主イエスが「神の御子」であるとする宣言がなされ、ヨハネでは「だから、この方こそ神の子である」と証言して、より直接的な信仰告白として、主イエスの洗礼における神の働きが言い表されています。こうして、永遠の神の御子であり、天地創造を仲介した先在の「言」(ロゴス)は、まさに父なる神とは明確に区別されるお方として、主イエスの受肉において、世の罪を取り除く神の小羊として地上に現れたのです。
3.「世の罪を取り除く神の小羊」
このヨハネ福音書の証言で、さらに意味深い点は、メシアの証言の中心に、最初からはっきりと「世の罪を取り除く神の小羊だ」と告白していることです。いわば「神の言」が世に現れる本当の姿は「世の罪を取り除く神の小羊」として現れる、と告知したのです。しかも神の栄光は、「世の罪を取り除く神の小羊」において、全て明らかなることを既に言い表しています。三一体の神そのもの啓示は、全て「言」を通して、しかも「世の罪を取り除く神の小羊」として、受肉のイエス・キリストのうちに現わされる、というキリスト証言です。言い換えれば、キリストの物語とは、或いはイエスを描く福音書とは、永遠から先在する神の言がこの世のために受肉して、生贄の神の小羊となって十字架の死に至るまで従順を尽くし世の罪を取り除くという「受肉した神の贖罪者」として神の啓示の全ては現わされた、という福音の告知を意味します。
実にヨハネらしい、ヨハネの典型的メシア証言は、「言は肉となって、私たちの間に宿られた」という先在の神のロゴスの受肉において、神ご自身の全ては現された、という「受肉のメシア」を証言している所に、その語り方の特徴があります。この「受肉のメシア」を受け入れる信仰において、神の本質の全てが啓示され現わされる。この神の本質とその啓示を信じて受け入れる信仰共同体こそ、まさに「ロゴス讃美」の讃美歌を歌い継ぐヨハネの教会である、ということになります。いわば、ヨハネは、ヨハネの教会と共に、ロゴス讃美の讃美歌を歌い継ぐ中で、受け継いだ神のロゴスの信仰を言い表している、それがまさにヨハネによる福音書となった、ということでありましょう。したがって洗礼者ヨハネとは、こうしたヨハネによる福音書の中で、福音の物語を時間の枠の中で福音の初めとして宣言する預言者としてではなく、既に永遠の昔から万物創造の前から先在する「言が受肉して到来する」ことを、ヨハネの教会と共に証言する証言者として、登場させられ用いられているようにも、見えます。
さらにヨハネらしい点について、信仰との関わりから、触れておきたいと思います。これまで繰り返し、先在のロゴスである神の御子が、聖霊によって処女マリアに宿り、人として受肉し人間本性の全てを引き受けて担い、十字架の死に至るまで従順を尽くして、人類の罪を償い、贖罪の死を遂げられた、とお話して来ました。それが、旧約聖書によって預言されて来た「神の小羊」です。罪を償う贖罪の生贄として神に奉献されるもっともよい献げものが、神の小羊であり、主イエス・キリストご自身であります。パウロは、ヨハネ以上に旧約聖書の預言に基づいて「福音」の意味に、即ち「十字架の死による贖罪」について、光を当てています。パウロはキリストの贖罪が神の啓示の全てを示すゆえに、だからこそ「信仰」の外に、受けるべき方法がないことを明らかにしています。「3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ローマ3:21~26)と、パウロは語り、キリストの十字架を信じる受け入れる信仰によってのみ、罪人は義と認められた、と告白します。ヨハネもまた同じように、「3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ3:17~18)と告白しています。受肉した神の御子の十字架の死に、「世の罪を除く神の小羊」を認め、その贖罪を信じ受け入れる信仰により、その恩恵にあずかり、義と認められて、裁かれることはない、という神の御子の十字架による贖罪の恵みとその信仰による救いを、パウロもヨハネも共に明らかにしています。その結果、この完全絶対の恩寵である啓示、即ち福音に対して、人々に許される態度は、たった一つ、純粋に信仰だけをもって、感謝と喜びのうちに、信じ受け入れることだけなのです。こうして、パウロは、信仰によってのみ義とされる、という信仰義認の道を説いたのです。そしてヨハネもまた、「御子を信じる者は裁かれない」とはっきりと言い切って、信仰による神の完全な赦しを宣言したのであります。