2022.6.26 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第4主日礼拝
ローマの信徒への手紙講解説教2
説教「福音の力と人間の罪」
聖書 ハバクク書2章1~4節
ローマの信徒への手紙1章16~32節
聖書
1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。1:25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。
造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。1:26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、1:27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。
説教
はじめに. 「神の福音のために選び出し、召された使徒となった」
パウロは、文字通り、徹底した「キリスト・イエスの奴隷(僕)」として、キリスト・イエスを「主人」とし、「神の福音」のために、仕える奴隷である自己を示し、この壮大な福音の説教を書き始めました。自分は惨めな罪による死と滅びの奴隷である。神の義に導くはずの「律法」さえも、一生懸命に守ろうとすればするほど、守り切れない自分が見えて来て、自分は罪に支配された「罪の奴隷」であることが分かるのです。律法の奴隷から罪の奴隷であることが分かり、その結果、自分は「死と滅びの奴隷」にすぎない、と宣告されてしまうのです。「律法の奴隷」として懸命に仕えれば仕えるほど、「死と滅びの奴隷」である実態が、明らかにされてゆくのであります。そうした死と滅びの宣告と絶望の中にあって、罪と死の奴隷であったパウロのために、主イエス・キリストは、十字架の死というご自身の命の代価を支払って、死と滅びから復活による永遠の命のもとに、パウロを買い戻してくださったのです。すなわち、パウロは、キリストの支払った十字架の死と復活という犠牲の代価によって、罪による死と滅びから、新しい永遠の命に贖われ、買い戻されて、主イエスを主人とする奴隷となって、神の福音に仕える使徒として召され、選び分かたれてたのです。律法の奴隷でもなく、罪の奴隷でもない、神の福音のためにキリスト・イエスを主人として仕える僕として聖別されたのです。しかもそれは、生まれるずっと前から、神によって選びだされ、召され、初めから聖別されて取り分けられていた、と知ったのです。こうして、パウロは、自分がだれであるか、自分の本当の姿を、はっきりと認識したのです。それが、「パウロ即ち奴隷」という自己紹介から、この手紙を書き始めなければならなかった理由です。「奴隷」という自己紹介は、まさにパウロの根源的な原点であり、同時にまた生まれる前から永遠に選ばれていた在り方でした。「死の奴隷」が、「神の福音の奴隷」として生まれ変わり、神が主人となってくださり、力ある福音のみわざを行われる恵みの原点ともなったのでありました。
パウロは、早くから、世界の宗教文化や文明の中心であったローマに訪れたい、そしてこの絶大な神の力である福音を告げ知らせたい、と切望していましたが、エルサレム教会のために献金を届ける責任を優先させたため、ローマ行きは断念して、エルサレムへ向かう途中、ガイオ宅で、この壮大なる福音の説教を、手紙の形で、口実筆記させ、テルティオに託しました。前回は、その手紙の冒頭一章1~7節の自己紹介、そして8~17節の挨拶を読んだ所でありました。本日は、その続きで、いよいよ本題である神の福音に入ります。
1.「わたしは福音を恥じとしない」(16節)
パウロは、自己紹介と挨拶を書き終えて、いよいよ「神の福音」という本題に入ります。その第一声が「わたしは福音を恥としない(Ouv ga.r evpaiscu,nomai to. euvagge,lion)」という言葉です。恥じとしないのは、なぜなら「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と書いています。「福音を恥としない」その第一の理由は、「福音」には、「神の力」が漲り溢れているからだ、と言うのです。では、福音は「神の力」であるというのは、どういうことでしょうか。原典をそのまま紹介しますと、「力だ、神の」(du,namij ga.r qeou/ evstin)となっています。何よりも先ず福音とは絶大な「力だ!」というのです。わたしは福音を恥としない、なぜならそれは、福音にこそ唯一真の神の力が完全に現わされているからだ、というのです。「力」(デュナミスdu,namij)という言葉の意味を非常によく表しているのが、あの爆薬のダイナマイトという言葉です。第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして現在も同じですが、地球を破壊する爆発力です。どんなものでも一瞬で世界万物を吹き飛ばしてしまう絶大な「力」を持っている、と言うのです。この「力」は、どんな爆発力なのでしょうか。
