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2021年10月31日「イエスはだれなのか?」 磯部理一郎 牧師

 

2021.10.31 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第24主日

ヨハネによる福音書講解説教22

説教「イエスはだれなのか?」

聖書 ミカ書5章1~5節

ヨハネによる福音書7章40~53節

 

 

聖書

7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、7:41 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。7:44 その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

7:45 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。7:46 下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。7:47 すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。7:48 議員やファリサイ派の人々の中にあの男を信じた者がいるだろうか。7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。7:51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」7:53 人々はおのおの家へ帰って行った。

 

 

説教

はじめに. 「イエスとは誰か」をめぐる問いと論争の中で

本日の説教題は「イエスはだれなのか?」という疑問符付きの題になっています。「イエスとは誰なのか?」という深刻な問いをめぐりまして、ユダヤの人々は、抜き差しならない民族全体の運命にかかわる論争の渦に巻き込まれていました。ユダヤの誰もが皆、同じように「メシア」を待望していたからです。しかし誰にも、果たしてメシアは、いつ・どこに・そしてどのようにして到来するか、全く知らないままでした。逆に、いつ、どこに、どのようにして来られるか、全く分からないということこそメシアのしるしである、とされていたようです。ただ一つだけ、メシアはダビデの末裔として到来する、ということだけは、預言を通して、人々には知らされていました。言わば、莫大な埋蔵金が眼の前にあっても、その金庫を開ける「鍵」は、人々には与えられていなかったのです。それは、その真実の鍵を開ける決定的なことは、ただ一つ、聖書の正しい解き明かしのもとに、ひとりひとりが正しく聖書のみことばの意味を聴き分けて、明確な信仰に立ち、決断する、ということでありました。主イエスは、祭りの間中ずっと、毎日ように神殿に通い、神殿の回廊で聖書を解き明かしておられました。人々は皆、確かに主イエスの説教を聞いたのですが、しかしそれを受け入れ信じるという「信仰」において、イエスにおいてメシアが到来していると認める所までには至らなかったようです。7章40節以下には「7:40 この言葉を聞いて、群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、7:41 『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。7:42 メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。」と記されていますように、ユダヤの人々は、主イエスの解き明かしが、神秘を解くカギになるどころか、増々混乱してしまったのです。要するに、主イエスの解き明かしをしっかり聞いて、それを真実として信じ受け入れることができないために、つまり不信仰のゆえに、真実な教えを聞けば聞く程、一層人々の混乱と動揺は大きくなってしまったようです。言い換えますと、人々は主イエスご自身が語る聖書の解き明かしの説教に躓いたのです。固く信仰を持ち信仰に立つということが、どれほど人間の言動を、また人間としての本質的な在り方を決定づけ運命づけててしまうのか、こうしたことからも、非常によく分かるのではないでしょうか。信仰を持てず、信仰に立てないということは、こうして人間としての本質的な尊厳までも危機に曝してしまい、本来の人間らしい在り方を失うことになるのです。そしてついに、ユダヤ民族全体が大きく苦難と滅びへと転落してしまうことになります。

 

1.主の「この言葉を聞いて」躓いた人々

40節に「この言葉を聞いて」とありました。人々はまさに「この言葉を聞いて」運命的な決断が深刻に問われることになりました。前にもお話しましたように、一方で深い問いとして、主イエスの聖書の解き明かしとその教えのみことばは、人々の心の奥底まで広がって深刻かつ重要な問題として残りました。ただしそれは、受け入れられず信じることができないがゆえに、常に未解決の大難問として残されたままでした。その結果、ユダヤの権力者たちの中には、イエスを排除抹殺する覚悟を固める者たちも現れて、多くの民衆はいよいよ戸惑うばかりでありました。おそらくニコデモもその渦中の一人であったと思われます。そうした人々の動揺が40節以下にはよく示されています。ここで改めて、いったい人々の心を動揺させているのは何なのか、と立ち止まって考えてみますと、主イエスのみことばの何がそれほどまでに人々を戸惑わせ、躓かせていたのでありましょうか。「この言葉を聞いて」とありましたが、何をどのように聞いたのでしょう。それを指す直近の聖書の言葉は7章37節以下の「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」というみことばがあります。ここで注目すべきことは、主イエスは、主イエスご自身からはっきりと「わたしのところに来て飲む」また「わたしを信じる」と仰せになられ、主イエスご自身に対して信仰を求めおられます。神の永遠の命に与るには、「わたし」即ち主イエスをメシアとして信じ受け入れる「信仰」が強く求められています。まさにここに、主イエスを神のメシアとして認め受け入れるという信仰に、人々は動揺し躓いていたことになります。つまり人々の躓きの原因は、主イエスご自身の説教にあった、説教そのものが人々を躓かせた、ということになります。つまりメシアをめぐる問題で主イエスを信じるということに、人々は躓いたのです。もっと率直に言えば、人々は「イエス」ご自身に躓き、その結果、大きく動揺し混乱した、ということが分かりす。人々は「イエス」に躓き、動揺していたのです。

 

2.なぜ、ユダヤ人は「イエス」に躓いたのか

「躓く」には、言うまでもなく、人を躓かせる「原因」がありますが、なぜ人々は「イエス」に躓いたのでしょうか。信仰の問題を考えますと、結局、多くの人々は主イエスに躓き続けている、というふうに言えるかも知れません。もっとはっきり言えば、人は「神」に躓き続けているのではないでしょうか。それは、主イエスだけではなく、私たちが「神」に躓くのは、なぜなのでしょうか。大抵の場合、私たちは、躓きの原因が何でも「他人」にあるとして、他人のせいにして問題解決を図ろうとします。全て他人が悪い。人や物のせいにできなくなると、最後は「運」が悪い、と言うのです。そしてついに天を呪い神を恨むことになります。ところが私たちは、案外「自分」の問題に気づかないのです。実は躓く原因はいつも「自分」にあることに気付けないのです。躓かせるものが悪い、と誰もが考えてしまうのです。聖書にもそう書いてあるではないか、と言う方もあるかも知れません。確かに躓かせるものが全て悪い、と言って言えないわけではありませんが、しかしそれでもやっぱり「躓く」のは、本当はいつも「自分」なのであります。自分がなければ、躓く者はいないのです。それなのに、あろうことか、人は「神」に躓き「救い主」に躓き、神の愛と真理とそのご計画に躓くです。まさか、これを全て躓かせた「神」が悪い、と言ってしまうのでしょうか。問題は、躓きを引き起こしている原因は「神」ではなく、自分自身にある、ということが自覚できないだけなのです。最近は加齢のせいか、道を歩いていてよく躓きます。躓いて後ろを振り帰り足元を見ますと、決して躓くとは思えないほどの、とても段差とは言えない、ほんの僅か数ミリ程度のことで躓いていたのです。足の爪先が殆ど上がらなくなっているのです。こうして「躓く」のは「自分」の衰えゆえのことであり、あくまでも歩く道が悪いわけではないと悟りました。すると、過信せずに自分が注意すべきで自分の責任であると痛感するようになります。

鎌倉の学校で禅の学びがあり、「脚下照顧せよ」と学びました。自分の足元から躓きは生じるゆえに、先ず足元を照らして顧みよ、という教えのようです。また「他人も自分もない」とも教えられ、そんな「分別」はすべて捨てよ、と教えられました。般若信経に「色即是空」という言葉がありますが、色がある、というのは、色がない、と言うのと全く同じ本質である、という教えでしょうか。自分の中で、色があることもないことも同じ本質であるとして、認識における分別や区別は全て無くしていく訓練のように思い、参禅しておりました。もし仮に躓きが生じるとすれば、それは禅風に言えば、躓く「足」や「自分」があるからであり、自分の足元から生じたものであり、躓く足ならば、そんなものは切って捨ててしまえ、というのです。自分が躓きの素であれば、そんなものは消し去ってしまえ、というわけです。実は「自分がある、自分がない」といのは、それは無用な分別が生み出す迷いであって、自分があるもないも、本質的には「何も無い」ことで同じである、という境涯に立てば、躓くという実態も消滅してしまうように思えました。その後、母の死を契機に参禅は止めておりましたが、20歳を迎え、不思議にもキリスト教に出会い洗礼を受けてからは、お師家さんにはつかず独自で参禅するようになりました。その目的は、自分が少しずつ死んで消滅する心境を覚えたからでした。鎌倉時代に聴いた話ですが、白隠禅師?という方でしょうか、高名な禅僧がおられ、病弱で床に臥すことが多かったようです。しかし白隠禅師は病いで床に臥しながら病それ自体を禅にしておられた、と聴かされました。病気の中でこそ死に逝く中でこそ、本当の参禅なのだ、と教えられました。今になり、その通りだ、と思うようになりました。禅の世界では、そのまま「無」となって、何もなくなってしまうのですが、キリスト教信仰に恵まれてからは、神さまは現臨し永遠無限に生きて働いてておられ、万物を愛と慈しみのうちに守り、無限の祝福をもってお支えくださっておれることがよく分かりました。周りや自分がどうであれ、また境遇が何であれ、そのまま全てをただ神さまにお委ねしてお任せすればよい、と全身で体験することができるからです。その神に向かって、神さまの懐奥深くに自分は静かに消えて無くなってよいのです。実はそこにこそ本当の無限なる平安と安息が生まれるからです。そんな意味から申しますと、もうそれは仏教の禅ではなくて、キリスト教の祈りの禅であり、イグナチオス・ロヨラの霊操にも似て来るようでもあります。祈りには「声」と「ことば」を出して祈る祈りもありますが、「身体」で祈る「全身全霊の祈り」もあることが分かります。そして神の現臨もとに、キリストのお身体のもとに、世の自分は完全に滅び消滅して、キリストの霊と身体に結ばれて一体される、そういう新しいキリストの身体としてある、という身体による祈りの体験を知りました。聖餐において、或いは説教を通して、「取りて食らえ、これはわが身体なり」とは、そういう身体による全身全霊の体験のことではないか、と思うのです。まさに「古き人」は死に、「新しき人」に生まれ生きるのであります。

ユダヤの人々が「神」に躓き「イエス」に躓くのは、ある意味で、どうしようもないこと、であったかも知れません。なぜなら「神」は、人間の能力や本質を遥かに超える「超越の神」であるからです。したがって捕らえようがないのです。理解しようも、認めよと言われて認めようもなく、確かめる術もありません。したがって、先ず主イエスのみことばを受け入れて「聴く」のです。そしてみことばにおいて語る主ご自身の解き明かしに照らされつつ少しずつ真実を認識してゆく、それ以外に方法はないように思います。それのためには、脚下照顧して自分の破れと限界をよくよく知り、「罪の奴隷」にある悲惨を知り認めることであります。そうした「罪」という人間の宿命的な根本問題に気づくことで、死の意味や真の命の恵みも、本来の人間の尊厳や喜びも、それらは皆決して「自分」にはないこと分かり、初めてそれを「神」のうちに求めることができるようになります。神の愛と祝福と恵みにある、という真実が見えて来るようになるはずです。そして新たに、みことばのうちにいよいよ神を求めるという「求道」の道が開かれ、主イエスご自身の内にまたみことばの照らしのもとに現臨する「神」に触れることができるようになります。残念ながら、ユダヤの人々は「律法」を持っていて「律法」に生きているという強烈な自負、過信や傲慢があったのではないでしょうか。みことばである聖書に深く聴き直す前に、既に自分で分かっている、自分がそうしたい欲求から、主イエスとみことばにおいて啓示される「神」を拒否し否定してしまっていたと思われます。そのため、傲慢による権威主義や自己絶対という底なし罪によって、瀕死のように蝕まれている自分の足元を見ようとはせず、そうして自分のもとに到来し現臨する、生きて働く「神」を求めず、ましてや認めて信じ受け入れることなど、到底できないまま躓いていたのではないでしょうか。

