2020年12月6日「油塗られたキリストの務めとキリスト者」 磯部理一郎 牧師

2020.12.6 小金井西ノ台教会 待降第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答31~32

子なる神について(2)

 

問31 (司式者)

「なぜ、救い主イエスは『キリスト』すなわち『油塗られた者』と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「主イエスは、私たちに神の隠された知恵と意志を完全に啓示し給う最高の預言者及び教師に

ご自身の身体による唯一つの犠牲によって私たちを贖い、

永久に執り成しをもって父なる神の前で私たちの責任を背負い給う唯一の大祭司に

私たちをご自身のことばと聖霊によって統べ治め、

獲得された救いのうちに守り養い給う私たちの永遠の王に

父なる神によって任命され、聖霊によって聖別されているからです。」

 

 

問32 (司式者)

「なぜ、あなたは、ひとりの『キリストのもの』と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「わたしは、信仰を通してキリストの身体に属する一つの肢体(えだ)となり、

そしてキリストの塗油にもあずかります。

それゆえ、わたしもまた、キリストの御名を告白し

キリストにおいて、わたし自身も一つの生ける神への感謝の献げものとなり、

この世では、自由な良心をもって罪や悪魔と闘い抜き

後の永遠の世では、キリストと共に被造物全体を統べ治めるからです。」

 

2020.12.6 小金井西ノ台教会 待降節第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答31~32

説教「油塗られたキリストの務めとキリスト者」

聖書 申命記18章15~22節

ペトロの手紙一2章9~10節

 

アドヴェント第1主日では、「イエス」(神は救い給う)というお名前について、お話を致しましたが、本日は、もう一つのお名前、イエス・キリストの「キリスト」について、お話をいたします。ハイデルベルク信仰問答31は「なぜ、救い主イエスは『キリスト』すなわち『油塗られた者』と呼ばれるのか。」と問うています。そして答えで「主イエスは、私たちに神の隠された知恵と意志を完全に啓示し給う最高の預言者及び教師に、ご自身の身体による唯一つの犠牲によって私たちを贖い、永久に執り成しをもって父なる神の前で私たちの責任を背負い給う唯一の大祭司に、私たちをご自身のことばと聖霊によって統べ治め、獲得された救いのうちに守り養い給う私たちの永遠の王に父なる神によって任命され聖霊によって聖別されているからです。」と答えています。

まず、イエス・キリストの「キリスト」というお名前から申しますと、実は「名前」というよりは、むしろ「職務」と申し上げた方がふさわしいと思います。「キリスト」とは、ギリシャ語では「クリストス」(Christos)、ヘブライ語では「マーシーアハ」(油注がれた者)と言い、「マーシャフ」(油を注ぐ)から派生した言葉です。イエスのように、個人の名前ではありません。イエスさまの「職務」「役職」を示す用語で、具体的には、ユダヤで「王」「祭司」「預言者」がその職務に任命され就職するときに、「油を塗って」職務に就かせていました。つまり、任職され職務に就くときに「油を塗る」という儀式をしたのです。ただし、そこで最も重要なことは、その任職の際に塗られた「油」は、物理的な油を超えて、「聖霊」による任職のしるしであり、神によって聖別されたことを象徴していることです(イザヤ61:1)。油を注いで塗る、という塗油の儀式は、神の霊が降り神によって聖別されることを示すのです(Ⅰサムエル10:1,10,16:13~14)。特に主イエス・キリストの場合は、永遠の昔から、神のご計画のもとで、永遠にその職務に任じられていた、と理解されます。そうした神の永遠のご計画において、油塗られて任職されていたキリストが、時間と空間による歴史的において、処女マリアのうちに「聖霊によって宿った」(マタイ1:20)のであり、「イエス」という個人の名前を付けることで、世に対しても「自分の民を罪から救う」というキリストの任務が明らかに示されたのです。また、ヨルダン川で洗礼者ヨハネより主が洗礼をお受けになるとき、「1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、『あなたはわたしの愛する子わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」と証言されます。聖霊が降るとき、イエスはまさに聖霊の「油注がれ」、すなわち「キリスト」という神の務めに就いたことが、公に世に宣言されたのです(マタ3:16,マコ1:10,ルカ3:22,ヨハ1:32,3:34)。この聖霊による塗油について、問答は「父なる神によって任命され聖霊によって聖別されている」と告白しています。

