2020年12月20日「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」 磯部理一郎 牧師

2020.12.20 小金井西ノ台教会 待降第4主日(クリスマス)礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答35~36

子なる神について(4)

 

 

問35 (司式者)

「『主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ』とは、何を意味するか。」

答え (会衆)

「真にして永遠の神でありまた永遠に変わることなくいまし給う永遠の神の御子が、

聖霊の働きを通して、処女マリアの肉と血から真の人間本性をご自身にお受けになり

また実際のダビデの子孫となり、罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられたからです。」

 

☛ 『マリヤ』は、「使徒信条」からの引用分のため、翻訳も合わせて「日本基督教団信仰告白」の表記に従い、「マリア」は、問答の本文であり、『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)の表記に従いました。迷う所ですが、其々を尊重しました。

 

 

問36 (司式者)

「キリストの聖霊による受胎とその誕生から、何を有益なこととして、あなたは得るか。」

答え (会衆)

「主は、私たちの仲保者となられ、主の罪なき完全な神聖によって

罪のうちに身ごもられたわたしの罪を神の御顔の前で覆い隠してくださることです。」

 

 

2020.12.20 小金井西ノ台教会 待降節第4主日・クリスマス礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教46(問答35~36)

説教「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」

聖書 ルカによる福音書2章1~21節

ヘブライ人への手紙9章11~14節

 

「待降節」に入りまして、これまで、主イエス・キリストのお名前について、お話を致しました。一つは「イエス」(神は救い給う)というお名前、次いで「キリスト」(油塗られた者)というお名前、そして前回は「神の独り子」というお名前について、ハイデルベルク信仰問答33と34から、学びました。ユダヤ教からキリスト教へ、キリスト教がはっきりと分離独立する分水嶺となった、その決定的な根拠は、主イエス・キリストが「父なる神と同一本質なる神の子」である、と告白宣言した点にありました。つまり「三一体の神」を公に告白宣言することで、つまり、キリストを「神の独り子」である、と告白することで、キリスト教は「ユダヤ教」から独立して、まさに「キリスト教」となったのです。教会の教理の歴史で言えば、聖書の証言を「ニケア信条」(325年、381年)は、キリストは造り主なる神と同一本質(ホモウシオス)の神である、とする信仰に堅く立って、はっきり言い表したことで、教会は、キリストを頭とする神の教会として、初めて自らの依って立つ立場を確立することができたのであります。このように、キリストを「神と同一本質である」とする立場から信仰を明らかにした、主の呼び名こそ「神の独り子」という呼び名でありました。

 

先週は、主イエス・キリストを、「神」として、見てきましたが、本日は、キリストを、「人」として、見てゆく信仰について明らかにしてまいります。キリストは、唯一の真の「神」でありますが、しかし同時にまた真の「人」でもある、という真理に触れてまいります。キリストはその本質において「人間」である、とする明確な証言は「処女マリヤより生まれ」という言い方で表明されます。本日はクリスマス礼拝でありますが、クリスマス礼拝の本当の意味と目的は、一方で神が天から地上に降ることを祝う、という光と喜びでありますが、他方では同時に、そのように天から降られた神は人となられた、ということを祝う、光と喜びでもあります。先週は、神が天から地上に降られた、その主イエス・キリストは、唯一真の神であり、万物の造り主なる神と同一本質なる全く同じ神の御子、神の独り子であった、という神の真理を明らかにいたしました。本日は、その唯一真の「神」が、同時にまた、真の「人間」であった、という話であります。クリスマス礼拝の本当の意味は、実はこのように、神が天から降られ、「人」となって現れた、すなわち、神がイエスという男の子となって「処女マリヤから生まれ」、人々の前に現れたとする福音を共に覚える礼拝であり、まさに「神の受肉」を喜び祝う祭りであります。

 

ハイデルベルク信仰問答35は「『主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ』とは、何を意味するか。」と問いを掲げます。前回お話したように、ハイデルベルク信仰問答は、公同の信仰として「使徒信条」を受け継ぎ、「処女マリヤより生まれた」のは「聖霊」の働きによる、と告白します。「神の御子」が「人」としての降誕する、それは、聖霊の働きによる、と言うのであります。それによって、主のご降誕が、三一体の「神」のみわざであることを言い表します。しかしそれに加えて、その聖霊の働きにより「処女マリヤにより生まれ」と告白して、主イエスが真の血肉を受け継ぐ「人間」として生まれたことを明らかにします。問答35の答えは「真にして永遠の神でありまた永遠に変わることなくいまし給う永遠の神の御子が、聖霊の働きを通して、処女マリアの肉と血から真の人間本性をご自身にお受けになり、また実際のダビデの子孫となり、罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられたからです。」と告白します。ここでは、キリストにおいて、唯一真の「神」と真の「人間」とが、同時に成立していることになります。キリストにおいて神と人とが同時に実現するために、聖霊とマリアの血肉が大きく働いています。これを、即ち神の御子のご降誕の本質を一語で言い表そうとすれば、神の御子のご降誕とは、「神の受肉」にある、と言えるのではないでしょうか。英語で「神の受肉」をincarnationと言いますが、語源はラテン語でincaro(in 「~の中に」+ caro「肉、肉体」)という字です。つまりキリスト教真理の根幹を一語で言い表すとすれば、まさにこのincaro, incarnation, 即ち「神の受肉」という一語に尽きるのではないでしょうか。極論すれば、キリスト教信仰は、まさに神の御子のご降誕、すなわち神の受肉の奥義(ミュステリオン)を根拠とする啓示宗教である、ということになります。キリスト教は、正しい意味で神の御子のご降誕を祝うことで、本当のキリスト教となったのであり、教会もまた、正しい意味でクリスマス礼拝を確立することで、真の教会として確立できたのではないでしょうか。

