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説教題:「心をひとつにして祈る」(教会創立記念日礼拝)

旧約聖書:ヨエル書 3章1~5節
新約聖書:マタイによる福音書 18章15~20節
説教題:「心を一つにして祈る」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-474番
(説教者:武田英夫牧師)

小金井西ノ台教会は1956年9月16日(日) 渡邊 充 牧師によって創立されました。同時に「こどもの国幼稚園」も創設されました。

幾多の困難に見舞われましたが、神の不思議なお導きによってそれらが乗り越えられ、今年で創立53周年です。多くの教職・教会員・協力者の労苦がありましたが、何よりも神様の御導きがなければここにまで至らなかったと思います。

本日の御ことばの内、マタイ18章19~20節には「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とあります。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」とは、この前後の文章で教会の問題が扱われていますので、教会のことと受け取ることができます。従って「たった二~三人の教会でも」と読めるでしょう。

これ迄どれだけ多くの心を一つにした祈りが捧げられたことであろうかと思います。個人的な問題のためには密室の祈りは大切ですが、教会の成長・発展のために皆が心を一つに合わせて主イエスとその父なる神さまに祈ろうではありませんか。

私たちは主イエスの十字架と復活によって結び合わされた者です。私たちを救おうとされた神様の愛を信じて祈りましょう。

説教題:「テサロニケの教会」

旧約聖書:民数記 6章22~2節
新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 1章1~3節
説教題:「テサロニケの教会」 (第一テサロニケ連続講解第1回)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-469番
(説教者:武田英夫牧師)

この「テサロニケの信徒への手紙一」はパウロの第二次伝道旅行の途中の紀元50年頃テサロニケからコリントに到着した直後に、パウロによって記されたものです。現存するパウロの手紙のうちでも最も古いとされていますので、最初の福音書とされているマルコ(紀元70年頃)より前ですから新約聖書中の最初の文書になります。

現在、テッサロニキとなっているこの町はギリシャ第二の都市として当時も非常に栄えていました。パウロたちはフィリピからテサロニケに向かいましたが、そこにはユダヤ人の会堂がありました。約半年間に三回、安息日に聖書について論じ合いましたが多くの信徒が集りパウロたちを受け入れたたため、ユダヤ人たちが妬んだのです。この辺の事情は使徒言行録16~17章にあります。

1節冒頭に「恵みと平和が、あなた方にあるように」とあります。恵みは今日もギリシャでの日常会話となっているそうです。また平和はイスラエルでの「シャローム」という平安を祈る挨拶になっています。

この二つの言葉がパウロによって結合されて、主イエスの十字架と復活という絶大な恵みを知った者に与えられる罪を赦された者の平安を思い、パウロは常に祈りの度に感謝をしているというのです。私たちも兄弟姉妹の上に、恵みと平安とを絶えず祈り求めるものでありたいと思います。

説教題:「弱さを誇る」

旧約聖書:エゼキエル書 8章1~4節
新約聖書:コリントの信徒への手紙二 12章1~10節
説教題:「弱さを誇る」  第二コリント書連続説教(23)
讃美歌(説教後):讃美歌21-451番
(説教者:武田英夫牧師)

パウロは、自分の論敵が、神の居られる天を見たという自慢をしていたことに対抗して、自分も14年前に第三の天、すなわち天国にまで引き上げられ、神の言葉を耳にしたことがあると言って、あたかも他人のことのように話し始めています。

そのように話すのは、決して自分の自慢のためではなく、むしろそのように素晴らしい経験をした者であるにも拘らず、自分には一つの「とげ」が与えられていると言う自分の弱さを述べるための前置きとしてでした。

パウロの「とげ」とは諸説があって確定はできませんが、目の病気説やてんかん説などがあり、身体上の強い苦痛を伴うものであったようです。

パウロはそのとげを取り除いて下さいと何度も神に祈り願っても、その通りには成りませんでした。だが、それは祈りが聞かれなかったのではないのです。神からの応答は「私の恵みは あなたに十分である。力は弱さの中に十分に発揮されるのだ」というものでした。

神さまは人間の願いを忠実に実行する手足ではなく、人間をよく知った上で、最善を与えてくださるお方です。

重い障害を持ちながらも伝道に励んでおられる方々が居られます。その方々は、「神は何もしてくださらない」というのではなく、その弱さを神さまから与えられた賜物とさえ受け取って、その境遇の中での最善を尽くして居られます。主イエスさまが「悲しむ人々は幸いである。その人達は慰められる」と言っておられることを信じて行きましょう。