 

では、主イエスは、どのような「職務」に油注がれたのでしょうか。キリストとなったのですが、すなわち聖霊の油を注がれたのですが、それによって、どのような「神の務め」におつきになったのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答31は、ユダヤの伝統に基づいて「預言者および教師」「大祭司」そして「王」という三つの職務におつきになったことを明記します。第一の職務として「預言者および教師」としての主イエス、すなわち「民を罪から救う」ためには、是非とも引き受けなければならないキリストとしての務めが、預言者および教師の務めでありました。問答は「私たちに神の隠された知恵と意志を完全に啓示し給う最高の預言者及び教師に」と告白します。キリストとして、つまり教師および預言者として、私たちに「神の隠された知恵と意志を完全に啓示する」と告げます。とても意味深長なのは「神の隠された知恵と意志」という言い方です。この世の社会も人間も有限であり、神の被造物ですから、神の愛と恵みの及ぶ限りにおいて、或いは神さまが容認される限りにおいて、世界も人間も「神を知る」ことが許されます。有限は無限を包み捕らえることはできませんので、無限なる神が、有限なる被造物を包み捕らえる限りにおいて、有限なる被造物は神の愛と憐れみの光に照らされて、その光のもとで、初めて存在の場を獲得し、或いは真理の道を知ることができます。したがって神の知恵は全て隠されており、知恵や意志があらわれるのは、まさに神の愛と慈しみの光が万物を包み照らすとき、すなわち神自らのご意志でご自身を啓示されるときだけ、であります。神は、人類に対する神の愛と慈しみをもって、キリストを預言者および教師として、キリストの教えを通して、人々に神の知恵と意志をあらわし、啓示するお務めにお遣わしになられた、ということになります。

パウロはこうした神の隠された知恵と意志を「ミュステリオン」(パウロ書簡21回使用、口語訳聖書「奥義」新共同訳聖書「神の秘められた計画」)という言葉で伝えています。この永遠に隠された神の知恵と意志を、主イエスは、「キリスト」として、神の救いのご計画を世に預言し教え、啓示する務めに就いたのです。そこで初めて、キリストを通して、私たちは神の知恵と御心に触れることが許されることになります。パウロは「2:2 それは、この人々が心を励まされ愛によって結び合わされ理解力を豊かに与えられ神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。」(コロサイ2:2)と述べています。事柄の本質を実に単刀直入に言い表した名言ではないでしょうか。キリストを受け入れ、キリストを知るとは、神の知恵と意志そのものを悟ることなのです。これが信仰の世界でありましょう。

 

では「神の隠された知恵と意志」とは、どのような知恵であり、また意志なのでしょうか。またそれが、どのように現されたのでしょうか。それが次の職務となってあらわされます。問答31は、キリストの第二の務めとして「ご自身の身体による唯一つの犠牲によって私たちを贖い永久に執り成しをもって父なる神の前で私たちの責任を背負い給う唯一の大祭司に」と告白します。つまりキリストは「唯一の大祭司」として「ご自身の身体による唯一の犠牲」となって、「私たちを贖う」というのです。神の隠された知恵と意志は、キリストにおいて現わされたのですが、それは、主イエスが「キリスト」として、すなわち、私たちを罪から救い贖うために、「唯一の大祭司」となり「ご自身のお身体による犠牲」としてお献げすることに現わされた、と告白します。「私たちを贖う」とありましたが、「贖う」という字の聖書の元々の意味は、「奴隷の者を、代価を支払って買い戻し、解放して自由にする」という字です。償うとは、まさに自分の血の代価を支払って、正義を取り戻すことです。したがって、主イエスの十字架の死そのものに神の本質的な知恵と意志が込められ現された、ということを意味します。しかもキリストは、唯一の犠牲として「永久に執り成しをもって父なる神の前で私たちの責任を背負う」のです。「執り成し」Fürbitteという言葉の前に「永久に、いつも、常に」immerdarという言葉がさらに置かれています。他者に代わって自分が償う、その償いと執り成しは、いつも、常に、そして永遠に、神の御前でキリストは背負い続けるのです。ということは、いつも、常に、永久に「大祭司」として、油塗られたキリストが、神と私たちの間に仲保者となられ、私たちのための償いと執り成しは神の御前でなされ続けるのであります。私たちがどう悔い改めようと、わたしたちがどんなに破れようと、そうした私たちの限界や破れを超えて、キリストは大祭司として、ご自身のお身体をもって償い、神の御前での執り成しを、いつも、常に、永久になし続けておられるのです。ここに、神の知恵と意志の本質が示されている、というのであります。これを「神の愛と憐れみ」と言わずして、果たして何というのでありましょうか。