 

3.「まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめたうえでなければ」

「イエスはメシアであるのか」をめぐり、果たして律法はどう教えるか、律法学者の間に論争が生じます。ヨハネは7章50節以下で、そうした深刻な躓きの中にあるユダヤ人たちについて、しかもその権力の中枢での、ある興味深いエピソードを伝えています。「7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。7:51 『我々の律法によればまず本人から事情を聞き何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』7:52 彼らは答えて言った。『あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。』」と記されていますように、議員であり律法学者でもあるニコデモは、「我々の律法によればまず本人から事情を聞き何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならない」と主張しています。彼は学者としてとても慎重な態度で真相を究明しようとしています。この背景には主イエスの安息日規定違反があったと考えられますが、それを判定する前に、旧約聖書である「律法」に基づいて、主イエスご本人からの証言を聞き直さなければならない、と発言しています。これは、私たちが信仰生活を健全に進めるうえで、とても意義ある大事な態度ではないか、と思います。

前回の説教でもお話したように、主イエスの本質的な問題の所在は、律法違反や安息日規定違反にはありません。問題の本質は、イエスさまにおける「神」を認め、受け入れることができるかどうか、それが問われており、主イエスはそれを信仰として求めおられるのです。主イエスは、律法学者であれば誰もが知っている、モーセの律法の肝心要を成す言葉「わたしはある」(エゴー・エイミ)という神のお名前を敢えて用いて、ご自身をお示しになられました。ニコデモには、まだそれが果たして真実であるか、理解できず認められないようです。場合によっては、このヨハネを初め12使徒でさえ、同じように理解できていなかった、と思われます。それは、やはり、主イエスの十字架と復活の「栄光」を目撃し、さらには主イエスに代わり「聖霊」が降るまでは実現しないことでありましょう。したがって、この無理解も不信仰も、ある意味ではやむを得ないことでありましょう。律法学者としてニコデモが出来る精一杯のことでありました。そういう意味で、人間は常に限界の中にあるのであって、そのためには常に「神の時」を待たなければなりません。

実は、私たちの信仰生活も全く同じです。常に限界の中にあり、すぐに信仰お全てが明らかになるわけではなくて、あらゆることに常に「時」があり、神さまのお定めになる時である「カイロス」において、初めて明らかになり実現することであり、その時に出会うことで、初めて私たちは理解して分かることが出来るのです。ニコデモがここでとった態度はとても意味深いと思います。「我々の律法に従えば先ず本人から聞いて確かめたうえでなければ、判決を下してはならない」と主張しました。自分たちが判断することは止めて、遅らせて、何よりも「まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければならない」、それが我々の律法に従うということではないか、とニコデモははっきりと言って、明らかに事柄に「優先」順位をつけています。これはとても大事なことです。彼は優先すべき順位を正しく認識していたのです。そしてその最優先すべき順序とは、先ず主イエスご本人のみことばを聴き直す、という聖書である律法の言葉に従おうとする選択していることです。どんなに差し迫り、どんなに緊急で深刻な問題であろうと、自分が先に判断してしまうのではなくて、先ず主イエスのみことばから神の啓示を聴き直そうとしたのです。「神」さまの御心をみことばのうちに求め直したのです。これは宗教改革の精神にも通じる態度ではないかと思います。また私たちの信仰生活の在り方としても、全く同じように、通ずるものであります。余りにも多くのことが理解できず分からない。その時、先ずはとことん神さまの言葉に耳を傾けて、神の啓示とその御心を待つべきではないでしょうか。それが、ニコデモの選んだ態度であり、私たちもまたこのニコデモの態度から学ぶ必要があります。口に出す前に、行動を起こす前に、先ず聖書のみことばに聴き直して、神の御心を待つのであります。

 

4.宗教改革の聖書原理

信仰の拠り所は聖書のみにある、と宣言して、ルターは1517年10月31日『95か条の論題』をもって教会改革を断行しました。ただ只管に聖書のみことばに聴き従うことから信仰は与えられ、それによって、はじめて真の教会は立てられる、ということを明らかにしました。先ほど、ユダヤ人たちが「聖書」を持っていたのに「神」に躓いていた、というお話しましたが、注意したいのは、ユダヤ人だけではなく、私たちキリスト者もまた「聖書」も「教会」も与えられていたのです。それなのに、残虐な宗教戦争に至るまで「神」に躓いたのです。主イエスは、毎日のように神殿に通い、神殿に集うユダヤ人たちのために、聖書の解き明かしをして説教しておられました。それを、おそらくヨハネは晩年になり、福音書を記すにあたり、若き日に体験した主イエスのみことばを振り返っていたのではないでしょうか。「『7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおりその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」と仰せになられた主のみことばを想い起し、さらにこう振り返って述べています。「7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」。ヨハネは、主イエスの十字架と復活の栄光も、聖霊降臨によるみことばの照明も、まだ経験しておらず、神のご計画の意味を全く理解できなかったこと、その無理解を深く反省するかのように振り返っているように見えます。しかし死を目前にしてこの福音書を書き始めた今は、その意味とその力ある恵みが身に染みてよく分かったはずです。今は聖霊ご自身が、主イエスに代わってみことばにおいて語り、主の啓示の意味を一層鮮やかに示しているからです。あの時、神殿でキリストがお語りくださったみことばが、今は明らかに分かるのです。なぜなら、今は別の助け主である聖霊なる神が自分のうちに降り、力強く宿り、主のみことばを解き明かしてくださり、神の永遠の真理を照らし出してくださるからであります。聖霊の力ある恵みのもとに、イエスご自身も今ここに現臨して、みことばを語り、今まさにここで私たちの前で生き生きと働き一度限りの永遠の現在として、十字架の栄光を現在化し、その十字架と復活の栄光にお招きくださり与らせてくださるのです。こうして主イエスは、今は聖霊の恵みのもとに、主のみことばにおいて、ご自身の十字架における贖罪と永遠の命に漲り溢れる復活のお身体を「さあ、取って食べなさい」と差し出し命の食卓にお招きくださり、復活という永遠の栄光の命に与らせてくださるのです。パウロの証言する「主の死を告げ知らせる」とはそういう聖霊の恵みのもとに実現するキリストの共同の出来事であり、一つの命の身体とされる共同の体験でなかったのか、思う次第です。ルターの宗教改革の神学の中核は、神のことばの神学にある、とよく言われます。そしてその神のことばの神学とは、みことばにおいて、主イエスは現臨し生きて働いておられる、という「みことば」の力あるみわざにあります。ニコデモは、そうした所までには至らなかったにしても、分からないながらも、主イエスが語るみことばに「権威」を認め、そのみことばが語りまた啓示する「生きて働く神」と「照らし出される真理」に対して、誠実にそして謙遜に「待つ」ことが出来ました。みことばが真実を語り出すまでは、自分の判断を下そうとはしませんでした。私たち人間は、何もかも分かったうえで、ということはあり得ないことです。みことばにおいて聖霊がみことばの真理を照らし出し、真実に語り出すまで、私たちは常に待たなければなりません。ルターの宗教改革の本質も、何かが分かったからそれが絶対だから改革できるのだ、ということではなかったように思われます。むしろ不確かなことの方が多かったのではないでしょうか。ルターの宗教改革の本質は、自分たち人間の考えを拠り所にすることをきっぱり捨てて、ただ只管にみことばに聴き直すところから、或いはみことばが真理を語り出すまでは只管に謙遜かつ誠実に待ち望むことにあったのではないかと思います。

2021年10月24日「渇いている人は、だれでも、わたしの所に来て飲みなさい」 磯部理一郎 牧師

2021.10.24 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第23主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教21

説教「渇いている人は、だれでも、わたしの所に来て飲みなさい」

聖書 エゼキエル書47書1~12節

ヨハネによる福音書7章37~39節

 

 

聖書

ヨハネ7:37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。

 

 

説教

はじめに. 「神」を慕い求める飢え渇きの中で

八日間続いた仮庵の祭りの間、おそらく主イエスはずっと神殿に通い、聖書の解き明かしを続けておられた、と思われます。イエスさまは聖書を解き明かして「神の啓示」を語り告げることを祭りが終わるまで決して止めることはありませんでした。ヨハネ福音書7章37節にありますように、主イエスの神殿での説教は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」という、とても強い「呼びかけ」のみことばであり、「神の招き」でありました。「渇いている」とは、どういうことでしょうか。何に、飢え渇いているのでしょうか。言うまでもなく、「神」を慕い求める飢え渇きであります。神の真理に飢え、神の愛と憐れみに渇き、神による命に飢え渇くことであります。先週の説教との関連で言えば、「7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがないわたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」という根源的な神を求める問いであります。聖書を与えられ、骨身になるほど聖書の言葉を覚えているユダヤ人でも、主イエスによる正しい聖書の解き明かしが直接なければ、真の神と出会い、神を知ることは出来なかったのです。このみことばの主題は、あくまでも「神」と出会うための飢え渇きであります。是非注意したいことは、私ども日本人には、どうしても聖書を主観的に感情的に、自分の感情の欲求を満たしたいというだけで、聖書を読もうとする癖があります。つまり自分の感情欲求からこのみことばを聴こうとしてしまうのです。その結果、本来の「神」抜きに、「キリスト」抜きに、主観的な感情に支配されたまま、聖書を読もうとしてしまうのです。そういう自分の感情欲求だけで、聖書をいくら読んでもまた教会に通っても、実は本当の意味で「神」に出会うことはできないのです。なぜなら、神と出会うことと、自分の欲求感情を満たすこととは本質的に異なることだからです。それを「渇く」というと、日本人はすぐに「神」を抜きにして、自分の感情的欲求を中心に渇きを満たそうとするからです。これは所謂「承認欲求」と「信仰義認」と混同してしまう誤解にも通ずることで、常に「神さま抜き」で、神さまのことはわかんない、でも「自分の気持ちや欲求」で、聖書を読み教会に通う、場合によっては、奉仕さえも「神抜き」に求める癖が出てしまうのです。ですから、改めて申しますが、神さま抜きで、自分の感情的欲求を満たすための「渇き」ではない、ということを慎重に覚える必要があるようです。心の中で先ず、真実に神を求め、神を認めて、神を受け入れる渇きであることを分別したうえで、説教をお聞きくださるとよいと思います。あくまでもこれは「神」を捜し求め、「神」を慕い求める者の話なのです。

 

1.エゼキエルの預言から

主イエスの聖書の解き明かしは、詳細は分かりませんが、もしかするとエゼキエル書に触れる説教ではなかったかと思われます。なぜなら、主イエスはわざわざ「聖書に書いてあるとおり」と言われておられるからです。預言者エゼキエルは「47:1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。47:2 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。(中略)47:9 川が流れて行く所ではどこでも群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所ではすべてのものが生き返る。」という有名な預言を残しています。エゼキエルは、言わば、神とその命の恵みを、神殿から流れ出る川に喩えて、神による新しい命の祝福を預言した、と考えられます。そしてこの預言はイザヤの希望の預言にも通じており、「12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。」とありますように、神がイスラエルを命の祝福をもって満たす喜びと感謝を表しており、神への栄光と讃美の歌であります。しかも盛大な仮庵の祭りでは、こうした聖歌隊の豊かな讃美の中で、祭司が神殿に湧く水を汲み取る儀式が行われていたようです。したがって仮庵の祭りのただ中で、祭司が神殿の水を、おそらくはシロアムの池の水を汲み取る儀式を背景にしながら、主イエスは聖書の解き明かしを行っておられたのではないか、と推定することが出来ます。問題は、単に祭りの儀式として神殿の水を汲み取ることではなくて、二度と渇くことがないように永遠の命を齎す真の神と出会い、真の神の命の祝福にあずかるのだ、と主イエスは人々をご自身における「神」へとお招きになられたのではないでしょうか。儀式を繰り返すことと、生きて現臨する神の祝福に実際に与ることとは本質的に異なる現実があるのです。ここで、決定的な意義ある働きをするのが、「受肉のキリスト」である主イエスご自身において、「神」は「わたしはある」という名において現臨し、「神」ご自身が「受肉のキリスト」の語るみことばにおいてその真実を啓示し、解き明かしておられることにあります。決定的なことは、このキリストの現臨とその語るみことばにおいて、初めて人々は真の「神」と出会い、真の命の祝福に与ることにあります。