説教題:「聖霊と永遠の命」

旧約聖書:詩編30編2~6節
新約聖書:使徒言行録2章1~13節
説教題:「聖霊と永遠の命」
讃美歌(説教後):讃美歌21-120番
(説教者:武田英夫牧師)

私たちの教会では、最近は聖霊降臨日(ペンテコステ)の前後に逝去者記念礼拝を行うことにしています。今年は、丁度この日に記念礼拝をすることができました。ペンテコステとは主イエスさまが十字架につけられた過越祭の日から50日目にあたる五旬祭のことです。この日、一堂に集まっていた信者の群れに聖霊が降りました。

聖霊は天地が創造された時から、神の霊として居て下さったのですが、特に十字架の死から御復活なさった主イエスさまの代わりとして私達のそばにいてくださるお方なのです。その聖霊に満たされた信者達はガリラヤの人たちなのに、他国の言葉で神さまの偉大な業について語りだしたのでした。

エフェソの信徒への手紙1章14節には「聖霊は私たちが御国を受け継ぐための保証である」と記されています。御國を受け継ぐとは、永遠の命を与えられて、神と共に住むということですから、私達に聖霊が宿っていることは永遠の命の保証が与えられているということです。

私たち一人ひとりに聖霊が豊かに注がれ、主にあって先に召された信仰の先輩達と共に、神さまの前に立ち、主に贖われた者の感謝と喜びの食卓に共に与ることができるようにと祈るものでありたいと思います。

説教題:「イエスさまと共に歩む」

旧約聖書:ヨブ記 19章25~27節
新約聖書:ルカによる福音書 24章13~32節
説教題:「イエスさまと共に歩む」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-333番
(説教者:武田英夫牧師)

その朝に主イエスさまがご復活された日の午後、まだ主の復活を信じていない二人の弟子達がエルサレムからエマオに向かって歩いていました。もう頼るべきお方が居られなくなったといって、絶望しきっていたことでしょう。

二人は三日前の主イエスの十字架について話し合っていました。そこに後ろから近づいてこられたのはその御復活のイエスさまでした。しかし二人の弟子達はそのことに全く気付きません。

16節には「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と記されています。主イエスが「やり取りしているその話は何のことですか」と聞かれますと、弟子達は当の主イエスに向かい「あなただけはその大事件のことをご存知なかったのですか」と答えました。

エマオで一緒にお泊りになられた主イエスさまが夕食の時に、パンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになられた(30節)時、弟子達はやっと目が開かれて、その方が主イエスさまであると気付かされました。「イエスは今も生きておられる」(23節)と証言されています。主イエスはいつも私たちと共に歩んで下さるお方です。

本日、洗礼を受けられた姉妹も共に与ることができる聖餐は、常に私たち全ての信徒にとり、主イエスの十字架を思うための記念なのです。

説教題:「私たちの本国は天にあります」

旧約聖書:詩編 46章2~4節
新約聖書:フィリピの信徒への手紙 3章20~21節
説教題:「私たちの本国は天にあります」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-507番
(説教者:武田英夫牧師)

パウロは大変誇らしげに「私たちの本国は天にある」(20節a)と言っております。この「本国」は別の訳では「国籍」となっています。それは、天の故郷とも言えます。天とは人間の力の及ばないところ、人間の限界を超えたところを指します。

いま神の右に座っておられる主イエス・キリストが、この世の私たちの許に降って来られる時があるというのです。このことを「使徒信条」も「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審き給わん」と延べています。

「審く」とは神さまによる最後の審判のことで恐ろしいと思われるかもしれませんが、恐れるのは神を信じようとしない人であり、主イエスさまを信じる者にとっては何ら恐ろしいことではなく、むしろ待ち望まれる日です。

20節bにも「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」とあります。さらに21節には「キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです」と続きます。

終りの日に私たちがキリストと同じ栄光の体に変えられ復活させられるとは何と嬉しい預言でしょうか。パウロはそのように約束をして下さる神さまがいつも共にいて下さることを誇っているのです。

説教題:「神に対して生きるために」

旧約聖書:詩編 53編1~7節
新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2章16~21節
説教題:「神に対して生きるために」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-513番
(説教者:武田英夫牧師)

キリストの十字架の死は、神の体当たりの愛であるといえます。まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストが、ただ一回、過去、現在、未来をふくめた、すべての人間のために、十字架上の死を身に受けて下さったということです。

これにまさる救いがどこにあるでしょうか。パウロは、「わたしは神の恵みを無駄にしない」と言っています。

これは、このような神の恵みに対する絶対的な信頼を示す言葉なのです。キリストの十字架の前に、罪の故に、私たちは完全な自己否定を経験をいたします。

私たちは神に対して生きるために、キリストと共に十字架につけられなければならない者です。罪の悔い改めをしなければならない者です。しかし、そのことによって、本当の肯定を神から与えられるのです。惨めな姿であっても、ありのままのその姿で、最大限の肯定をもって神に受け入れられたのです。