 

そして神の知恵と意志は、ついに三つ目の職務において徹底されます。「キリスト」としての三つ目の職務は、「王」であります。問答31は「私たちをご自身のことばと聖霊によって統べ治め、獲得された救いのうちに守り養い給う私たちの永遠の王に」と告白します。神は、私たちを導き、統べ治めるのに、恐怖や暴力を用いずに、「ことば」と「聖霊」をもって導かれる、と告白します。ここは、神と人とが、「人格」的存在であるという観点から言って、とても大事なことです。愛と憐れみの主体も対象も、双方が、霊と魂のある心豊かな人格であります。恐怖や暴力をお用いにならないで、みことばと聖霊を働かせて、私たちを統べ治めるのです。ということは、裏を返して言えば、私たちも自分の自由な意志で、「聖霊」に対して徹底的に従順になり、「みことば」に対してどこまでも謙遜に聞き従うことが前提となります。教会での主の日の礼拝が、聖霊とみ言葉の導きのもとに貫かれていることの意味をいよいよ深く覚える必要があります。日曜日の礼拝における聖霊とみことばの中には、神の知恵と意志が現れ、そして何よりも神の統治と導きが込められ、示されている、ということになります。であれば、「みことば」に対して、すなわち目に見える言葉である「聖礼典」と目に見えない言葉である「説教」から成る「みことば」に対して、いよいよ慎重かつ注意深く、そして何よりも謙遜に信仰をもって、聞き分け見分ける、ということが重要になります。奇跡の力や権力的な暴力を用いて、神は私たちや万物世界を統べ治めようとはしないのです。神の国は、神の愛と憐れみに基づいて、聖霊とみことばを通して、しかも人間本性の中枢に当たる霊と魂とそして肉体の根源から回復してくださり、神の民として立たせてくださり、愛をもってキリストの身体としての神の国をお建てになるのであります。そこには何一つ暴力も、権力もなく、共に喜びと感謝とをもって互いに仕え合う国が生まれるのであります。

礼拝や教会から離れてしまうことの、事の大きさをここに改めて深く思いを致します。実は、ここにはとても悩ましい信仰の根本問題が潜んでいます。それは、一方で私たちの「信仰の意志」が強く問われています。そして、他方では、私たちの信仰に働く「聖霊の恵み」が問われるからです。やっぱり、死の最後に至るまで、最も大切なのは、自分の信仰による意志です。どこまでもみことばを謙遜に聞き分けて主に従い、礼拝を捧げようとする信仰による「意志」が求められます。しかし最後には、力尽き、弱り果てて、私たちは自分自身の意志そのものが破綻する、「終わり」のときを迎えます。力がまだ残り、まだ力を尽くすことができるのに、礼拝やみことばを聴くことを放棄してしまえば、それは罪による破れです。どんな言い訳や他人のせいにしても適わぬことです。しかし最後に力尽きたとき、私たちの意志は破綻します。私たち人間の意志で、罪と破れに打ち勝ち、義を獲得して、人生において命に勝利することはできないのです。結局、だれも皆、生まれ持った人間本性の根源から、神を神とする礼拝を貫き通すことはできないのです。だからこそ、キリストは、民のために、神の知恵を啓示する「預言者にして教師」、贖罪と贖いの「大祭司」そして永遠の国の「王」として求められるのです。だからこそ、神は御心を痛めて人類を憐れみ、御子をキリストとして世にお遣わしになられたのであります。そこで、キリストは、私たちに代わってご自身のお身体をもって償い、私たちのためにいつも常に永遠に執成すのです。「いつも常に永久に」とは、生まれる前から、そしてこの世に生を受け終わるときも、さらには死後においても、すべてを貫いて、償い執り成し続けられる、ということです。しかもその執り成しの中で、「獲得された救いのうちに守り養い給う」のであります。まさに愛と憐れみに包み込んで、弱り果て力尽きて破綻するわたしたちを永久に救いのうちに守り養うのです。この宣言は、何と「福音」と「慰め」に満ちた宣言告白ではないでしょうか。それが、キリストの「王」としての働きである、というのであります。したがって、私たちは、私たちのすべてをこの「王」による統治に委ねることができるのであります。