 

2.渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい

主イエスは、愛と憐れみをもって「7:37渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と仰せになって、人々をお招きになりました。ただ、この主イエスが仰せになったみことばの本当の意味をもう少し丁寧に考えてみる必要があります。私たちの欲求が満たされることだ、と短絡的に受け取るのではなくて、むしろ主イエスがお求めになる本当の意味を、正しい理解を主の真意に即して辿り着くことが大事です。既に見て来た通りですが、こうしたイエスさまの憐れみと神への招きは、既にサマリアの女との対話の中で、ご自身が神のメシアであると告げ知らせる啓示の言葉の中に見られます。4章13節以下で「4:13この水を飲む者だれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かないわたしが与える水はその人の内で泉となり永遠の命に至る水がわき出る。」とお教えになり、女を主イエスのもとにお招きになりました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とは、「ヤコブの井戸」から命の水を汲み取ろうとする、即ち「律法の遵守」を通して「神」に出会い、神の命の祝福を受けようとする、所謂「律法」主義のもとにあるユダヤ人たちを指しています。しかし残念ながら、いくら律法の中に救いを求めても、それでは増々罪に破れ、罪を重ね続けことになり、底なしの罪責の中に堕ちるばかりで、真の神の前に祝福を受けることはできない、と主は女に諭しました。すると、女は主イエスに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と応じます。そして最後に、主イエスは女に「4:21婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と説きます。主イエスは、あなたとわたしが共に向き合っている今ここが、もうすでに「真の神」の前に立ち、真の神と出会い、生きた「神」を礼拝している、その時は既に来ている。なぜなら今この「わたし」において、あなたは「神」の前に立ち、既に神に愛と赦しに招かれている、と告げたのです。すると、女は主イエスに「4:25わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と応答しました。その人のうちに湧き溢れ流れ出る永遠の命の水とは、主イエス・キリストにおいて、主イエス・キリストを信じて受け入れることを通して、今ここで汲み取ることが出来る、と主イエスは教えたのです。渇くことのない命の泉から汲み取ること、それは即ち、主イエスにおいてまた主のみことばにおいて「神」の前に立ち、神と出会い、神の生きた命の祝福に与ることを意味したのです。

 

3.わたしがそれである(わたしはある)

主イエスは、このようにご自身が真の「神」のメシアであり、真の神のみこころを実現し行うために「わたし」をお遣わしになれたのだ、という言い方で、主イエスご自身における「神」を女にお示しになられたわけです。そればかりか、主イエスは加えて、神を「父」と呼びご自身を「子」と呼ぶことで、父も子も同じ同一本質の「神」である、と言い表しました。親がライオンであれば子もライオンであるように、父が神であれば、言うまでもなく、子も同じ神であります。主イエスは「わたしをお遣わしになった方」或いは「父」という言い方で、主イエスはご自身における「神性」を、或いは「神」であるご自身の本質を表明されたのですが、もう一つ、さらに重要な言い方で、主イエスはご自身における「神」を言い表します。それは、先ほどの4章26節に既に現れていました。主イエスはサマリアの女にこう仰せになりました。主イエスは「4:26それは、あなたと話をしているこのわたしであるVEgw, eivmi( o` lalw/n soi))。」と告げて、ご自身が神のメシアであることを明らかにしたのです。この主イエスの表明で最も重要なことは「わたしはある、わたしは~である(VEgw, eivmi)」という言い方です。邦訳のように「それ」という文字そのものはギリシャ語原典にはなく、「わたしは(evgw,)」という一人称単数主格と「ある(eivmi)」という能動形一人称単数現在の動詞に、後から「あなたと話しているその人(o` lalw/n soi)」という男性単数主格定冠詞と男性単数主格の直接法能動形現在分詞による句が続きます。直訳しますと「わたしはある、即ちあなたと話しているこの者である」という意味になります。これはギリシャ語の表現ですが、この元となったギリシャ語表現は「七十人訳」旧約聖書に遡ります。それも旧約聖書出エジプト記3章13節に遡る用語であります。それは「神」を言い表す神のお名前の定型表現として現れます。エジプト脱出の折りに、神はモーセを出エジプト脱出の指導者として立てますが、そこでモーセは神にこう尋ねます。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」3:14 神はモーセに、「わたしはあるわたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と記されています。言い換えれば、モーセに対して、「神」ご自身は「わたしはある」というお名前でご自身の存在を現わし啓示された、と言えます。ヘブライ語原典では「ハイヤー」という字ですが、これをギリシャ語の七十人訳旧約聖書は「わたしはある」(VEgw, eivmi)という字で、訳しました。ヨハネによれば、その「わたしはある(VEgw, eivmi:エゴー・エイミ)」という言葉を、そのまま、主イエスご自身は「神」であることを言い表すお名前として用いておられるのです。ヨハネによる福音書によれば「6:35わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」「6:48 わたしは命のパンである。」「6:51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」「8:12わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」「10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」「11:25わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」「14:6わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」「15:1わたしはまことのぶどうの木で(あり)、わたしの父は農夫である。」「15:5 わたしはぶどうの木で(あり)、あなたがたはその枝である。」と主イエスはご自身を言い表しておられます。これらは皆全て「わたしはあるVEgw, eivmi)」という同一の定型句によって貫かれており、主イエスは、ご自身における「神」を自己啓示するための象徴用語としてお使いになっておられます。極論すれば、出エジプト記において、主イエスは、モーセに「神」がご自身を啓示されたその「神」のお名前「わたしはある(VEgw, eivmi)」を、そのまま用いて、ご自身が同じ「神」である、即ち「わたしはある」と自己表明されたことになります。「律法」という文字や規則の中に、いくら生きた真の神を求めても、決して得られるのではなく、「わたし」すなわち主イエスというお方においてこそ、神は初めて求めることが出来るのであり、主イエスにおいてこそ、初めて真の生ける「神」に出会うことが出来、主イエスにおいてこそ、初めて力ある神の救いのわざに与ることが出来る、と告知したのです。7章37節以下にありますように「7:37渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われました。完全な神による命の祝福は、「わたしのところに来て飲む」ことで見出され得られるのです。それは無限に湧く泉のように川となって流れ出すのです。なぜなら、主イエスにおいて、真の「神」は啓示され、しかも主イエスにおいて「神」は生き生きと現臨しその御心を行われるからであります。

 

4.父、子、そして聖霊としての「三位一体の神」

最後に、本日の聖書テキストで、読み解くのに最も困難に覚える箇所が、7章39節の「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」というみことばではないかと思います。これは、おそらくは主イエスが4章23節以下でサマリアの女に告知されたみことばに関連づけられるのではないか、と考えられます。主イエスは「4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならない。」と女に啓示しておられました。

これを聞いている人々の側からすれば、主イエスにおいて「神」が到来している、ということさえ、まだ受け入れることができないでいるわけで、しかも、その主イエスが十字架の上で贖罪の死を遂げ栄光の復活をなさり天に昇られる、という主イエスのご自身の「栄光」についても、人々には全く理解することができなかったはずです。それなのに、さらに加えてまた、今度は主イエスに代わる「別の弁護者」として「聖霊」が遣わされ、その聖霊において、「神」は現臨しご自身を啓示されて、いよいよ最後の救いの完成が実現する、ということまでは、到底理解できることではなかったと思います。当然ながら、12人の弟子たちにしても、イエスが「神」であり、しかも神の御子が、マリアから受肉したお身体において、民の贖罪のために十字架でご自身を献げ死んで三日目に復活することさえも、到底受け入れることが出来ない神のご計画であったはずです。ましてや「聖霊」がさらに降るというもう一つの新しい神の現臨の仕方と啓示を信じて受け入れる、などということは全く理解出来なかったのではないかと思われます。おそらくヨハネは、使徒として生涯を尽くし最後までこの真理を理解することに、この啓示の真理を探り求め、葛藤しながら深く苦しみ続け、追いかけて来たのではないかと思われます。そしてヨハネとその教会はついに、神が「父」としてまた「子」としてそしてついに「聖霊」として、すなわち「三位一体の神」として、「神」ご自身を啓示してくださり、自分たちのうちに常に永遠に現臨し続け、しかも永遠の命に至る完成に導き養い続けておられる、という救いの現実を悟るに至ったのではないか、と思います。まさに渇くことなく永遠に湧き出る命の泉は、このわたしの内にこんなにも豊かに流れ出し溢れ出ていることを悟ったと考えられます。それはまさに父と子と聖霊の神において現臨し、父とキリストを通して注がれる聖霊において生きて働く神を体験したからではないでしょうか。そこで、ヨハネはようやく福音書を書くことが出来るようになったと思われます。そうしたヨハネの思いが、この7章39節には滲み出ているように見えます。ヨハネは、主イエスにおける神を探り求め続けながら、主イエスのうちにその本質に触れるまで奥深くまで入り込むようにして、主イエスのみことばにおける神の啓示を探り求め続けていたことがよく分かるのではないかと思います。主イエスのみことばにおいて、いよいよ深く神の本質に迫ろうとするヨハネの熱い信仰の思い、そして聖霊において生きた命の泉が湧き出るように流れ出ている恵みと喜びが伝わって来ます。しかしそれは、私たちも全く同じことではないでしょうか。私たちも日々、主のみことばにおいて、生きて現存する神と深く触れ合い、その生きた交わりの中に、新しい永遠の命を汲み取り続けているからであります。

2021年10月17日「わたしをお遣わしになった方のもとに帰る」 磯部理一郎 牧師

 

2021.10.17 小金井西ノ台教会 聖霊降臨22主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教20

説教「わたしをお遣わしになった方のもとに帰る」

聖書 詩編147編1~20節

ヨハネによる福音書7章32~36節

 

 

7:32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらくわたしはあなたたちと共にいるそれから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所にあなたたちは来ることができない。」7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

 

 

説教

はじめに.  超えることのできない大きな壁と限界の前で、神を知るとは

私たちには決して超えることのできない大きな壁があります。それは、私たち人間には「神」を完全に知ることはできない、という大きな壁です。場合によっては、それは「神」だけでなく、「他人」の思いについても、完全に理解することさえできないかも知れません。否、もしかすると、私たちは「自分」の本当のことすら分からないまま生まれ、何一つ知らないまま、死んでゆくのかも知れません。そう考えますと、私たちは日々、ほんの一部のこと、それも、ほんの僅かで本当に小さいことを一つずつ気付かされているに過ぎないのかも知れません。そんな私たち人間が「神のご計画」全体を知るなどということは、明らかにとんでもないことであり、不可能なことであります。所謂「世界内存在」と呼ばれる非常に限られた人間世界の「内側」の中では、多少学ぶことや覚えることはできても、人間世界の「外側」で何がどのように起こっているのか、ましてや被造物というこの世の存在を越えて、「超越なる神」について知るということはどれほど困難か、であります。しかし「聖書」は、それでも、こうした現実を打ち破るようにして、たいへん不思議なことですが、「超越の神」をこの世の人間に分かるように人間の言葉を通して啓示し伝えます。「超越の神」を啓示して証言し続ける「聖書」というものが、世に与えられたことは、いよいよ人間の理解を遥かに超えた驚くべき出来事ではないか、と思います。