人類は皆、ローマ皇帝でさえも、悪や罪そして死と滅びに対しては、完全に無抵抗であり、奴隷となって支配を任せるしかありません。この死と滅びを一瞬で吹き飛ばして消滅させてしまう、絶大な爆発力ををもって、神は福音の中に現れたのです。その死と滅びの全てを一瞬にして完全に吹き飛ばして消滅させるだけではなく、何と、また一瞬にして全く新しい永遠の命の世界をそこに造り出して、人類を命と希望のもとに解放したのです。
しかも続いて言われますように、この福音における爆発的な力は、即ち「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」と、パウロは告げ知らせます。ここで決定的に意味深いことは、「救いをもたらす神の力」であり、それは「信じる者すべてに」と言っていることです。つまり「信じる者すべてに救いをもたらす」という偏りのない、公正と正義に満ちた神の力です。ここで是非注目すべき言葉で「信じる者すべてに」救いをもたらせる力である、という点です。神の力は、救いにあって、その救いは信じる者すべてに齎されるのです。「信じる」ということを、端的に言えば、ただ信じて「受け入れる」だけで、ということです。「受け入れる」というのであれば、こちら側は空っぽでよいのです。何もいりません。条件もなければ、前提もないので、ただで「恵み」として無償に与えられる神の力である、ということになります。しかも「受け入れる」のであれば、かえって、「空っぽ」であればあるほど、たくさんのものを受け入れられるので、空っぽの方がよいのです。なぜなら、空っぽで空洞が大きければ大きいほど、神の恵と力は、大きく豊かに働くからです。無限のゼロで、よいのです。こちら側に神の働きを邪魔するような余計なものは何もない方が、かえってよいのです。カール・バルトは、信仰を「空洞」(Vakuum)と表現しましたが、福音という絶大な神の力をいただくには、こちら側に用意すべきものは何一ついらない、ということなのです。
ただ「空っぽ」で信じ受け入れればよい、と言うのであれば、それを言い換えれば、神は、福音においては、無償で無条件で或いは無前提に、ただの「恵み」として一方的に与える「力」となって働く、ということになるのではないでしょうか。「信じれば」何もいらない、と言うのは、神の力は、いつも「恵み」として一方的に、無条件で働くからです。パウロが「力」と言ったのは、神としての本当の「力」は、何の条件もいらない空洞の信仰に、無限のゼロにおいて、死を命に変える無限の「恵み」として、爆発的に発揮されるのです。無からすべてを創造する恵みの力であります。逆にこちら側で、あれこれと用意がありますなどと言い、いろいろと余計なことをすれば、それは、神の恵みとして働く絶大な力を、人間の力で拒むことになり、結果として神の力を排除し拒絶することになり、神からの救いは与えられないまま、自分の力を依り頼むことになるのではないでしょうか。したがって「力」とは、無条件かつ無償で、神さまからの一方的な恵みとして誰にもどんな差別区別なく、ただ空っぽになって受け入れるだけで、その無限の恵みは全て与えられるのです。「神の力」は、このように、無条件の「恵み」として、働き現れることであり、その恵みの力は、死も滅びも一瞬で吹き飛ばしてしまい、永遠に命溢れる世界に一変させる無限の創造力なのです。神の力とは、無条件の神の恵みであり、無限の神の創造力である、とも言えましょう。だから、福音の恵みは、ユダヤ人もギリシャ人も日本人も全く関係なく、無条件で絶大な恵みとして与えられるのです。なぜなら、その「力」は、「神の」まさに万物と命を無から創造する無限の力であって、神以外のものは皆、被造物として、その恵みをただいただく以外に方法はないからです。だから、信じて、すなわち空っぽになって受け入れされすれば、それで充分であり、空っぽであればあるほど、神の無限の恵みとして働くこの力を、本来の力として、よく知ることができます。自分で何か用意しようとすれば、自分に目が行ってしまい、神本来の恵みを見失ってしまいます。無為自然とは、まさにこの空っぽの信仰のことに用いられて然るべきであり、それは神がないのではなくて、神が爆発的な恵みの力によってお救いくださるのであるから、そのお力を信頼してお任せすればよいのであります。だからこそ、即ち無前提・無償・無条件に「恵み」として働く神の力であり、そこには、すべての差別や区別は既に完全に撤廃されているのです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」と言い表した通りです。