 

そこで問答はいよいよ私たち自身の「キリスト者」としての意味を明らかにします。問答32は「なぜ、あなたは、ひとりの『キリストのもの』と呼ばれるのか。」と問います。キリストは、わたしの本体であり、わたしは一つのキリストの身体であります。「ひとりの『キリストのもの』」という訳に、少し極端な印象をお受けになるかと思いますが、ein Christの直訳です。ドイツ語では「キリスト」はChristus、「キリスト者」はein Christと書くようです。聖書の言葉で申しますと、「クリスティアーノス」(「キリスト」の所有格、「キリストの者」)に由来する呼び名で、アンティオケで、教会の外の人々から呼ばれていた呼び名です(使徒11:26)。外から見ると、教会に集う人々が余りにもキリストと「一体」に見えたので、そこに境界線を引いて、別扱いにすることができないほど、みんなが一つの「キリスト」のように見えたのでありましょう。問答はその理由として「わたしは、信仰を通してキリストの身体に属する一つの肢体(えだ)となり、またキリストの塗られた油にもあずかります。それゆえ、わたしもまた、キリストの御名を告白し、キリストにおいてわたし自身も一つの生ける神への感謝の献げものとなり、この世では、自由な良心をもって罪や悪魔と闘い抜き、後の永遠の世では、キリストと共に被造物全体を統べ治めるからです。」と告白します。

結論から申しますと、力尽きて破綻するのは、私たちのキリストの身体としての「本体」ではありません。私たちの人間本性、その本体は「キリストの身体」であります。それはあくまでも私たちの「古い人間本性」であり、キリストの恵みを受け入れ認めることのできない不信仰なる本体です。ひとりのキリストの身体に属する肢体として、私たちは新しい復活の人間本性のもとにあります。キリストの身体とされ、十字架の犠牲と復活の命にあずかる、勝利と喜びの本体であります。使徒パウロは、とても力強い名言を残しています。「6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られその死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。6:7 死んだ者は、罪から解放されています。6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:3~8)

ここで、決定的な意味を持つ言葉が、「キリストの身体に属する一つの肢体(えだ)である」という告白です。しかも「キリストにおいてわたし自身も一つの生ける神への感謝の献げもの」である、という事実です。しかも「 キリストと共に被造物全体を統べ治める」とまで言い切っています。この驚異的で、不屈の強さは、「わたし」が主語であり、あくまでも信仰を通して実現する新しい「わたし」であります。しかしこの新しい「わたし」を決定づけ、貫くのは、実は「わたし」ではありません。「王」であるキリストであります。神の恵みにより、神の知恵と意志において、私たちはその身体とされたからです。「選ばれる」ということは、そういう恵みの中にある、ということなのです。人間にはどうすることもできない、しかし神の完全な救いのうちに、わたしたちは選ばれ、守られ、養われ続けるのであります。ペトロは「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民王の系統を引く祭司聖なる国民神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、/『かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている』のです。」(Ⅰペトロ2:9~10)と語っています。