かつて青春時代に、鎌倉のお寺や学校で学んでおりました頃、人間は精神の修養や鍛錬のために勉強をして宗教を行うと教えられ、自分でもそう考えて育ちました。柔道や剣道に励み、師家について参禅もいたしました。それは全て「精神」修養のためでした。それは、あくまでも人間の世界の中の話であり、精神を鍛練する学びであります。そうした意味から言えば、わたくしにとりましては、宗教とは人間の世界の中で生まれ、人間の精神のために造られ、人間のために修行実践されてきたものでした。決して宗教とは、本来、人間世界の「外」にあって、人間の本質を超越する世界のことだなどとは全く考えたこともありませんでした。宗教とは、いつも人間の中で人間のために人間によって造られ、信じられ、用いられ、実践されてこそ、宗教の真の意義がある、と考えていたからであります。自己のうちに仏性を深く知り成仏する、と言われますように、神を遠くに拝むというよりも、自らがその拝む対象そのものにより近く近づく本体となることこそ、宗教を実践する目的であったように思います。ところが、アッと言う間に母が癌で亡くなり、人間には「死」という超えることの出来ない悲惨と限界があることを、死の事実をもって経験し知るようになりました。死という宿命的な破れの前で、死という底なしの淵に立ったとき、いわゆる精神修養も宗教実践も何一つ役には立たない、という無力で絶望的な人間の現実を魂の底から認識いたしました。では、どうすればよいのか。どうすることもできない。絶望と虚無の中に、人間は完全に閉ざされ塞がれてしまった、と思うようになりました。人間が人間の精神のために作り上げた宗教の空しさを知りました。生きているうちは、この世にあるうちは、心身の鍛錬も修養もとても意義あることですが、この世における存在も命も消滅するという事実の前には、宗教は完全に沈黙して無力でありました。それから参禅することも止めてしまいました。ただ、牧師になってから、また別の意味と目的から参禅するようになり、自由が丘におりました頃は、よく駒沢大学の禅堂に通い何時間も時の経つのを忘れて過ごしておりました。ご案内の通りは、仏教は仏陀、即ちガウタマシッダールタという気高い精神が魂の修養のために教え説いた宗教です。人間が人間であることのより深い真相を究める場という意味で、或いは精神の極限を見極めるという点で、禅はとても優れており、非常に有益である、と今でも考えております。しかしそれは、あくまでも人間の世界の話であります。人間の外側の、しかも人間の本質から遥かに超越した神の世界のことではないのです。古い仏教には、「白骨観」という修行があったようです。眼前で死者が白骨化してゆく経過を見つめながら座り続ける修行だと聞いております。そしてそうした死による完全消滅を眼前にしながら、あらゆる分別を捨て去り解脱して、悟りに至る修行です。それは最早、救済というよりは精神的「無」という判断停止の心境に近いように思われます。そこに、まさに世界内存在としての人間の限界があるように思われました。しかし、そうした世界内存在としてのこの世の人間に、世界の外から、超越の世界から「神」が外から内に限界と壁を打ち破るようにして、語りかけ、「神」であるご自身を啓示してお示しになったのです。その神の啓示を聖書は人間の言葉によって伝えるのであります。本当に、いよいよ不思議なことであります。本日の説教で取り上げたい今日の問題は、聖書こそは、その「神」を伝える啓示の言葉である、ということにあります。

 

1.聖書は「神のことば」ではあるが、

周知の所でありますが、キリスト教の源泉はただ「聖書」のみにあります。教会は「聖書」から生まれ、キリスト教は「教会」から生まれました。人間の世界には存在しない「神」が「神」ご自身において「神」を語り、「神」をお示しになり明らかにすることを「啓示」と申しますが、これはまことに不思議なことでありますが、神が神ご自身において神を語る啓示の言葉こそ、66巻から成る新旧両約の「聖書」の本体本質である、と私たちは認め、信じて受け入れています。したがって「聖書」こそ「神」と通じる天からの天への窓であります。では、聖書を読みさえすれば、すぐに「神」が分かるか、といえば、実はそうでもないようです。折角、神は自ら真実な神ご自身を聖書において、人間の分かる人間の言語として啓示してくださったのに、折角、神ご自身が神のことばにおいて、神を明らかにされお示しくださったのに、折角、人類に聖書が与えられたのに、その神の啓示である聖書を読めば、すぐに「神」は分かるようになるかと言えば、これもまことに皮肉なことですが、それは必ずしもそうでもないのです。一方では「聖書」という神の啓示がこの世の中に与えられていながら、他方では、それだからと言って、必ずしも読めば「神」が分かるというものでもない、というのですから、何だか矛盾しているようにも思われます。聖書が分かる、言い換えれば、聖書に証しされる「神」と出会い、「神」を知るとは、どういうことなのでしょうか。今日は、神殿で説教されるイエスさまのお姿から学びたいと思います。

先週の説教で、エルサレム神殿で、説教するイエスさまについて、お話いたしました。イエスさまは、神殿の回廊で、既にユダヤの人々に与えられていた所謂「旧約聖書」について説教しておられました。私たちのよく用いる言葉で言い直しますと、聖書を、つまり律法についての「解き明かし」を行っておられたと見られます。なぜでしょうか。確かにユダヤの人々は、物心がつきますと、聖書の言葉を丸ごと暗記して、骨身になるほどまで聖書の言葉を身に着けて、成長するようです。当時の聖書は羊や子牛或いはパピルス等に巻物として記されており、エルサレム神殿を初めとする、宗教活動拠点に安置され、人々は只管に口伝えで暗記して身に着けていたようです。したがって聖書がある、聖書を持っていると申しましても、印刷技術に助けられた現代人が聖書を持っているという話とは質的に次元が違うのです。ユダヤの人々はどれほど聖書の言葉に親しんでいたか、それは、私たち想像を遥かに超える次元で、聖書のことばを持っていたはずであります。それなのに、聖書を読めばよく分かるはずなのに、ましてや骨身になるように聖書を読み込んでいるユダヤの人々に対して、イエスさまは、わざわざ神殿で聖書を解き明かさなければならなかったのです。それはどうしてなのでしょうか。

理由は明らかです。聖書を知っていること、聖書をもっていることと、聖書の真理に「心の眼」を開かれて、聖書の啓示に示される「神」を知り「神」と出会うということとは、実は全く別なことであったからではないでしょうか。聖書に書かれた言葉を通して、真実な神を知る、そして生きた神と出会い、神との交わりの中に生かされることを、主イエスは、聖書を解き明かすことによって人々を導こうとしたからではないでしょうか。だからこそ、主イエスは、聖書を解き明かす必要があったのだと思います。言い換えれば、聖書をよく知り聖書を持っていたユダヤ人は、本当の意味で、また真実の神を知らず、まことに生きて働いておられる真の神が前におられることを知らないでいる、とお考えになったからではないかと思います。あの熱心なユダヤ人さえ、聖書に啓示された「神」を正しく聞き分け、人格の根元から神と出会い、神を知り、神と交わり、神と共に生きることが出来ずにいる、とイエスさまはお考えになっておられたからではないでしょうか。これと全く同じことが、わたくしどもキリスト教会についても、また私たち信徒ひとりひとりにおいても、言えることではないでしょうか。教会に通い聖書を読んでいる、だから神を知り神と共に生きている、とそのまま果たして言い切ることができるだろうか、という問いにもなります。主イエスが、神殿で、ユダヤの人々のために、聖書を解き明かしてくださる、ということは、実はそういうことであったのではないでしょうか。聖書が与えられていたのに、聖書に啓示される神の真実を読み解き、今ここに生きて現臨する神に届いてはいなかったのです。

 

2.わたしお遣わしになった方のもとへ帰る

そこで、主イエスはこう言われます。「7:33今しばらく、わたしはあなたたちと共にいるそれから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所にあなたたちは来ることができない。」。特に注目したい所は、「それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」しかも「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」という告知です。神の次元で言えば、神のもとに帰ること、すなわち十字架の死の栄光を遂げて、御心を果たされたのちに、復活の栄光を受けて天に昇り、父のみもとへと栄光の帰還を遂げられることをお告げになります。しかしこれはあくまでも、超越の神の次元でのご計画ですので、人間の側には見えず、量り取ることのできない「隠された神のご計画」を啓示し告げ知らせるみことばです。ただし、さらに注目すべき所は、それでもなお主イエスは、「7:33今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。」とも告げておられます。確かに神の隠されたご計画であり秘義ではあっても、今はまだ主ご自身が人々と共にいてくださる、というのであります。言い換えれば、それでも主ご自身は、ご自身において、またご自身のお語りになるみことばにおいて、私たちと共におられる、寄り添い続けてくださる、という主イエスの愛とみこころがここに読み取ることができます。率直に言えば、「わたし」において、今はまだあなたがたは「神」と出会い、神と共に過ごしているではないか、ということを意味するみことばでもあります。

しかしやがて、イエスさまには、十字架の死をもって御心を果たし、栄光のうちに父のもとにお帰りなられる時が来る。そして天に昇り父の右に座するのですが、今度は、主イエスに代わり、別の助け主が遣わされることになります。先の話になりますが、主が十字架の死の栄光を遂げて、完全に従順と義を貫いて、世の罪を全て償い尽くして、天に昇られた後に、今度は「聖霊」を「別の助け主(弁護者)-傍らに寄り添う者-」として、お遣わしくださることになるのですが、しかも神はイエスさまに代わる聖霊において神ご自身をいよいよ啓示してくださり、人々はその「聖霊」において導かれれる「教会(エクレーシア)」という「キリストの身体」において、「神」と出会い、「神」は私たちのうちに宿り、「キリストの身体」として共に聖化と救贖の道を歩むことになります。

ところが、この主イエスの、隠された神のご計画を告げる啓示のことばに対して、ユダヤ人たちは、互いにこう言い始めます。「7:35わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろうギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行ってギリシア人に教えるとでもいうのか」。とても興味深いくだりです。神の世界に心を向けられずに、あくまでもこの世の人の世界に、キリストを求めようとします。実は、こうした同じような話が、20世紀以降でも、キリスト教の聖書学者と呼ばれる人々の中にも起こりました。キリストを神として受け入れることができずに、この世の人間の中に、キリストの価値を捜し求めたのです。神の世界は神話の世界であって、聖書証言から神に関する神話的な証言は全て捨て去り、キリストを神に求めずに、この世の人間世界の価値の中に、或いはこの世の諸宗教の中に、捜し求めて研究する、という聖書神学が流行しました。ある意味で、それはいつの世でも、最初から変わらないことなのかも知れません。ただキリストを神として捜し求めることが出来ず、ギリシアに求めたユダヤ人たちの姿が、現代では、こうした聖書学者に入れ替わっただけの話かも知れません。言い換えれば、信仰か、不信仰か、そのどちらかで、方向性の全ては決定づけられてしまうことになるようです。みことばにおいて、神の啓示を認め、その示されたご計画を信じ受け入れ、神の愛と救いと出会うのか、それとも神の啓示を拒否して、その拒否ゆえに、神の愛と救いに出会うことなく、自分独りで独善的に実存と称して、自分を神のように信じて生きるのか、ということになるでしょうか。

