2020年12月13日「主なる神の独り子と神の子たち」 磯部理一郎 牧師

2020.12.13 小金井西ノ台教会 待降第3主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答33~34

子なる神について(3)

 

 

問33 (司式者)

「私たちも神の子であるのに、

なぜ、イエス・キリストは、『その独り子』すなわち神の独り子として生まれた御子、と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「ただイエス・キリストお独りが、永遠からの生まれつきの神の御子だからです。

しかし私たちは、主イエス・キリストによる恵みゆえに、養子として受け入れられ、

神の子とされたのです。」

 

 

問34 (司式者)

「なぜ、あなたは、イエス・キリストを『我らの主』と呼ぶのか。」

答え (会衆)

「イエス・キリストは、私たちを肉体や魂に至るまで、罪からそして悪魔のあらゆる支配から、

金銀ではなく貴きご自身の血潮を代価として支払い、

ご自分のもとにご自身のものとして救い出し贖ってくださったからです。」

☛ 『』は、使徒信条からの引用であるため、「日本基督教団信仰告白」内の使徒信条の翻訳を尊重して、

引用しました。

 

2020.12.13 小金井西ノ台教会 待降節第3主日

ハイデルベルク信仰問答講解説教45(問答33~34)

説教「主なる神の御子と神の子たち」

聖書 ヨハネによる福音書1章6~18節

ガラテヤの信徒への手紙3章21~29節

 

主イエス・キリストは、「イエス」(神は救い給う)というお名前が付けられ、そして「預言者にして教師」「大祭司」「王」という三つの職務を担う永遠の「キリスト」(油塗られたもの)として、「神によって任命され、聖霊によって聖別されました」。しかし、さらにもう一つ、最も大切な呼び名があります。それが「神の御子」「神の独り子」という呼び名です。ハイデルベルク信仰問答33は「私たちも神の子であるのに、なぜ、イエス・キリストは、『その独り子』すなわち神の独り子として生まれた御子、と呼ばれるのか。」と、その呼び名の意味をたずねています。この「神の独り子」という表現は、キリスト教の「神」の定義を根本から決定づける信仰表現であります。したがいまして、本日は、神の独り子ということについて、少々厳密に、そして丁寧なお話をさせていただきたいと存じます。どうか、煩雑な点は、ご容赦ください。キリスト教の根幹となる信仰なので、どうしても一度は、きちんと筋道を立てて、お話ししておかなければならないことです。

 

「神の独り子」と言い表した、その主たる目的は、あのナザレからやって来た、あの十字架刑により処刑されて死んだ、そしてあの三日目に甦った主イエス・キリストとは、単に特別な人間ではなくて、その本質は「神」である、と宣言することにあります。ユダヤ社会で、神と言えば、万物を創造した、あの「十戒」に登場する唯一の神であります。その神と主イエスは、同じ本質を持つ神である、したがって造り主は、父なる神であり、主イエスは、子なる神である、と告白するのです。しかしこれは、主イエスご自身が啓示した、主ご自身のみ言葉と教えによるものであります。

ヨハネは福音書の中で、主イエスご自身による教えの中心は「エゴー・エイミ」(わたしはある、わたしは~である)にあることを徹底して証言します(6,8、11,14章)。この「エゴー・エイミ」という表現は、ギリシャ語ですが、実は、古くはギリシャ語の七十人訳聖書に遡ります。出エジプト記3章でモーセは神に尋ねます。「3:13わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」とエジプト脱出のために、神に選ばれ立てられたモーセは、神の名を問う場面です。すると神はモーセにご自身の名を明らかにします。「3:14わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と神はモーセに答えます。この「わたしはある」という神の名を、七十人訳聖書はギリシャで「エゴー・エイミ」と訳しています。つまり、主イエスはご自身から、モーセに啓示した神の名を、ご自身の名として用いて、ご自身を啓示する「自己啓示」の言葉なのです。「1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神この方が神を示されたのである。」とヨハネが証言する通り、ヨハネ福音書による中心メッセージがあります。