「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす」ということは、人種やそれに基づく宗教は何ら意味を持たないということであり、もう少し広く解釈すれば、どんな人種、文化、宗教、言語であろうと、人間の側に対しては一切のことを問わない、ただ空っぽになってただ信じ受け入れるだけでよいのです。なぜなら全ては神ご自身がご用意くだったからです。神は全ての代価を支払って私たちを回復し、爆発的な力をもって新たな命を創造してくださるからです。墓の中に入れられようと、土の塵に帰ろうと、一瞬にして死と滅びの世界は吹き飛ばして復活という永遠の命に造り変えてくださるのです。しかもその力はただ「信じる者すべてに(panti. tw/| pisteu,onti)」に与えられたのです。この「全てに(pa/j panti.)」という形容詞は、あらゆる、あらんかぎりの、一つの例外もなくまた欠けも無いという意味で、差別区別は一切なく、「全て」に与えられる普遍的な救いの力である、という意味です。福音とは、神が「恵み」の主として、また「新しい創造」の主として、しかも一切の差別区別のない普遍的救いの力として、お姿を顕現してお働きなられた出来事を言います。
パウロは「力(du,namij)神の(qeo,j qeou/)」について「救いをもたらす(eivj swthri,an)」力であると定義していました。「もたらす」と訳されている元の字は、前置詞(eivj)で、非常の幅広い意味があります。たとえば、ものやことの変質・変化・転換・移動など、或いは状況・状態や場所・空間における変容・移動・変動など、動的でダイナミックな変化を表現する字です。ですから「救い(swthri,a)」という全く異なる新しい変容の中に、直ちに招き入れる、変化に至らしめることを意味します。死という実態から、全く異なる命という新しい創造に瞬く間に大転換してしまうのです。神が「光あれ」と言われると「光はあった」というあの驚異的な創造力です。パウロは、そうした福音という神の絶大な力を、ローマの皆さんと分かち合いたい、というのです。福音を恥としない、とはそういう福音の「力」を知っていたからでありましょう。
2.「福音には、神の義が啓示されています」(17節)
そればかりか、パウロは、「福音」という「神の力」について、その力が発揮され現わされる仕方について、さらに「1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」と告げます。パウロはここで、「神の力」を根源から支える原理がある、即ち神は、その力において「神の義」を貫き実現しようとされる、という言うのです。「神の義が、なぜなら、啓示されているから(dikaiosu,nh ga.r qeou/ evn auvtw/| avpokalu,ptetai)」だと解き明かしています。「福音」は、絶大な神の「力」となって働くのは、その根底に、「神の義が啓示されている」からであり、特に「神の義」が明らかになって現わされているからであるからです。神の力が神の力となって働く根源に、「神の義」が啓示されて、明らかになるからです。
こうした「神の義」(dikaiosu,nh qeou)が「啓示されている」(avpokalu,ptetai)という表現、その意味について、是非ともさらに注意深く読む必要があります。「啓示する、啓示されている」(avpokalu,ptw avpokalu,ptetai)という言葉は、「聖書」とは何か、それをそのまま言い表す重要用語だと言えます。よく聖書は「神のことば」であると言われます。それは、聖書という書物のうちに、「神」という存在を覆い隠している覆いが取り除かれて、その性質やお姿が露に現わされ、神のことばを神ご自身が語り、それをそのまま神のことばとして証言されているからです。ここで決定的な意義をもつのは、主語であり、即ち啓示する啓示者ご自身が「神」である、ということです。神の啓示は、基本原理として、地上に根拠を持たず超越した「天」から、現わされるのであり、人ではなく「神」ご自身によって、啓示されることです。極論すれば、啓示行為は、一方的に神のみによる、天からの極めて排他的で超越的な行為です。したがって「聖書」が「啓示のことば」であるとするならば、語るお方は神が天からお語りになってご自身を現わすのであり、人間が書いた書物として読むことは出来なくなります。神ご自身が語られお書きになった「神のことば」すなわち「聖なる書」として読むべき神の書物となります。人間や地上から読みまたは聞くのではなくて、徹底的に神の方から、神ご自身が天から語られる、神のことばとして、福音は啓示されているのです。したがって、神を基準として読み聞くのでなければ読み解くことはできません。人間や自分の欲求、自分の聴きたいことを基準にして読み聞きすればするほど、理解は遠退いてゆくばかりです。神が神の啓示のことばとしてお語りになり、私たちはそれを神の天からの真理のことばとして聞き入れ聴き直すこと、すなわち聖書に対して信頼と従順をもって読み聞きすることが求められます。それゆえ、人間である私たちには空っぽの信仰によってのみ、聖書のことばを聞き入れてゆく謙遜な態度が求められます。神の啓示であるから、それを神の啓示のことばとして、信じて受け入れるのです。