ユダヤ人たちは、さらに興味深いことを語っています。「7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても見つけることがないわたしのいる所にあなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」と言って、とても意味深長な「問い」を残して、この対話は終わります。「あなたたちは来ることができない」とは「どういう意味なのか?」というこの論争の末、最後の最後に残された問いは、とても奥の深い、底知れなく意味の深い問いのように聞こえて来ます。言わば、人類がどれほど神を求めても求めて、決して自分の手では掴み取ることができないでいる、そうした人類の、知恵ある種族、ホモ・サピエンス(知恵)としての、宿命的で永遠の問いのように聞こえてくる問いではないでしょうか。まさにこの「どういう意味なのか?」という問いで終わるこのユダヤ人の言葉は、知恵の行きつく所は、常に「謎」であり「懐疑」に終わる、という知恵の本質を見事に言い尽くしているように思われます。神と人とは、その存在と本質において、徹底的に異なるものであり、人は如何なる知恵をもってしても、神を完全に測り取ることはできないのです。したがって、神に対しては常に問いが残り、結局は「謎と懐疑」に包まれてゆくことになります。

しかし他方で、わたくしは、このユダヤ人の主イエスの啓示のみことばに対する言葉、すなわちその言葉は「どういう意味なのか?」という問いに、ある大きなプラスの意味も見出しています。それは、人間の別な意味での、「知恵」を持つことの意義を覚えるからです。それは、ホモ・クワエレンス(問い)とも言われるように、人類は「知恵」をもって全てを問い続ける存在でもあります。ユダヤ人たちは、狂気と憎悪に燃えて、イエスさまを十字架につけて殺してしまいましたが、そのユダヤ人たちでさえ、果たしてそれは「どういう意味なのか?」と最後まで心に残る問いを決して消し去ることはできなかった、ということです。知恵は問いを人類に与え、最後まで問いを残し続けているからです。人類の歴史を振り返りまして、一方で戦争を繰り返しながら、しかしその反面、果たしてそれはどんな意味があったのか、と問い続けるのであります。問いは、省察と反省を産み、ついには「破れを知る」導きとなるからです。ソクラテスは知と学びの始まりは「無知の知」にある、と教えていますが、まさに、破れを知り、無知を知り、ついには、救いと助けを謙遜に願い求める心を準備する出発点となるからです。いくら聖書学者たちが「神」を聖書から捨象し排除したとしても、それでも、聖書はいつも私たち人類に「どういう意味なのか?」と問いを残し続けるのであります。確かに罪びとであり不信仰であっても、わたくしたちの心の奥深くに、その言葉の意味は何を意味するのか、神の存在とその啓示について、問いを残し続けるのではないでしょうか。

 

3.三位一体の神と聖書の霊感説

イエスさまは、聖書の言葉を完全に骨身になるほどに身に付けたユダヤ人たちにさえ、それでも聖書はいよいよ解き明かされなければならない、と説教を神殿の中枢で行う必要があると考えていたようです。それは、どうしてでしょうか。既に主ご自身のみことばの中に、答えはあるように思われます。それは、なぜなら「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(ヨハネ7:36)からです。人は神ではないし、人は神にはなれないからであります。であれば、ただひたすら神が人として世の人々にご自身を啓示し続ける外に道はありません。神ご自身が外から人間の内側に降り、現臨し続け、啓示し続け、そして常に人間のうちにおいてみわざを行うことの外に道はないのです。人間の側から「外」に向かって問い探し求めることは出来ても、神に出会い神を知り神と共に生きる術はないからです。

キリスト教を世に成立させている決定的なキリスト教の神の教理は「三位一体の神」という教理です。わたくしは事ある度にとても意義の深い教え、或いは啓示ではないか、と痛感しています。「神」は、最初に万物を創造することで万物にご自身をお示しになりました。「万物創造」において「神」をお示しになられたので、聖書は「造り主」としてご自身を啓示します。次いで「神」は、神の創造の祝福溢れる秩序を罪による堕落により破壊した人間の罪を贖罪して神の義のもとに新しい人間性を回復して永遠の命を与えるために、「受肉のキリスト」として「神」をお示しになり、しかも「神」は「受肉のキリスト」においてまたその語るみことばにおいて、「神」は「父」と「子」と「聖霊」という三つの存在様式をもって神ご自身を証し啓示します。そしてさらに「神」は、「受肉のキリスト」に代わり「別の弁護者(助け主)」として「聖霊」を世に遣わして、一貫した神ご計画を啓示し続け、みわざを遂行して、そして人類をはじめ万物を贖いの完成へと導かれます。ここで是非お覚えいただきたいことは、「啓示の貫徹」ということです。造り主による万物創造も、御子による受肉のキリストにおける贖罪と和解も、そして聖霊による教会における救贖も、すべて神は、父子聖霊として、この世の外から内に向かって常に現臨して、一貫して救いのみわざを遂行され、ご計画を完全に貫徹しておられる、ということです。つまり常に神の啓示はこの世のただ中に向かって貫かれている、ということにあります。

イエスさまは、神殿で聖書を解き明かす説教を、ユダヤ人のためになされました。そのお姿は、そのまま、御子が人間のためにご自身が天から降り、しかも神を問い続け探し求めても見つけられない人間に対して、人間の前に現臨することで、「神」ご自身を啓示し続けておられるお姿を象徴しているかのように見えるのであります。そればかりか、天から地上に降り、人間の内に宿り、万物と共に寄り添い、ご自身の救いのみわざを遂行しておられるのであり、ついには完成へと導く「神」をお示しになっておられるのではないかと思えて来るのであります。まさに「神」とは「啓示の神」であり、まさに父と子と聖霊という「啓示の神」において、神はわたくしども人間の内に現臨し働き続けておられるのではないでしょうか。

そうした中で、聖書の解き明かしは、主イエス・キリストから別の助け主である聖霊なる神により受け継がれます。みことばにおける主権者、審判者として、主イエスは聖書を解き明かしましたが、今度は、教会においては聖霊がまさに主イエスを啓示して主イエスを主権者としてお立てになり、主イエスにおいて語るのであります。キリスト教の決定的な信仰告白に「聖書は神の霊感によりて成る」という教えがあります。日本基督教団信仰告白(1954年制定)は、その冒頭で、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の依るべき唯一の聖典なり。されば聖書は聖霊によりて神につき救いにつきて全き知識を我らに与ふる神の言(ことば)にして信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白しています。また日本基督教会「信仰の告白」(1890制定)では、「古(いにしえ)の預言者使徒および聖人は聖靈に啓廸(けいてき)せられたり、新舊兩約の聖書のうちに語りたまふ聖靈は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり」と告白します。両者は共に、聖書の本質は聖霊による啓示であることを明らかにしつつ、その聖書に基づいて、信仰や生活が基本的に導かれていることを明らかにしています。つまり聖書証言の中に、神の秘められたご計画が啓示されている、それは聖霊によるということになります。ここに、キリスト教それ自体が依って立つ根拠があります。反対に、聖書の中から、神についての啓示を神話として排除してしまえば、聖書の本質が失われて、教会の依って立つ信仰と知識の基盤を失います。

2021年10月10日「わたしをお遣わしになった方」 磯部理一郎 牧師

2021.10.10 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第21主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教19

説教「わたしをお遣わしになった方」

 

 

聖書

7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちはこの人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのかだれも知らないはずだ。」7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

 

 

説教

はじめに. 「メシア」をめぐる論争

本日は、ヨハネによる福音書7章25~31節までのみことばを分かち合いますが、最初に7章全体の構成について、簡潔に整理しておきましょう。まず7章1~9節では、新共同訳聖書によれば「イエスの兄弟たちの不信仰」と小見出しが付けられておりますように、主イエスの兄弟たちがガリラヤでイエスさまに、エルサレムに上るように勧めて、ご自身がメシアであることをはっきりとお示しなさい、と迫る場面が紹介されます。しかし主イエスは、まだご自分の十字架の時には至ってはいないので、エルサレムには上らない、とお答になります。ところが、7章10~14節になりますと、「仮庵の祭り」が近づいたので、イエスさまは、律法の規定にしたがって、ひとりユダヤ人男成人性として密かにエルサレム神殿に詣でることになさいます。そしてついに、7章15節以下にありますように、神殿で、皆が驚くような力強い説教をなされる主イエスのお姿を、私たちは見出すのであります。主イエスは、今ここで、エルサレム神殿の回廊で、聖書の教えを解き明かしておられました。特に「律法」本来の意義とその目的について教えられ、律法の本質は「愛する」ことにあるのだ、と教えておられたよです。それは、マルコ10:17~31「金持ちの男」、マルコ12:28~34「最も重要な掟」などがよく示す通りです。同じように「安息日」の規定についても、安息日の本来の意義は、神の命の祝福を覚えることにある、と教えておられたのではないでしょうか。その典型事例として、安息日に「割礼」を施すのは、神の民に命の祝福と神の民の一員とする契約のしるしではないか、と安息日に覚えるべき最も大切なことをお説きになっておられます。ご承知の通り、割礼では、男子の身体(性器)の一部を切り取る、という行為が施されます。そうした身体に対する切断行為が「安息日」に認められているのはなぜか。それは、「誕生」の(生まれるという)出来事の本質は、神の命が注がれ、神の民の一員として迎え入れられた祝福を意味しているはすだ。それなのに、神の民の共同体において命の根元から一人の人物が癒されることは、どうして禁じられ、認められないこととなるのか、それでは、安息日における創造完成の祝福と矛盾するのではないか、と解き明かして、安息日の本来の目的は、神が民を愛する愛と恵みによる創造の完成と命の祝福を表すことでであり、人々はその神のみわざと栄光を感謝と喜びをもってほめ讃えることにあるのではないか、と説いたと思われます。安息日の癒しを非難して断罪しようとするユダヤ人たちに対して、主イエスは割礼を例に挙げて安息日の正しいあり方を説明し解き明かした、と考えられます。この7章15~24節に紹介されるイエスさまの説教は、5章の安息日の癒しの出来事と直結するお話であります。そうであれば、もしかすると、この15節以下は本来5章末尾に続く話であって、何等かの事情で7章に移されてしまった、と推測する学者も多くいますのも頷けることであります。

このように7章15節以下の教えは、安息日に病人を癒すことの正当な理由をお示しになって、律法本来の意義と目的について、聖書を解き明かした主教を中核していました。しかし、その続きとなる本日の7章25節以下は、全く異なるもう一つの、別の説教が展開されます。言わば、主イエスの説教を引き金にして、ユダヤ人たちとの激しい論争になってしまったようです。25節以下の主イエスの教えの主題は、主イエスご自身が何者であるかを主題としており、そして主イエスご自身が「神」と直結した存在であることをはっきりと表明する啓示のことばとなります。話はいよいよ、より重要かつ深刻な宗教問題に発展してゆきます。言い換えますと、15節以下24節までは、単なる「律法の解釈」をめぐる対立論争でしたが、本日の25節以下からは、律法解釈の枠を遥かに超えて、主イエスは「メシア」或いは「神」である、とご自身から表明したお話です。

前に戻って5章36節以下の説教に連続する部分でもあります。「5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。5:37 また、わたしをお遣わしになった父がわたしについて証しをしてくださるあなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければお姿を見たこともない。5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。5:41 わたしは、人からの誉れは受けない。5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」と非常にはっきりと、ご自身が、神から遣わされた方であり、「神」そのもののみわざを行い、「神」を証しするお方であることをお告げになっておられました。7章28節以下でも、全く同じように、「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と仰せになっておれる通りです。そして決定的なみことばは、「モーセは、わたしについて書いている」(5:46)と言い切って、モーセの証言は、即ち主イエスご自身と結ばれた契約律法そのものであることを告げておられます。言い換えれば、旧約聖書は「神」の告げる律法ですが、その「神」の名のもとに、実は直結するように主イエスがおられた、ということになります。それは直ちに、主イエスの名のもとに、旧約聖書の神が直結するように生きて働いており、現臨して語っておられることを意味するのではないでしょうか。