もう一つ、興味深い形で、主イエスが「神」であることを証言するのが、マタイによる福音書28章です。「28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会いひれ伏した。しかし、疑う者もいた。28:18 イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイ28:16~20)。この記述によれば、イスカリオテのユダを除く十一人の弟子たちは、ガリラヤの山に行き、ついに復活の主イエスに会いひれ伏すのですが、「しかし、疑う者もいた」と証言します。復活の主を疑ったとは考えられません。なぜなら、既に多くのユダヤ人たちは、ファリサイ派の人々をはじめ、復活があることを信じ認めていたからです。ましてや、十一人の弟子たちは、40日40夜に渡って、すでに「復活の主」と寝食を共にしていました。では、何を疑ったのでしょうか。「疑った」という字の本来の意味は「躊躇した」という意味です。したがって弟子たちは、ある行動に躊躇していたのではないでしょうか。ある行動とは、その直前で「ひれ伏した」(プロスクネオー)という行為です。これは、ただお独り万物の造り主なる「神」に対してのみに、適用される「礼拝」行為を意味する特別な字です。つまり復活のイエスを「神」である主(アドナイ、キュリオス)として告白し礼拝することに躊躇したのではないか、と推察されます。そこで主イエスは、間髪を入れずに、ご自身を「神」である主として伏し拝むことに戸惑い躊躇する十一人の弟子たちに対して、『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』と宣言します。こうしてマタイの教会は、十字架に死に三日目に復活したイエスは「神」の子であり、したがって「神」である、という信仰の確信に堅く立ち、宣教に向かうことになります。つまりマタイの教会は、確かに「三位一体の神」を告白し礼拝する、というユダヤ教からキリスト教に転換する、決定的な分水嶺を乗り越えたのではないかと思います。イエスを「神」である主(キュリオス)と告白して礼拝する、という決定的な神認識の峠を越えることで、教会は、初めて正しい意味で、キリストの身体である「キリスト教会」として形成されました。言い換えれば、啓示された神さまの本当のこと、すなわちイエス・キリストとは果たしてだれかということが、信仰として一致した言葉で、「神」の子である、と確認整理される必要があったと言えます。この神であるイエス・キリストの確信に堅く立って、そこで初めて、クリスマスの真相の意味は明らかになり、そして深められたと考えられます。このように、新約聖書の中にも、主イエス・キリストは「神」であり、造り主との関係から言えば、「神の独り子」である、という主の自己啓示の言葉として、証言されています。しかし、それでも、実は教会は、主イエス・キリストが、造り主である神と全く同じ神である、と告白することに躊躇し続けたのです。

 

ハイデルベルク信仰問答は、「使徒信条」を用いて、公同教会の信仰を告白する、という構成になっています。この使徒信条を基礎にして解き明かすという方法について、問答22は「では、キリスト者が信ずべき信仰箇条とは何か。」と問い、「福音において私たちに約束される、すべてのことです。その全体は、公同普遍で疑い得ないキリスト教信仰箇条(即ち『使徒信条』)のうちに、私たちのために纏められて教えている、すべてのことです。」と答えて、直ちに「使徒信条」の解き明かしに移っています。この「『その独り子』すなわち「『神の独り子』として生まれた御子」という言い表しは、「その独り子」と使徒信条にありますように、「父なる神」の「御子」、しかも「ただ独りの御子」であることを言い表しています。これは、キリスト教の神の根幹にかかわることで、「父なる神」も「神」であり、同時にまた「御子」も「独り子」なる「神」であることを表します。単刀直入に言えば、主イエス・キリストも、父なる神と全く同じ「神」である、と告白している言葉です。つまりキリスト教の「神」について信仰告白では、「父・子・聖霊」という三つの位格(persona)が、同時にまた、同じ一つの「神の本質」(substantia)から成り、其々の位格は共に同一同等とする「三位一体の神」であり、この三一体の神こそ唯一真の神である、とする「神」の教理が、キリスト教を決定づけています。ハイデルベルク信仰問答は、この「三位一体の神」の信仰を、使徒信条から受け継ぐのです。「使徒信条」の名前は、アウグスティヌスの恩師として知られるアンブロシウスの『教皇シリキウス書簡』(390年頃)に登場しますが、その起源はとても古く、ギリシャ語とラテン語による洗礼信条であった「古ローマ定式」にあり、270年頃まで遡ることができる、と考えられています。

 

「神の独り子」という表現について、「使徒信条」に加えて、もう一つ、さらに重要な役割を担う信条があります。「ニケア信条」です。ニケア信条は、一般に「原ニケア信条」(325年)と呼ばれる最初のニケア信条と、三位一体と三位格の同質同等を確定した「ニケア・コンスタンティのポリス信条」(381年)を指しますが、通常、「ニケア信条」と言えば、後者を指します。主イエス・キリストを、父なる神と同一の神としてよいのか、とその躊躇と戸惑いの中で、教会を二分する大論争が引き起こされ、ローマ皇帝コンスタンティヌスによって公会議がニケア(ニカイア)に招集され、アリウス派の主張するように、主イエスは、被造物である「人間」なのか、はたまたアタナシウス派の説くように、「神」なのか、という大論争となました。そして381年ニケア・コンスタンティのポリス会議で、アタナシウス派の「ホモウシオス」(子は父と同一本質である)と決着し、神の「三位一体」が確定したのです。