そこで重要な問題は、果たして神は天から、いったい何を、啓示したのか、ということになります。それが「神の義」であります。神が「力」あるお方として働き、ご自身のお姿を現す場は、「神の義」において、であります。神の義が、神の力となって、福音の中に現わされた、と言えます。「神の義」が主語で、しかも「啓示されている」という動詞は、現在形受動態で書かれています。したがって「神の義」とは、「今」ここに啓示されて現在ある、ということになります。聖書のことばを読みまた聞く人に対して、現在の出来事として、あなたの前に今ここに明らかにされてある事実として、強く迫る現実があるのです。それが「神の義」です。天を裂いて地上に現れて、今ここて聞く私たちに、神の義が顕現され、神は義なるお方として、私たちに迫るのです。パウロは、そういう現在の出来事として、今ここにわたしたちに迫る神の啓示として、書いています。では、この神の義とは、何でしょうか、神が義なるお方としてご自身を現わされ、啓示するとは、どういうことなのでしょうか。
パウロは、奴隷でありました。律法学者の中でも最も優秀と言われる律法主義者でした。先週「律法の奴隷」であったという話をしましたが、まさに律法を完全に守り通すことで、神の義を実現しようとした人であり、それゆえ生涯が律法によって規定され拘束されていた「律法の奴隷」でありました。義という正義、神の義という神から完全承認を受けるべき神の義を実現できず、パウロは苦悩したことは前回もお話した通りです。したがって、パウロは、自分のうちに義はないこと、ましてやこの世の人類のうちに神の義はなく、人は決して自分の手にすることはできない、それが神の義であり、それゆえ、パウロは律法に対する敗北者であり、不義の奴隷でありました。神を主語とする「啓示する」という字から、考えますと、まさに「神の義」とは、神が力あるお方として、神の恵みにおいて爆発的にその力を発揮してご自身を露にお示しになるのですが、そこに明らかにされこととは「神の義」であり、神の義が絶大な神の力としてまた恵みとして与えられることであります。パウロが「罪と死の奴隷」から「キリストの奴隷」へと移されたのは、この爆発的な神の力によってであり、その神の力とは、無条件にただ受け入れるだけの「恵み」として働く神の「力」でありました。その恵みとして無条件に働く力において明らかにされたこと、それが「神の義」であります。すなわち「神の義」とは、十字架に死に至るまで従順に死の代価を支払い罪を償われた、また復活という新しい永遠の命のもとにパウロを買い戻した、十字架と復活において啓示された「神の義」であります。神がキリストという主人となって代価を支払い買い戻してくださったという事実が、今のパウロの本当の姿を指し示しています。だからこそ、パウロは自分を「キリスト・イエスの奴隷(僕)」と言って自己紹介し、この壮大な福音の物語を書き始めたのであります。そして今もなお、永遠に変わらない、二度と色あせたり朽ち果てたりしない、永遠の現在として「啓示されている」のであります。
その神の義を、パウロは、今のいつもそのまま、ただ只管に感謝と喜びにあふれて、空っぽの信仰をもって、信じて受け入れるばかりでした。「生きる」とはこの天から啓示された「神の義」を源泉として始まるのであり、また同じように「生きる」とは、まさにこの天からの啓示である「神の義」を源泉として終わるのです。終始一貫全ては「神の義」を源泉として生まれ「神の義」において終わるのです。パウロは「1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」と書きました。ここで、パウロは、神の義について解き明かして、それは信仰による、と語り、「信仰による」ことを強調しています。
実は、先ほどバルトの「空洞」としての信仰について触れましたが、確かにそれは神学的理念として理解できても、実際に信仰実践の問題として捉えますと、果たして私たちはどこまで、神の恵みとして働く神の力に対して、即ち神の義の啓示に対して「空っぽ」しなることができるのでしょうか。鎌倉で思春期に学んだ臨済宗の禅でも「無」をもって悟りとすることを教えられましたが、「無」になることは出来ませんでした。無になっても、そこには「力」も「義」も見えず、孤独でありました。庭の石を見て石になるのですが、やはり分別が起こり、石と自分とが争い始めるのです。やはり、私たちは素直に、神の啓示として神の義を、神の恩恵や憐れみをただで空っぽになって受け入れる、ということが難しい、できないことのようにも思われます。