十字架のもとにある完全な自己否定は、そのキリストの復活ということによって、大いなる肯定につなげられ、キリストと共に生きること、キリストに従うこと、神に対して生きることが、新しい命として与えられているのです。

キリストの前に常に悔い改め、感謝し、喜びをもって歩むことが出来ますように。

説教題:「新しく創造された者」

旧約聖書:イザヤ書 52章3~10節
新約聖書:コリントの信徒への手紙二 5章16~21節
説教題:「新しく創造された者」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-514番
(説教者:武田英夫牧師)

人は皆、天地の初めに宇宙の万物と共に神によって創造されました。しかし、人は神の戒めを完全に守ることはできなかったために、神から離れる者になりました。そのために神さまは御独り子、イエス様をこの地に生まれさせてくださいました。そして神さまは主イエスによる十字架と復活とを信じるものが一人も滅びないで救われることを約束してくださいました。

パウロは今、「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです」と述べています。つまり、洗礼を受け神さまに従ってゆく約束をした人には、その天地創造に匹敵する新しい創造がなされたのだというのです。

パウロは「神と和解させていただきなさい」と述べています。それは神さまとの正常な関係にない、神様との敵対関係の状態を解消し、神さまに従ってゆく者になりなさいということです。それはキリストと結ばれることによって実現すると教えられます。

キリストと結ばれるとは、神さまの愛の対象として造られた私たちが、その愛を受け入れて、日々神さまと出会う者になることです。そのとき、「古いものは過ぎ去り、新しい者が生じた」と言われるのです。

このような神との和解は決して私たちの努力の結果与えられるものではありません。主イエスの十字架という、驚くべき御業の結果なのです。

説教題:「内なる人は日々新たに」

旧約聖書:詩編 116章1~16節
新約聖書:第二コリント書 4章12~18節
説教題:「内なる人は日々新たに」
讃美歌(説教後):讃美歌 21-403番
(説教者:武田英夫牧師)

第二コリント書4章16節に「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます」とあります。これは単に色々なことに決して落胆しないというのではありません。

ここでの「外なる人」とは外見とか自分に今起きている事柄だけではなく、信仰から離れたことの全体に関わる人を指し、一方「内なる人」とは神さまから信仰面での導きを受けている人を指します。そこで、信仰以外の面で、どのように弱り衰えていくように見える人でも、信仰上では神に導かれている人である私たちは、決して落胆しないと言っているのです。

パウロのような伝道者の生活では外なる人としても多くの困難があったのですが、それが如何に大変であったとしても、新しい希望を持って自分の伝道者としての義務を全うするのだという決意を述べているのです。

私達にとって、信仰と関わりない面での困難は幾らでもあります。神さまを信じている人も信じていない人と同じように色々な困難に出会うとしたら、一体何のために信仰しているのかと言う疑問を持つ時もあるでしょう。でも、内なる人の信仰があれば、そのような積み重ねによって内なる人としての信仰が日々に新たにされ、強められて行きます。それが、過ぎ去り行く見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ人の信仰なのです。

説教題:「全能の神さま」(家族礼拝)

旧約聖書:創世記 1章1~5節
新約聖書:ヨハネ福音書 1章1~5節
説教題:「全能の神さま」 (家族礼拝)
讃美歌(説教後):讃美歌 21-6番
(説教者:武田英夫牧師)

「全能の神」というときの全能とは何でもできるということです。「どんなことでもできる神さまに、何でも祈りなさい」と言われますが、しかし早まってはなりません。

私たちの祈ることは何でもそのままに叶えられるということではありません。何故なら人は自分勝手な願い求めをすることが多いからです。ですから、私たちは祈るとき「み心ならば」と神に願うように教えられています。でも私たちが祈る時、神さまが私たちの祈り求めに耳を傾け聞いていてくださることは確かなことです。

では、神の全能はどこに現わされるのでしょうか。その第一は創世記に記されていた全世界の創造でした。どのような物もそれを造った人が居るように、光も太陽や月も地球も動植物もそして人も、神さまが、イエスとして生まれられる前のキリストと共にお造りになられました。私たち自身も親だけではなく神様の御心によって造られた者であることを忘れてはなりません。

神の全能の第二は主イエスによる愛の業に現わされています。神に背いてばかりいる人間の罪を赦してくださるために主イエスさまは十字架にかかって下さったのです。主イエスは人間の最も低いところにまで降りて来られたのです。