このように、主ご自身から神と直結したお方であり神から来られた方である、と宣言したことで、ユダヤ人にとって、それは、明らかに「神を冒涜した」罪であり極刑に値する罪として、話は展開してゆくことになります。

元々、6章全体でも主イエスは5千人を満腹させる、という力あるしるしを行われ、そこでも、主ははっきりとご自身が「天から降って来た生きた命のパンである」と説かれていました。言わば、ご自身が神のメシアであることを既に表明しておられたことを想い起します。同じように、この7章25節以下でも、主イエスはご自身が神から遣わされた神のメシアであることを明らかにします。ユダヤ人の側からすれば、この主イエスの主張に対して、本当に主イエスは「メシア」なのか、その真偽を正しく判断するにはどうすればよいのか、という大問題に発展するのです。律法学者や祭司たちは、聖書に基づいて、さまざまに「解釈しよう」としたはずです。そして民衆もまた、大きく動揺しながら、果たして当局はイエスをメシアであると認めるのだろうか、と固唾を飲んで見守っていたはずです。ユダヤ全土が、しかもエルサレム神殿という宗教的権威のど真ん中で、イエスというナザレ出身で大工のせがれが、自分こそ真の神に直結する者であり、その神から直接遣わされたメシアである、ということを言い出したのですから、ユダヤ人たちの間では、当然ながら、非常に深刻な論争を引き起こすことになります。主イエスの説教は、ユダヤ全土を震撼させる大きな緊張の中に、陥れたことになります。

 

1.「メシア」を知る困難さ

この7章25節以下で「7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。『これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちはこの人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのかだれも知らないはずだ。』」とあります。ユダヤの人々の間で、主イエスは果たして「メシア」であるのか否か、という極めて深刻かつ重大な論争が起こっていたことがここからもよく分かります。イエスがメシアであるかどうか、その真偽がユダヤ人の心の奥深くで深刻に問われ始めていた、と思われます。25節以下の言葉は、そうした人々の動揺と緊張を非常によく表しています。こうした国を二分する深刻な問いに、主イエスはついにはっきりとお答になられたのです。

28節以下で「7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。『あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。』」とありますように、主イエスは、確かに、誰もが知るように、ガリラヤ出身で大工ヨセフとマリアとの間に生まれた人の子であります。これは明らかな事実でありました。27節で「7:27わたしたちは、この人がどこの出身かを知っているメシアが来られるときは、どこから来られるのかだれも知らないはずだ」と人々が語っていますように、本来メシアが到来するときは、突然、誰も知らない形で到来する、と一般的には考えられていたようです。したがって、出所が分かっている以上は、即ち、ガリラヤ出身で大工のせがれであるイエスは、「メシア」ではない、という結論になります。既に誰もがガリラヤ出身でヨセフの子であることを知っていたからです。

こうした人々の思惑に対して、主イエスは公然としかも大声を張り上げてお答えになります。「7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。『あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。』」。ここで先ず「イエスは、大声で言われた」とありますように、これは明らかに、公然とはっきりとご自身がどこから来たのか、ご自身の出所を宣言されます。そしてこの世の人からではなく、神から来た者、神から遣わされた者である、という主イエスのみことばは、明らかに主イエスを断罪迫害する決定的な根拠となります。この主のみことばの趣旨は、あなたがたは、本当にメシアはどこから来たか知っている、という問題ですが、主イエスはガリラヤ出身で大工ヨセフから出た、ということだけをもって、誰もが知る明らかなことなので、したがってイエスはメシアではない、と考えたわけです。しかし、主イエスには、もう一つの、全く異なる本質がありました。それは、人々が決して知ることも思い着くことも出来ない本質から生まれたことについて、つまり、あなたたちの知らない方の所から、あなたたちの知らないお方によって遣わされて来たと断言して、「神」から生まれ「神」から遣わされた者である、と公に宣言して、ご自身の出所の真相を明らかにされたのです。つまり人が知ることの出来ない、天の神から遣わされて来た者である、と公然と表明したわけであります。この主イエスの「大声」語るという表現は、まさしく、生きた神が主イエスにおいて力強く現臨しておられることを、表しているように思われます。

このみことばで、最も重要な言葉は、何と言っても29節のみことばです。「7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」という「神」とご自身を直結させ、しかも直接「神」から出て来た者として、ご自身の出処を明かされたからです。しかしその真相を世は知ることも、ましてや確かめることもできません。人間の知恵や経験によって、神を正しく量り取ることはできないのですから、「神」を世に伝えるために、神の内側から世に向かって、神の子が自ら「神」を啓示して明らかにする、というみことばによる啓示以外に、神を伝え、神を告げ知らせる方法は他にない、という決定的な問題です。まだまだ人間には知らないことが沢山あります。世に対して、しかも能力や存在の本質から言っても、世は神によって造られた「被造物」である以上、造られる前のことを初めとして、造られた背景や意図も知る由はないのです。その世界に向かって、神の完全な真実と真理を啓示するためには、神は、「神の独り子」を「イエス」という名のもとに、マリアより受肉させ世に遣わして、この受肉した主イエスにおいて、神のご意志の全てを行いかつお示しになったのです。主イエスご自身は、そうした「神」の全てを、ご自身において背負い、ご自身のうちに担われ、「神」の全てを世に啓示して示し、神の真理を世に告げ知らせるのです。その啓示の内容が、まさに「福音」として、聖書に記録された出来事であり、神の約束であります。神は真実な方であるからこそ、その真実の全てを、神の独り子である御子を受肉させ、その受肉の御子にお託しになり、世を救う受肉のキリストとしてお遣わしになり、御子はその神の真実の全てを従順を尽くして担い背負われて、神の御心を世に行いかつお示しになられたのです。しかしこの神の啓示を、世の力では理解することも、ましてや神を確かめることはできません。ただ一つ可能な方法は、世が自分の力に頼ることを一切捨てて、御子の語るみことば一つ一つに謙遜に縋りそこから真理を求め、まさにその主のみことばにおいて神の真理と出会う外に、神を知り神と出会う道はないのです。主のみことばを聴き分けて、信じて受け入れることで、人々は初めて「神」と向き合い、しかもみことばを信じ受け入れる信仰において、人々は初めて「神」を知るようになり、ついには神の救いを体験することができるようになるのです。こうして人々は、みことばを信じ受け入れる信仰において、初めて「神に救われる」という福音の真理を体験し実現することができるのであります。

少し難しい話に聞こえるかも知れませんが、これは、キリスト教の根本問題でありまして、どうしても、きちんと弁えておくべきことであります。なぜなら、主イエスのみことばは、最初からそしてその根源から「神」を問題にしているからです。世界は「神」を知らないのです。否、世は「神」を決して知り得ないのです。だからこそ、神がおられることを世が知るには、神ご自身による啓示のみことばによる外に、知る方法道はないのです。神は御子にご自身の全てを託して、御子を聖霊によって処女マリアから受肉させ、人の子として生まれさせて、主イエスは世に遣わされました。本日の説教題は、聖書のみことばそのままですが、「わたしをお遣わしなった方」という題ですが、まさに「遣わす」「派遣する」という本当の意味を言いますと、それは、「神」が独り子である御子に「神」の本質と真実の全てを完全に託して、御子を聖霊によって処女マリアより受肉させて、イエスという名のもとに「人の子」として、世にお遣わしになったのです。その遣わされた御子である主イエスご自身こそ、ただお独りが「神の真理」を担う方であり、世に「神」を証し伝える啓示そのものとなられたのであり、その御子が、主イエスのお姿において、お語りなったみことばが「聖書」という福音の言葉として記録され保存されたわけであります。だからこそ、私たちは聖書を読み聖書を語り、聖書を通して神の啓示のみことばを聴き、「神」と出会うことができるのです。私たち人類が「神」を知り体験し、「神」と交わり共に生きることが出来るのは、まさにこの神のみことばにおいて聴くことによるのであります。主イエスは、そうしたことを、わたしは天から降って来た生きた命のパンであり、わたしの肉を食べ、血を飲まなければ、命はない、と仰せになったのではないでしょうか。28節以下で言われる「わたしは自分勝手に来たのではないわたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者でありその方がわたしをお遣わしになったのである。」とは、そういう、神を知り得ない世に対して、神の内側から神と人との境を打ち破るようにして、神の御子が神の本質を担って世に遣わされ、神の真理を告知する、ということを意味しているのではないでしょうか。そしてこれを誰も証明し、確かめることは困難な真理と言わなければなりません。

 

2. 神を啓示して伝えるみことばの意義

本日の主題は、ガリラヤの大工のせがれ「イエス」とは、「神の子」であり、「神のメシア」である、という根本問題です。しかも「その真理」を、私たち人間はどうすれば知ることができるのか、という根本問題です。主イエスはご自身が誰なのか、その本質を明らかにするために、神さまのことを「わたしをお遣わしなった方」と言い表して、ご自身が「神」から直接に遣わされた「神のメシア」であることをお示しになりました。また神さまのことを敢えて「父」とお呼びになることで、ご自身が「神の子」である、即ち「父」である神と全く同じ「神」であることをお示しになりました。しかし同時に主イエスは、ガリラヤ出身で大工ヨセフの子として生まれた方でもありました。ここには人間にはどうしても理解しがたい、人知を超えた「神のご計画」が奥深くに隠されているように思われます。パウロの言葉で言えば「ミュステリオン(秘められた神のご計画)」です。「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っているわたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」と言われます。「わたしをお遣わしなった方」の真実とは何か、もう少し踏み込んでみますと、ここで、人々は躓き人々の理解を困難にしていること、それは、一方でマリアから受肉して生まれた「真の人」であり、他方で聖霊によって生まれた「真の神」である、という人知を超えてあり得ない二重の本質を主イエスはご自身の内にお持ちなっている、ということではないでしょうか。「人間」の姿は、確かに肉の眼でこそ見えますので、具体的に理解できることです。最も隠された中心は、しかしその人間性の中にこそ生ける真の神が現臨する、というもう一つの、「神」であるという本質について、その神の真理は決して肉の眼では見ることが出来ないのです。強いて言えば、聖霊とみことばによって導かれる信仰心によってのみ捕らえられることで、外に道はありません。主イエスを「人間」として見てしまえば、最早それを「神」として決して見ることはできず、受け入れることは出来なくなります。主イエスを「神」として受け入れば、それは最早「人間」であるはずはない、と考えてしまうでありましょう。まさに「矛盾」であり、人間の脳はそこで思考停止となります。人間の能力や理解力を完全に超えてしまった向こうの果てに、神の真理はあるのです。したがって少し乱暴に言えば、主イエスを「神」のメシアと信じて認めるか、拒否するか、というみことばに対する信仰的選択だけが残されます。