やっぱり「自分」を貫き押し通すのです。反対に、心から「主人」を認めて、自分を空っぽにしてただ神を信頼し、主人の憐れみを受け入れることができないのです。神の義を源泉として、それを空っぽの信仰によって信じ受け入れ、ただ神の義とその憐れみだけにすがり、空っぽな信仰から信仰へと終始一貫することができないのです。教会の説教でさえ、神のことばを純粋に聞く、というのではなく、つまり信仰によって神の福音を聴こうとするのではなく、自分の聴きたい言葉を求めていつも都合の良いように求めて聴きたいのです。時には、自分の求めるものがないと、福音がない、と心の中で罵り説教を斥け、いつの間にか、「自分」が福音を定める決定者なって、極論すれば、神ではない自分が審判者となって礼拝席に座ってしまうようになるのです。神からの啓示のみことばを聴くのではなく、自分という人間から自分の欲求が神の啓示することばとなって聞いてしまうのです。
この問題はさらに深刻です。なぜなら「啓示されています」と現在形で書かれていましたように、常にいつも今迫る神の義に対して、常に心を明け渡すことができない、という現実が問われることになるからです。なぜ、なのでしょうか。その理由は、二つあります。一つは、本質的な問題として、この不信仰と不義の問題は、わたしたち人間が決して「自分の力」では解決できる問題ではない、ということを知らねばなりません。矛盾のように聞こえますが、一方で自分の力に頼れず、神の力による、と言いながら、他方で、その神の力にも頼ろうとしないで自分の力を求めるのです。さあ、そこでどうすればよいのでしょうか。これは根本的な矛盾であり、絶対絶命の聴きです。神なのに、人を中心とするのであれば、信仰によって神の義は得られず、死と滅びを自ら選び取ることになり、自滅します。しかも、では自分から空っぽになって信仰に生きようとするのですが、常に自分を支配するのは、ただ神への背きであり、自我欲求の支配であります。いったいどうすればよいのでしょうか。ただ一つ、それは、自分の力から神の恵を受け入れる「悔い改め」です。ここで徹底的に問題となること、それが、あなたの神に向かう「悔い改め」です。パウロは徹底的に神を主人としたいので「奴隷」という言い方をいたしました。それは、自分の意志や力で方向転換したというよりも、一方的に神が主人となって代価を支払って、死と滅びから自分を買い戻された、という完全な事実の前に立ったからです。言い換えれば、神お独りだけが初めてその主人となってそのご計画と選びに基づいて、人間の背きと罪の問題を解決してくださることだからです。したがって神のご意志とご計画によるのです。この意味からすれば、人間を超える神の問題でもあります。極論すれば、神は恵みの神として力をもって、パウロは屈服させ敗北させ死の奴隷にした、その結果、パウロはそのままの恵みのもとに、奴隷を受け入れたと言えるかも知れません。
もう一つ、さらに大事なことは、「愛と憐れみ」に触れて、心から愛されたことを本当に知ることです。これも本質的には人間を超える神の問題と言えますが、それでも、どんな罪と背きに支配された人間を「神は憐れみをもって赦す」という無制限に働く神の力こそ、解決の突破口であり、贖罪の力によるものです。よく神学では、特にルターの義認論を問題する際に、義認と聖化ということが問題に出されますが、義と認めて赦すと同時に聖化へと導く「恵み」として働く神の力を言います。その力の源は、別の助け主として働く聖霊であり、聖書のことばであり、説教であり、洗礼と聖餐を通して働く神の恵と力です。「神の義」の中枢で、いわば十字架の死に至る主イエスにおいて、神の小羊として完全にそして無限に罪を償う贖罪の力が働いていることが、そうした不信仰と不義をいよいよ明らかにします。しかし一方で不義と不信仰をあらかにしつつ、不断の悔い改めに導き、新たに向かうべき方向も明らかにされます。上手く表現しきれませんが、わたしたちの不信仰と不義が深まれば深まり、自分に絶望すればするほど、神の恵みと憐れみとして働く「力」は絶大となり、明らかに啓示されることになるのではないでしょうか。だからある意味で、裁きの前に立ち裁かれる経験もありうることでありましょう。裁かれ裁きを知ることで、愛と赦しの意義は深めることもありうるからです。汲めども汲めども汲み尽くすことのできない、神の愛と憐れみは、「神の義」として常に現在形で啓示されており、いつも私たちの不義と不信仰は悔い改めに向かって裁かれ続けますが、同時にそこでこそ初めて、だからこそ今ここで絶望にあって渇くがゆえに「さあ、飲みなさい」と言ってご自身を差し出すみことばが聞けるようになるのです。そしてその裁きの席で、泉のように湧き溢れて神の愛と恵みよる命をすすり飲むことも許されているはずです。「信仰による義人は生きる」とは、そういうことでありましょう。義人は、信仰によって生きるのですが、それ以上に、その前に「義人」とは、「神の義」のおかげで、その恩恵を信仰によって受け入れられるように愛と憐れみの力によって導かれ、そして信仰によって義の恵を知る義人であります。神の義を受け入れる信仰のない所に、神の義が与えられ実現する場もないのであり、したがって最初から義人など一人もいないはずであります。人はただ神の恵みのもとで、その愛と憐れみに恵みとして導かれ支えられてこそ、神と共に歩むことができるのであります。