 

そのニケア信条を紹介しますと、

「われらは、唯一の主イエス・キリストを、神の子[ton fion tou Theou]を、(325)

われらは、唯一の主イエス・キリストを、神の独り子[ton fion tou Theou ton monogene]を、(381)

父から生まれた独り子[monogene]、父の本質[ousias]の中から外に同時に存在しており[touteestin]、(325)

あらゆる世に先立って父より生まれ(381)、

神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られずして生まれ[gennethenta]、(325・381)

父と同質本質[homoousion]であって、万物はすべて主によって創造された。(325)

父と同質本質[homoousion]であって、天地の万物はすべて主によって創造された。(381)」

という言葉で、キリストが「神」であることを言い表しています。

 

ハイデルベルク信仰問答がさらに意味深く重要な点がここにあります。ハイデルベルク信仰問答は、直接に「ニケア信条」を掲げる、という形を構成上はとっていませんが、それゆえ信条を解釈する上で一層重要なことですが、使徒信条の本質をニケア信条から解き明かしていることです。言い換えれば、ハイデルベルク信仰問答の最も意味ある教理的方法は、使徒信条をニケア信条によってさらに深く掘り下げて、信仰を言い表そうとしている点にあります。キリスト論において、ニケア信条を信徒信条によってさらに深く掘り下げる、という面もありますが、ここでハイデルベルク信仰問答は、表の告白は使徒信条ですが、その裏打ちはニケア信条をもって担おうとしているのです。使徒信条は、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神の3項目を、救済史的にかつ並列的に展開し、一人称単数形「われは」で、公の信仰を言い表す信条です。ニケア信条は、父と子と聖霊の3項目の本質的でその内的関係を内在的本質として展開し、一人称複数形「われらは」で公の信仰を言い表す信条です。「福音」の信仰の骨格を担う、東西其々に普遍的な公同の信仰を言い表す信条を、相互補完的に継承しているのです。こうした教理は、「神の相互内在性」(ペリコレーシス、キルクミンケッチオ)として展開されます。ですから、西方教会の信仰の根幹を担う使徒信条を、改めてニケア信条やカルケドン信条を根拠にして、より深くそして厳密に読み解くのであります。そうした態度が、問答33の問いには大変よく現れており、その典型的な言葉として、「神の独り子」「神から生まれた神の独り子」という聖書の言葉をさらに深く掘り下げて解釈しつつ、受け継いでいます。問答33の答えで「ただイエス・キリストお独りが、永遠からの生まれつきの神の御子だからです。しかし私たちは、主イエス・キリストのおかげよる恵みから、養子として受け入れられ、神の子とされたのです。」と説き証します。主イエス・キリストを「神の永遠の独り子」と宣言告白するに至るのです。このように明らかに、ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条の「その(神の)独り子」を、ニケア信条から掘り下げて解き明かしています。

 

続いて問答34は「なぜ、あなたは、イエス・キリストを『我らの主』と呼ぶのか。」と、主(アドナイ)と呼ぶ意味を問います。主とは、ギリシャ語で「キュリオス」ヘブライ語で「アドナイ」ですが、その本質は「神」を指します。有名な話で「主の名をみだりに唱えてはならない」とする十戒の戒めにしたがって、聖書を読むときすら、ユダヤ人たちは神の名前である「ヤッハウェ」を「アドナイ」と読み替えているうちに、長い間、本当の神の名が分からなくなってしまったほどです。まさにその主なる神の「主」を、使徒たちの原始教会は「イエス」に用いたのです。問答34は答えはとても意味深い形で応答しています。「イエス・キリストは、私たちを肉体や魂に至るまで罪からそして悪魔のあらゆる支配から、金銀ではなく貴きご自身の血潮を代価として支払いご自分のもとにご自身のものとして救い出し贖ってくださったからです。」と告白して、ただ神だから「主」と告白するのではなくて、唯一真である神の御子が、私たちのために、キリストとして罪を償い、罪から救われた、という所にこそ、われらの「主」である神の本当のお姿を見出しているのであります。すなわち、贖罪の中に、唯一真の神はご自身を啓示した、だからこそ、贖罪者であるイエス・キリストこそ、われらの唯一真の主である、と言い表したのではないでしょうか。永遠の神が、人間本性のうちに受肉して、罪を償い、復活という新しい命を人類にもたらした、その受肉の神による贖罪と復活に、まことの「主」としてのお姿を見ているのです。