ただし、重要なことがただ一つあります。6章16節以下の話で、嵐の湖の中を歩く主イエスを見た弟子たちが「幽霊だ」と言って恐れたとき、主イエスが「わたしだ。恐れることはない。」と言って、主ご自身からみことばを語りかけます。すると、弟子たちは、舟に主イエスを迎え入れることが出来るようになり、さらに驚いたことに、舟はいつの間か既に「向こう岸」に着いていたことに、弟子たちは気づくのです。この所の説教で、皆さまに強調したことは、主イエスのみことばが語られ、その主のみことばを聴くことにおいて、初めて弟子たちは「イエス」を、「幽霊」としてではなく「主イエス」として、正しく認識することが出来たのです。その結果、喜んで主を舟に迎え入れることが出来、舟を支配していた大嵐は静まっていた、という体験に導かれたのです。重要なことは、明らかに、みことばが語られみことばを聴き分けることで、そこでこそ、イエスを正しく知ることが出来たのです。そうでなければ、神からの救い主であっても、それは「幽霊」で終わってしまい、嵐の危機の中で弟子たちの舟は沈んでしまったはずです。このように、主のみことばが語られ、主のみことばが正しく聴かれる場こそ、人々が初めて「神」と出会い「神」を知る場となるのであり、そこに初めて地上の教会は生まれるのではないかと思います。

 

3.神を「父」と呼び、ご自身を「子」と呼び、父と子の本質を明かす主イエス

主イエスは、ご自身のみことばにおいて、ご自身の本質を啓示して、神の真理を明らかにします。振り返りますと、5章19節以下で、ユダヤ人たちとの論争する中で主イエスは「5:19『はっきり言っておく。子は父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない父がなさることはなんでも子もそのとおりにする。5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになってあなたたちが驚くことになる。5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を与える。5:22 また、父はだれをも裁かず裁きは一切子に任せておられる。』」(ヨハネ5:19~22)と言い切っておられます。このように、主イエスはいつも、ご自身の真相を示すために、神を「父」と呼び、ご自身を「子」と呼んでおられます。しかも神を「父」と呼び、ご自身を「子」と呼ぶことで、さらに神とご自身との「本質的な関係」についても、明らかにしておられます。父であり子であるという関係は、共に同じ「神」であることを意味します。しかも「5:22 また、父はだれをも裁かず裁きは一切子に任せておられる。」ということは、極論すれば、ただ主イエスお独りにおいて「神」の全てが現わされる、ということを意味しており、外の形でこの世に対しては「神」は現わされることはない、ということにもなります。イエスさまは、ご自身から人々に語り、御ご自身が何者であるのか、その真相を人々に啓示し、自ら告白しておられるわけであります。そればかりか、「神」そのものを、ご自身において、お示しになられたのです。イエスとは誰かという点で決定的なこと、それは父と子であるという両者が直結した一体の同じ「神」である、という神の一体性のもとに、すなわち「父」と「子」は、同じ一つの「神」、完全一体の「神」であり、その一体の「神」の全てを、主イエスはご自身の「お身体」においてまたご自身が直接に語られる「みことば」において明らかにした、ということを、こうした表現は明白に言い表していることになります。さらに意味深長な表現は、このような「神」を啓示する言葉であると共に、もう一つ、最後の審判としての神の主権を明確に言い表していることです。すなわち「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」と宣言して、「父」から「子」に、最後の審判が完全委託されていることを明らかにして、主イエスお独りが究極の「最後の審判者」であることを宣言しておられます。

 

4.手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。

こうした主イエスの神としての啓示に対して、30節に「人々はイエスを捕らえようとした」と記されています。罪に堕落した人間が、その罪を贖うために遣わされた愛の神を捕らえて裁こうというのです。本来、神の「国」という言葉の意味は、神の「支配」或いは「統治」を意味します。世界を支配し統治できるのは、果たして誰なのか、ここで根源から、万物支配の「主権者」は誰か、問われます。ユダヤ人たちは、この「ユダヤ人たち」という表現は、ヨハネにとっては、ユダヤの宗教的権力者を表す言葉ですが、そのユダヤの宗教権力者たちは、律法を持ち、神殿の運営権を有しておりながら、そこに君臨し統治する永遠の王は、明らかに「神」であるはずなのに、神を排除抹殺して、「自分たち」が王として君臨し続けようとしたのでした。つまり人間が、しかも支配欲や権力欲に支配された悪魔の奴隷に変貌した「人間」が、死と滅びから愛と憐れみのもとに永遠の命を回復しようとする「神」を捕縛して、断罪して裁き、処刑しよう、というわけです。まことにおかしな話であります。しかし罪は、人間の心を暗闇に閉ざして、真理の光を奪ってしまったのです。人間には、どうしても、この神の真理が分からいのです。自分たちこそ、支配する権利を持つ権力者であると、思い込んでしまうのです。

こうしたユダヤの権力者たちの思いとは裏腹に、そして遥かにそうした悪の謀略を超越した所で、それでも、しかし神は確実に「キリストによる愛と救い」のみわざをご計画通りに整えておられたのです。そうした神の不動で、完全不変なご計画遂行について、ヨハネは「手をかける者はいなかったイエスの時はまだ来ていなかったからである。」と伝えています。徹底的に、神のご主権のもとに、神のご計画は進められていたことが分かります。したがって、神の御心と定めなくして、人々の計画は全て空しく終わります。神がお定めになられた「時」というものがあることを、ヨハネははっきりと世に告知しています。

主イエスご自身も「わたしの時」はまだ来ていないと仰せになられた、「わたしの時」とは、言うまでもなく、十字架の死において栄光のうちに天の神のもとに上られる時を意味します。神がお遣わしになるとは、十字架の死にお遣わしになることであり、十字架の死に至るまで人類の罪を背負い償い尽くして、神の義を人類に齎すことであります。主イエスは「神の愛」をみことばにおいて語られましたが、その主の語られるみことばの究極が、十字架というみことばでありました。

しかし最も大事なことは、この「わたしの時」「イエスの時」とは、十字架の栄光の時を意味しますが、先ほどご紹介した言葉「5:22 また、父はだれをも裁かず裁きは一切子に任せておられる。」というみことばと重ねあわせて十字架の時を覚えますと、こうも言えるのではないでしょうか。すなわち、私たち罪人が裁かれるべき裁きの一切を、主イエスは引き受け背負われて、十字架に向かわれたのではないでしょうか。そして私たちに代わって、裁きと償いを完全に果たされて、神に対して従順を貫いて、ご自身を生贄としてお献げくださったのであります。私たち自身の上に置かれた裁きを、キリストは愛と慈しみゆえに、みずからその裁きを引き受け背負われたのです。しかしこの時はまだその時に至っていませんでした。

2021年10月3日「安息日の主」 磯部理一郎 牧師

 

2021. 10.3 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第20主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教18

説教「安息日の主」

聖書 レビ記19章9~18節

ヨハネによる福音書7章10~24節

 

 

7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も人目を避け隠れるようにして上って行かれた。7:11 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。7:12 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。

7:14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って教え始められた。7:15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、

7:16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。7:17 この方の御心を行おうとする者はわたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。

7:19 モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」7:20 群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」7:21 イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。7:22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのにわたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

 

 

説教

はじめに. やはり主イエスも密かにエルサレムに昇られていた

7章1節で、「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。7:2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。」と明記されていますように、主イエスは、ユダヤ人たちがエルサレムで主イエスを殺そうとねらっていることをご存知でありましたので、争いを避けようと、主イエスは「ユダヤを巡ろうとは思われなかった」ようです。しかし「仮庵祭が近づいていた」ので、ユダヤの律法規定にしたがって、神殿に向かうことになります。結局、これでガリラヤ宣教は最後となり、主イエスはエルサレムにゆくことになります。7章12節以下で、「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」と伝えられています。ここで注意しておきたい表現は「ユダヤ人たちを恐れてイエスについて公然と語る者いなかった」という所です。こうした民衆の恐怖心は、ユダヤ全土に渡り、ユダヤの支配者たちの謀略が既に深刻に民衆の隅々に浸透していたことをよく示しています。主イエスをめぐり、ユダヤ全体が非常な緊張状態の中にあったことは、否めない事実であったと考えられます。

こうしたユダヤ人たちの、特に宗教権力者たちの陰謀は、何と言っても、主イエスの驚くべきみわざによるものでありました。以前、教師のニコデモについて、ユダヤの権力者たちの一員で、非常に高い地位にあった教師であった人物について、ヨハネは、3章1節以下で「3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビわたしどもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています神が共におられるのでなければあなたのなさるようなしるしをだれも行うことはできないからです。』」と記されています。「わたしは」ではなく、「わたしたちは・・・知っています」と、複数形ではっきりと自ら言っていますので、ニコデモだけでなく、背後には数多くのユダヤ教師たちがいた、と考えられます。彼らは、主イエスの行う力あるみわざに、即ち「神の業」に非常に驚き、神のもとから来た教師ではないか、という現実を認めていたことが分かります。そして多くの群衆が主イエスの弟子となって集うようになっていたことも、大きな問題であったようです。しかもこうした見解は、恐らく、単なる個人的見解を超えており、一定の大きな教師集団の中で、深刻な問題となっていた、と推測されます。

しかし、その反面で、否、そうだからこそ、かえって増々権力にしがみつく宗教支配者たちは、自分たちの権威と信頼を失うことを非常に恐れていたのではないか、と思われます。こうした権力者たちは、ついにイエスを抹殺して排除する決断をし始めていたようでありまです。かえって主イエスのわざと神の権威を恐れた権力者たちは、それが真実であることが分かれば分かるほど、潰してしまおうと、権力と謀略を用いて、主イエスの抹殺を図ることにしたのではないでしょうか。その主イエスの排除と抹殺を正当化しようとする謀略こそ、一見合法的に見える形で、主イエスを「律法違反者」として断罪して処刑することでした。その律法違反の口実にしたことが、「安息日の規定違反」であります。5章8節以下で読みましたように、「ヨハネ5:8 イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だだから床を担ぐことは、律法で許されていない。』5:16 そのためにユダヤ人たちはイエスを迫害し始めたイエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。」と伝えています。あたかも主イエスを迫害するのは当然であり、迫害される原因は主自らが安息日を破壊したことにある、という言い分です。そこで、本日は、改めて、安息日の意義と原理について、主イエスのみことばを聴き直してまいりたい、と存じます。

 

1.モーセの律法の正しい理解をめぐり、解き明かして教える主イエス

「安息日」は、確かに、律法によって規定される重要な掟であります。7章14節以下で「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。7:15 ユダヤ人たちが驚いて、『この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう』」と言った、と記されています。これは、明らかに、主イエスは律法についてエルサレム神殿の境内で教えておられた、と思われます。「聖書」と記されていますが、前後の脈絡からすると、「律法」について、特にモーセ五書の教えについて、解き明かしの説教をなさっておられた、と思われます。そしてその主の説教の背景には、ある意図があったはずです。つまりユダヤ人たちの誤りに対して、真理を語り、弁明する意図があったようにも思われます。5章10節以下に「5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。」と記されていますように、安息日規定に違反した、というユダヤ人たちの誤解または曲解を意識し、正しい聖書の理解を求めたはずであります。

つまり、厳密に言えば、5章での主の癒しを読み直しますと、この病からの癒しは、先ず、主イエスのみことばによって、しかもその病人の人格と命の根源において、実現した神の癒しでありました。生きて働く神として、そのみことばを通して、この人物の魂の根源から解放して、絶望から立ち上がる、命と魂の解放でありました。しかし、それを見ていた周囲の人々にとっては、そこで何が起こっていたのか、その癒しの本質は肉の眼では見えない「神の業」でありました。誰にも見えない神の恵みのみわざであります。それゆえ、本質的に「神の業」であるのに、うわべでは、肉の眼ではその本当の癒しの本質が見えませんので、安息日に行われた律法規定違反として断罪すべき行為にも見えて来ます。そして、その癒しの結果、この病人は、『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』という主のみことばに、忠実に応答して実際に「5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」のでした。この段階で、初めて具体的な律法規定に抵触することになります。なぜなら、安息日における人や物の運搬作業は堅く禁じられていたからです。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』と言われている通りです。しかし、主イエスが行われた「神の業」は、本質的に神のみことばによる「癒し」であり、病からの解放であり、人格に命の息吹を吹き入れる命の祝福でありました。父なる神が、みことばにおいて「光あれ」と言われ、万物を創造して、命と存在を根源からお与えになる愛と恵みのみわざであります。それなのに、肉の眼だけ見えることだけで、安息日に物品を運搬したので律法違反だ、と言って、うわべの口実をつけ、主イエスの癒しを律法違反として断罪しようとするのであります。