3.「神は天から怒りを現されます」(18節)
パウロは「福音」の本質に更に深く踏み入って語ります。これまで「神の福音」を「救いをもたらす神の力」と言い、その「神の力」の根源において「神の義が啓示されている」と語りました。そして今度は18節で「神は天から怒りを現されます」と告げます。つまり「神の義」ゆえに、福音は神の力であり恵みである、と言えるのですが、しかし今度は「神の義」は同時に「神の怒り」でもあるのだ、と指摘します。この18節の翻訳で、口語訳聖書は非常に特徴ある訳をしています。「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。」と訳して、最初に「神の怒り」という言葉が出るように、とても苦心して訳しています。原典は「啓示されたからだ、なぜなら怒りが、神の」(VApokalu,ptetai ga.r ovrgh. qeou/)と書かれているからです。聖書を邦訳にする場合、何を大事にするか、それによって訳し方が大きく変わります。文法なのか、意味なのか、それとも日本語らしい訳なのか、さまざまな論点がありますが、口語訳は、原典の「啓示のことば」としての意味と力とを重んじたようです。原典の特徴は「なぜなら、怒りが」という点にあります。パウロは、ここではっきりと、人間の不義と不信仰に対して「神の義は、なぜなら神の怒りとなって、神の怒りを天からから現わされる」と説いています。パウロは、信仰による義人は生きると言って、信仰について語ってきたのですが、その信仰は、自分を無にして従順に神を信じ受け入れる空っぽの信仰をもって、神の福音の「力」を認め、自分の全てを神の福音に向かって自己を完全に明け渡します。しかし反対に、その信仰が、人間の側による不義と不信仰が働くゆえに、絶えず神の真理はいつも阻まれてしまいます。神の義は、本来の神の義と正しさは、完全な正しさゆえに、不義と不信仰に対しては当然ながら「怒り」或いは「裁き」となって現れます。パウロが「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」(口語訳)と記したように、神は、福音において、義と恵みとして働き、救いの力となって働く、と説いて、神の力と神の義について語りましたが、その一方で、反対に、不義と不信仰に対しては「怒り」となる、と語ります。新改訳聖書では、神の義が神の怒りとなって現れる理由について、「というのは」と訳して、「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」(新改訳)と訳しています。つまり、神の義は「神の怒り」となる。それは、なぜなら神の怒りが、不義と不信仰に対しては、神の義は、完全に正しいがゆえに、神の怒り、神の審判となって、露にあらわにされている、というわけです。奴隷のために十字架の死至るまで代価を支払って命のもとに買い戻す、という主人の喜ばしい働きは、感謝と喜びをもって受け入れる信仰のもとでは、信仰によって生きる、新たに生かされる祝福となり新生の道を開くのですが、反対に「不義によって人間のあらゆる不信心と不義に対して」は、真理を妨げ阻むがゆえに、その結果として「不信仰」のままに閉じ込められてしまうのです。不義と不信仰ゆえに真理を阻んだ結果、神の正義は「神の怒り」となって天から啓示されるのです。
パウロはここで、さらに、己を無にして空っぽな信仰をもって、主人とその福音を喜びをもって受け入れることが出来ない人間の「不信心と不義」について、しかも「不義によって真理の働きを妨げる(阻む)罪深い邪悪な人間」について、より深く見つめようとします。ヨハネによる福音書は3章で「3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:18~19)と記しています。信じないのは、闇の方を好み、悪を行うことになり、光を憎んで神に増々背き、その信じないことは、かみの裁きと怒りとなって明らかにされる、というのです。パウロは、人間には(神の)真理の働きを妨げ阻んでいる不義がある、と言っています。神は信仰には恵みと力を、不信仰には怒りを発揮されるのです。