 

教会の信仰の歴史において、前回「ニケア信条」のお話をしましたが、キリストは「神」であると告白することに、教会は大きな戸惑いを覚えました。しかし同時にまた、キリストを「人間」であると告白することにも、大変な困難があったのです。なぜなら、人であれば神ではないのと同じように、神であれば人ではないからです。前回の説教で、アリウス派は、キリストが被造物であって神ではない、としたのですが、反対に、キリストが神であるならば人ではなく、神が人のような姿で現れたのだ、ということになります。こうした考え方を「キリスト仮現説」と申します。語源は「ドコー」というギリシャ語で「主観的には人間のように見えても、客観的には人間の本性本質はない」という意味です。十一人の使徒をはじめ教会は、長い間、キリストが「神の本質」であるということに、戸惑い躊躇して来たのですが、同じように、キリストが人間であることにも、戸惑い続けたのでした。したがって教会は長い間、本当の意味で「クリスマス」を祝うことができなかったのです。クリスマスを正しい意味で祝えるようになるためには、キリストが真の「神の御子」であり、同時にまた、聖霊によって処女マリアに宿り、処女マリアから「人間」としての本質本性を受け継いだ、ということを認め、受け入れ信じることが決定的な意味をもったのです。キリストが神であり人である、とする信仰の確立が、キリスト教会の存立を決定づけていたのです。キリストが「神の本性」と同時にまた「人間の本性」を持つという信仰は、「神人両性」のキリスト論と言います。英語ではtwo naturesです。父・子・聖霊という三つの位格(3つのペルソナthree persons)のうちの一つである「子」というペルソナ(one person)であり、同じ一つの神である、とするのが「三位一体」です。これを守ったのが、ニケア信条です。次いで、その神の御子は、「神」である本質と、同時にまた「人」である本質という二つの本質本性(two natures)を持つ、という教えを守り抜いたのが、カルケドン信条です。このキリストにおける「神の受肉」と「神人の日本性」が、はっきりと教会の中で了解されたところで、初めて本当の意味でクリスマスは祝うことができるのです。

 

ハイデルベルク信仰問答35の答えで、「永遠の神の御子が、聖霊の働きを通して、処女マリアの肉と血から真の人間本性をご自身にお受けになり、また実際のダビデの子孫となり、罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられた」と、神の御子の受肉を告白します。実は、既にお気づきかと存じますが、この信仰表現は、明らかに「神の受肉」を言い表した「ニケア信条」(325根、381年)を経由しつつ、キリストの「神人両性」を告白する「カルケドン信条」(451年)から受け継いだ教えであることが分かります。言い換えれば、ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条を基本信条全体から読み直して、特にニケア信条とカルケドン信条を通して、より深く掘り下げ、より堅固に、そしてより確かに、福音の真理を言い表そうとしているのです。実際の教会史を辿りますと、それまで戸惑い続けきた全世界の教会は、451年カルケドン(Chalcedon)の第4回公会議において、キリストの神性のみを主張するキリスト「単性」説(one nature)を斥けて、キリストの「神人二本性」(two natures)を採択し確定します。そのカルケドン定式によれば「われらの主イエス・キリストは、唯一同じ御子であって、神性においても完全であり、また人性においても完全である。真の神(Theon alethos)にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成る真の人間(anthropon alethos)である。神性においては父と同一本質(homoousion)であり、人性においてはわれらと同質(homoousion hemin)にして、罪を除く (chori hamartias)すべてにおいてわれらと等しい(homion)。」と規定しています。

 

「神の独り子が、聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれる」(使徒信条)とするキリストのご降誕は、「神の受肉」(ニケア信条)であり、「キリストの神人両性」(カルケドン信条)を本質とする出来事なのです。これは、人間の側の理屈からすれば、或いは科学や人間の理性からすれば、あり得ない、とても考えられないことです。教会の内外の区別を超えて、正しい意味でクリスマスを迎えるには、決して容易いことではないのです。ヨハネは「1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と証言し、人知を超えた神の隠された真理であり、この世では測りがたい出来事である、と説いています。地上に住む人間の側からでは、どうしても越えがたい、辿り着くことのできない天上の真理というものがあるのです。したがって、天の神の側から、神自らがご自身の真理を啓示する、という形による以外に、どうしても示し得ない天の真理であります。その神が自ら天から地上に降るのです。まさに神自らが、キリストとして、啓示そのものとなったのです。しかもそれは、聖霊によりて処女マリアの胎内に宿り、処女マリアより「人」として、人間イエスとして、生まれるという出来事によって、示される神の真理であり啓示であります。それによって、すなわち御子のご降誕のクリスマスによって、天の神の真理は、地上の真理と成って実現したのです。