教会の伝道と牧会の難しさはここにあります。信仰による救いは、自分が信仰して自分の信仰で作り上げる救いなど、聖書にはありません。また、神に義とされるとは、信仰によって自分が認められるようになることでもないのです。むしろ、信仰によって、自分は神の前に絶対に認められないことを受け入れ承認することです。近代現代社会で最も価値あるものは人権であると考えます。その通り、それは間違いのないことです。しかしそれ以上のことは余り考えようとはしないのではないでしょうか。自分を守るために、自分の国を守るために、武器をもって戦いますが、その次は、戦争と殺戮のディレンマに陥ることになり、結局は相手を殺し滅びし尽くすまでは、自分を守ることができなくなってしまうのです。近代現代ほど、残酷な大量殺戮と破壊を繰り返した、世界規模の世界大戦の奴隷になった時代は、歴史に例を見ることはできません。人間は最も優れた解決者であると自負しますが、人類史上、たった一つの殺人さえ解決できないでいるのです。問題は、人間以上の存在と力を認めないからです。自分が最高の知恵であり判断者であり裁き主であると、恰も神のように自分を絶対化して、自分以上の神を心から認めようとしないのです。人間には知恵があり、人間は愛と優しい心がある、と言いますが、その最先端の時代で、殺し合いはいよいよ残虐さを増し虐殺へと進んで、次は更に巨大殺戮兵器を求め、絶滅を求めて進んでゆきます。それが人間を絶対化して神は死んだと言って神を殺してしまった近代現代の本質であります。大事なことは、人間以上に力をもって働き、人間以上に愛と憐れみをもって共に歩もうとする神を、心から、先ず自分自身の心のうちに、受け入れ認めることであります。人間の傲慢を悔い改めて、自分を主とする生活から、神を主とする生活に方向転換するのです。時間も物事もお金も、自分のために用いる生活から、神のために用いる生活への方向転換が求められています。しかしその本当の意義が分からないのです。その結果、教会生活や信仰は軽蔑され、いつの間にか、教会生活や信仰の内容が人間中心のヒューマニズムに変質してしまうのです。神の名のもとに、自分を認めてもらい、自我欲求を満たす場へと、信仰の本質も教会の在り方さえも、大きく変質されてしまうのです。その結果、神の怒りは露に示されるのです。すでにその行いは裁きとなって露呈するのであります。教会に生じるさまざまな問題は、全てはこうした神の真理を阻み妨げようとする人間の傲慢によるものであります。早急な悔い改めが求められますが、神の怒りの中で、裁かれ滅びるのでしょうか。人を本当の人として尊厳豊かに救えるのは、神の力であり神の義であり、神の恵みであります。
4.「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず」(21節)
「神の義」は、一方で、信仰に対しては「救いをもたらす神の力」として現されますが、他方、不義と不信仰に対しては「神の怒り」として現されます。神の義は救いでありつつ同時にまた裁きとなります。神の義そのものは全く同じ一つの神の義ですが、つまり、神はご自身を完全に正しいお方として啓示なさるのですが、それを受ける信仰と不信仰とによって啓示されて現れる結果は一方で「救い」他方で「怒り」となって分岐します。ヨハネによる福音書3章18節で証言される通りです。人間の考える順序から言いますと、不義があるから神の怒りが現されるはずだと考えますが、パウロは単純にそうは言いません。実は「神の義」そのものの中に、既に「神の怒り」も「神の救い」も同時に啓示され現れているのではないでしょうか。或いはこうも言えるかも知れません。即ち「神の義」の前には、「不義と不信心」も「救いと怒り」も、非常にダイナミックにしかも逆説的に啓示され現わされている、と考えられないでしょうか。信仰と救いや不信仰と怒りを、固定的にかつ形式的に捉えるよりも、信仰と不信仰は常に同時に危機的な状態におかれている、と考えてよいのではないでしょうか。啓示とは、場合によっては両者は常に入れ替わり、否定と肯定とは逆説的に働き現れる、と理解できそうです。なぜなら、信仰とは、最初から不動の信仰なのでしょうか。義人が最初から義人であったのではなく、義人は信仰によって義とされて、信仰によって生きることができのと同じように、信仰もまた不信仰から悔い改めという恵みを必要とするからです。信仰は、不信仰という自己承認を経て、神の赦しと救いの恵みを乞いもとめつつ、神の愛と力により、しかも神の正しさにおいて赦しの承認を受けて、はじめて信仰に立つことが許されるからです。信仰は自己承認からではなく、神からの赦しの受け入れ認め、人間における承認から神の憐れみと力溢れる赦しの承認において全てに意義を方向転換させる悔い改めに基づくからです。逆に「信仰」を人間が自己承認すれば、皮肉にも逆説的に、自己義認となり、結果として神の怒りと裁きを受けることになるのではないでしょうか。