 

神の御子のご降誕のクリスマスを、今、私たちは祝うのですが、なぜ御子のご降誕は、神の受肉であったのでありましょうか。なぜ、キリストは、神であり人である、とする神人両性でなければならなかったのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答16はこう告白します。まず「なぜ、救い主である仲保者は、真実(まこと)の人で、罪のない義(ただ)しい人でなければならないのか。」と問い、「神は、神の義を求め罪を償うことを要求しておられるからです。人間はその本性において罪を犯したのでその同じ人間本性において自分の罪を自ら償い神の義を全うしなければなりません。しかし罪人である者が、他者の罪を償うことはできません。」と答えます。人類を「救う」とは、どういうことでしょうか。それは聖書に「この子は自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)と預言されていた通りです。民が、全人類が、人間本性の根源からその本質において、罪と死の定めから解放されることにあります。しかも決定的なことは、人間自らが犯した罪を、人間は自らその人間本性において完全に償い尽くして、義しい存在となることにあります。そのように罪を根こそぎ根源から完全に償うには、人間でなければならないのは当然であります。神の御前に完全にただしくあるためには、人間本性の根源から、神の義と神への従順が獲得されなければならないはずであります。したがって、あくまでも「人間」がその本性の根本から償い、神の義を獲得するのでなければなりません。先ほど、カルケドン信条の一部を紹介しましたが、その中でキリストは「すべてにおいてわれらと等しい(homion)。」と規定していました。私たちが罪から救われるために、すなわち罪の償いが、「神の受肉」とキリストの「神人両性」を必要としていたのです。

しかし不幸なことに、人間本性は、それ自体その根源から、罪により破綻して義を失い、死と滅びに堕落しております。汚れた者が汚れた者を清くできないように、人間は誰一人として人間を救うことはできないのです。キリストの人性については、「罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられた」とありましたように、ハイデルベルク信仰問答は、「罪を除く (chori hamartias)すべてにおいてわれらと等しい(homion)」と規定したカルケドン信条に従って、「永遠の神の御子が、聖霊の働きを通して、処女マリアの肉と血から真の人間本性をご自身にお受けになり、また実際のダビデの子孫となり、罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられた」と告白しています。神の御子であり、したがって罪のないお方が、人間として罪を償うのであります。

 

さらに問答17は「なぜ、救い主なる仲保者は、同時にまた真実(まこと)の神でなければならないのか。」と問い、「救い主なる仲保者は、その神である本性の力によって、神の怒りによる裁きの重荷をその人間である本性において担い尽くし耐え抜かれ、そうして、私たちに神の義と命とを取り戻し回復してくださるのです。」と答えています。ご記憶の方もおいでかと存じますが、3月の説教で触れた所です。ここに貫かれている信仰の核心は「贖罪」です。罪が償われ、罪から救われるために、人間における徹底的な贖罪が求められています。そのためには、贖罪者は「人間」でなければならない、と説いています。もっと大切なことは、キリストが、人間として苦難を受けて、十字架で肉を裂き血を流して罪を償われた、という事実です。キリストは、徹頭徹尾、人間として人間の償うべき罪を償われました。それが十字架でありましょう。言い換えれば、「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」というクリスマスの告白は十字架を本質としており、十字架によって支えられ、十字架によって貫かれて、はじめて意味を持つのであります。なぜなら、御子のご降誕の目的は、人類の完全なる罪の贖罪であり、そのためには人間として十字架での犠牲と贖いを必要としたからであります。キリストがマリアから生まれて、人となられたのは、人間の勝利と救いを獲得するためでした。人知を超えた神のご計画とその啓示、特に御子が処女マリアから生まれて、民を罪から救うために十字架での贖罪死を遂げる、という神の隠された真理を知り、理解して、さらにそれを心から認めて受け入れる、ということは決して容易いことではないように思われます。民を罪から救うために、十字架において肉を裂き血を流すという神への贖罪と従順が求められることも、余りにも奥の深い、まさに奥義(ミュステリオン)であります。しかし、キリストは、ご自身の身体である教会において、聖霊によるみ言葉を通して、私たちを導き続けてくださいます。キリストの身体である教会において、私たちは、クリスマスという出来事のただ中に生まれ、生き、この世の生涯を終え、永遠の命に至るのです。闇が光によって真昼のように照らされるように、全世界は、まさに人となられた御子による完全な贖いの光の中に包まれたのです。