パウロは非常に意味伸長な用語を用いて、その神の怒りを解き明かそうとしています。先になりますが、先ず21節で「1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」と明記します。その上で改めて、24節で「そこで神は、彼らが心の望によって不潔なことをするようにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」という表現の仕方をしています。同じように、26節「神は彼らを恥ずべき浴場にまかせられたました」と言い、28節「神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」と記し、そしてパウロはさらに、ストア派の哲学では不道徳の極みとされた不道徳項目の一覧を並び立て、31節で「死に値するという神の定め」であると断罪しています。神は、神の怒りの現れとして、「神の定め」として死に値する行為に彼らを任せられ、渡され、定められた、ということになります。このように「神の怒り」が啓示される根本原因には、言うまでもなく「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず」「むなしい思いにふけり、心が鈍くなったから」(21節)であり、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替え」(23節)、しかも「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えた」(25節)からです。人は、神を知りながら、神を神としてあがめることをせず、神の栄光を像と取替え、造られた物を拝んで仕えた、それゆえにその結果として、人は、むなしい思いにふけり心が鈍くなり、欲望によって不潔なことをするにまかせ、互いに体を辱めた、と非常に理路整然と順序立てて、不義と不信心が描かれています。端的に言い換えますと、人間は神から離反し背いたために、本性的に堕落した、ということでありましょう。1章は、人類を根源的な「罪人」として、また人間本性を「罪の奴隷」として、明らかに示して終わります。パウロがこれから壮大な福音の物語を語ってゆくのですが、神の福音を、何よりも先ず、神が正しく公正にそして「恵み」豊かに働く場として、つまり十字架の福音においてこそ、神の真実のすべてが啓示されていることを証言し語ります。それには、どうしても、罪という人間の悲惨について目を向け向き合うことから始めなければならなかったと思われます。しかもこの深刻な罪の実態は、死に値する神の定めとして、語る必要があったと考えらえます。なぜなら、十字架において、神ご自身がこの死に値する神の定めを背負い、ご自身の命の代価を支払って引き受けられたからであります。
パウロは、不義と不信心をめぐり、痛みを一層深く覚えながら語っています。その深刻な背きは「神を知りながら、神としてあがめない、という点です。「神を知りながら」というのは、「1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(20節)と言っています。つまり神の創造のみわざのうちに、そして「神に造れた」被造物であるがゆえに、神の永遠の力と見えない性質は、既に人間には、弁解の余地がないほど、明らかに現わされているからです。だから言い訳できない、弁解の余地がない、言い逃れすることは絶対にできない、と言うのです。したがって、この時点で、人類は既に神に背き、不義となり、不信仰であり、神の怒りを受けて然るべきであります。これが、神さまの側から見た人間観であり、人類に対するの根本的な認識であります。「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)とありますように、「神に従う」とは、「信仰」によって初めて成立するのであり、「信仰」において「神に従う」生活は導かれ実現します。それゆえ、人間による罪の背きは、神による怒りによって、徹底的に裁かれています。これには弁解の余地はありません。人類は皆、例外なく、既にこの恐るべき怒りと裁きの危機の中に立たされているのです。しかも更に重大なことは、この人類の滅びの危機から救うために、神は既に公正かつ義なるお方として、受肉した主イエス・キリストにおいて人間本性の全てを引き受けて背負い、その人間本性において十字架の死に至るまで神への従順を尽くして、命の代価を支払って罪を償い、神の義を得て、栄光の復活を遂げられたのであります。「啓示されています」という現在形動詞は、今もいつも常に、この十字架の事実をもって人類に迫るのであります。ここで神は真の神としてご自身の真実を啓示されたのであります。この啓示を、ただただ空っぽの信仰をもって、ただただ無限に働く恵みとして、受け入れるのであります。その時、一瞬にして、人類と自分自身の死と滅びは吹き飛ばされて、新しい命の創造の恵みと力のもとに新生するのです。罪人であり死と滅びの危機にありつつ、主の十字架の信仰において、永遠の命の恵みに生かされるのです。