そこで、主イエスは、改めてモーセの律法とは何か、本来その目的と意義はどこにあるのか、聖書に基づいて律法の本質について、解き明かし、教えておられたのではないでしょうか。そのイエスさまの説教の中心が、7章19節以下に断片的に紹介されています。「『モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。(中略)7:22 しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。(中略)だからあなたたちは安息日にも割礼を施している。7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。』」と、律法についてのユダヤ人たちの誤解が指摘されています。主イエスは、ご自身が律法を破壊したのではなくて、あなたがた律法学者やユダヤの権威ある者たちこそ、モーセの律法を誤って利用しており、あなたたちこそ律法の本質を歪めているのではないか、と反対に問い、厳しく迫っておられるのです。その誤解と違反の典型事例として、安息日の割礼を挙げておられます。なぜ安息日でも、あなたがたは割礼を行うのか。それは、神の命の祝福と新しい契約のためではないのか、というわけです。そしてそうであれば、この病人の癒しも、本質的に神の創造的命の祝福そのものである、と見えない神の業の真相を明らかにしているのではないか、と思われるのであります。

 

2.安息日における割礼と主イエスの癒しの意義を解き明かす

主イエスはユダヤ人たちに、では安息日に割礼を施すのはどうなのですか、と問います。割礼は、言うまでもなく、新たに誕生した新生児に施される神の祝福と契約のしるしです。割礼の本質は、神による命の祝福であり、「神の民」の一員として認定される神の契約であります。割礼は、神が新たに生まれた新生児に「命の祝福」を与え、その子を「神の民」とする契約行為を表し意味します。こうした割礼の意味から言えば、主イエスの癒しも、「神の民」としての「命の祝福」には変わりありません。「人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。」と主が仰せになっておられる通りであります。それなのに、「床を担いだ」といううわべのことで、安息日を破壊した、と断罪するのは、おかしいではないか、というわけです。

旧約聖書レビ記によれば「レビ記12:1 主はモーセに仰せになった。12:2 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。12:3 八日目にはその子の包皮に割礼を施す。」と規定されおります。また、創世記によれば「創世記17:9 神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。17:10 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて割礼を受ける。17:11 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」21:3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、21:4 神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。」と記されております。問題は、この割礼が「八日目に」と規定されているために、その八日目が安息日になることもしばしばあり、安息日にも休むことなく、割礼は執行され施されていたのです。

ここで、律法を考える上で、とても意味深い点は、主イエスが「7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と教えておられる所です。「うわべで裁く」ことと「正しい裁き」とは本質的に違う、と指摘します。つまり律法の本質、律法の本当の意義と目的は何か、教えようとしておられのです。「裁く」とは、どういうことでしょうか。神の裁きとは、本来は、量り知ることのできないほどの深い愛と知恵によって、民の「導き」のために、行われる善きわざであるはずです。裁きの本質は、人を愛し、人を正義に導き入れるために、行われる愛の業であって、人を憎み人を抹殺するためになされる復讐の業ではありません。主イエスの癒しは、一生涯病に苦しみ続けた「神の民」を愛する愛による解放であり、慈しみの癒しであり、そして憐れみの救いであります。共観福音書によれば、律法の本質とは何かについて、主イエスはこうお答えになっておられます。

マルコ12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコ12:28~34, マタイ22:34~40, ルカ10:25~28参照)

このように、律法に対する主イエスのお立場、ご理解はただひとつ「愛する」ため、であります。この、神と隣人とに対する二重の意味での「愛」を失っている所に、ユダヤ人たちの根源的な罪と背きがあることに、ユダヤの権力者たちは気づけないのです。神の民として自分たちの民を愛するのではなく、自分の権力欲の道具に利用しようとしていたからです。

 

3.「神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか」

このように、主イエスは聖書について神殿で教えられました。その解き明かしの中心は、聖書と律法のすべてが「愛」に集約される、ということでありました。愛のための律法なのか、自分の権力欲を満たすための宗教制度であり律法なのか、根源から問うておられます。しかもその愛は、神から出る「愛」であり、神から出た神の愛のうちに、全ての神の民が豊かに守られ、養われ、祝福のうちに生きるための愛であります。主イエスは、さらにこう教えます。「7:16 イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。』」と、主は仰せになられ、神の御心から出た、神の愛のためにこそ、全てが収斂されると教えます。ここで、是非注目すべきことは、律法の一つ一つに、その全ての根源に「愛」がなければならない、ということです。しかもその「真実な愛」は全て「神から出た」ものであります。偽りやうわべの愛ではなくて、神の本質から出た本当の愛でなければならないのです。律法はそのように神の御心に従って、即ち神を愛し人を愛する愛に基づいて、運用されなければならい、ということを教えらたのであります。

このように主イエスは、愛が生じる根元は「神」であり、真の愛は神から出たものである、と暗に示しながら、実は、その真の神の愛を完全に表すお方こそ主イエスご自身であり、神の御心と愛の実現者として降って来られた神のメシアであることを明らかにしようとしておられるように思われます。それを「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。7:17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。7:18 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」と言われます。つまり最も大事なことは、神から出たことなのか、それとも神以外から出たことなのか、その出所を常に厳格に見極めなければならない、と教えておられるのではないかと思われます。私たちの為すすべての言動は、果たして自分から出たものか、それとも、神を愛し神の栄光のために仕える信仰から出たものか、を厳格に問うのです。もし仮に、自分の支配欲や自我欲求のための奉仕であれば、それは、神を愛し神に仕えるための信仰から出たものではなく、「自分」から出たものであり、「自分の栄光」のためのものです。それは自分のために自分の栄光を求めたことを意味します。出る所も自分であり行きつく所もすべて「自分」です。神を愛し神の栄光のために自己を献げることにはならないからです。したがってそこには、神との愛における正しい神中心の関係性は破壊されており、単に自我を神のように愛する自己中心に終わってしまいます。こうしたあり方を、イエスさまは「不義」であるとして、修正を求めます。考えてみますと、自分から自分の栄光を求めれば求めるほど、神を愛し神に仕えることから離反してしまい、神との豊かな愛と信仰の関係性は失われてしまいます。したがって本来の神との愛と信仰は壊れ、虚偽の中に破綻してしまいます。神から離反した所で、いくら被造物が栄光を自ら欲求しても、命も存在もまたその意義も「神の義」を失い、空洞化してしまい、「虚偽の義」に変質し腐り果ててしまいます。それは、結局、空しい滅びであり喪失となり、破綻するのです。その真相を理解すると、それはとても危険で恐ろしいことなのですが、気づかずに、自分の欲求にしたがって思い上がり、破綻に向かって突き進んでしまうのです。しかし、さらに大事なことは、その破綻に気付き、神を愛し神の御心を求めて生きようと、立ち帰ることにあります。自己のうち深くに本当の神の愛を豊かに宿して、その神の愛をもって、今度は神を愛し隣人をひたすら愛することに、全ての人生をやり直すのです。そうであるとすれば、こうした破綻は恵みでもあり、新しい立ち帰りの重要な契機ともなり、そして何よりも、この破綻からこそ「信仰」が始まり、真の「奉仕」が生まれます。英語で言い換えますと、真の「奉仕」serviceこそ、真の「礼拝」serviceであります。何よりも先に自分を認めて欲しい、という自我欲求から出る奉仕や教会生活に破綻して、その破綻ゆえに、神を愛し直す真の愛から、ただ神の栄光のためにお仕えするように、一から努力し直す新しい奉仕の取り組みにかえって導かれるのです。信仰生活はそうした破綻と再生の繰り返しであり連続である、と言えるかも知れません。自分の栄光を求め始めた途端に、信仰は偽善に変質しますし、自分の栄光に生きることに破綻した途端に、そうした自己栄光化の破綻は、神の愛に生かされ生きる新しい生まれ変わりとなるのです。つまり私たちの生き死にが全て、神と神の愛から出たものとなるのです。主イエスは、それを徹底されました。ひたすらに父なる神の御心だけを行い、実現したのです。それが、まさに、十字架の死に至るまでの従順と献身であります。十字架の死において、主イエスはまさに主イエスの本領を発揮するのですが、主の十字架は即かつ直ちに「神の御心」そのもののでもありました。

 

4.命の祝福と創造の完成の喜びとしての安息日

神の「律法」を守り全うすること、そして「律法」の根元となる意義と目的とその基本原理は、あくまでも「神を愛する」「人を愛する」という「愛」のためにあるのであります。しかもその愛は、常に無限であり普遍に神と人を愛する愛でなければなりません。実は、安息日の本当の意義も同じではないでしょうか。創世記2章1節に「2:1 天地万物は完成された。2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と記しています。神ご自身の本当のお仕事とは、何でしょうか。それは言うまでもなく、神の御心を行うことであり、神の愛を完全に満たすことにあるのではないでしょうか。万物の創造完成においてこそ、神の御心と愛は見出されます。安息日とは、神のその愛の完成の喜びであり、万物と共にある平和の安息であり、まさに創造完成の祝福を意味するのではないでしょうか。神の完全な愛は、そもそも、虚無にあって飢え渇き命と存在を失って、傷つき痛むもののために、その存在の根源から愛を満たし命を浮き入れて癒しを与え、命の存在の完成を喜び祝う、愛と喜びの祝いであります。本来の安息日は、そのような完全な愛による創造の完成と喜びであり、その存在と命を尽くした祝いであって、本質的に愛の成就の喜びであって、人々を癒しと救いから排除するための掟ではないはずであります。その典型的証拠であり事例が、こどもが新たに誕生した命の祝福として、神の民への愛と保証の契約を明らかに示すしるしが割礼であります。あなたがたは、その割礼を休むことなく安息日に実行してきたのではないか。人々を支配するのは神の愛であり、神の創造完成の祝いこそ、安息日規定の本質である、と主イエスはそう教えておられるのです。このように、神において、神の共に、神のうちに、愛と命に溢れて、存在を心から感謝して喜ぶこと、そこに安息日の本質があるのではないでしょうか。自分中心の利己的な自我欲求と自我の栄光のために、律法を利用し、その結果、律法を愛によって運用するのではなく、他者を排除して裁く道具にしてしまった律法主義の問題は非常に深刻であると言わねばなりません。

主イエスは最後に「7:24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」と結んで、説教を終えます。ここでイエスさまの言われる「正しい裁き」とは、何を意味するか、もうすでにお分かりいただけるのではないでしょうか。それは、宗教的責任者たちが、律法を目的に適って正しく運用することでありましょう。そして律法の正しい運用とは、神を愛し人を愛することに集約されます。裁くとは、否定断罪し排除抹殺することではなくて、神の愛のもとに人々を回復することです。神は、キリストを通して、わたしたちを神の愛のもとに回復してくださる、それが、正しい裁きが行われる、ということではないしょうか。キリストを信じ受け入れることで、私たちは、明らかに神の愛のうちに回復される、そういう正しい裁きの中に、選ばれいるのであります。そういう意味で、神の正しい裁きの中にあることは、喜ばしいことであり、幸いなことであります。

2021年9月26日「世はわたしを憎んでいる」 磯部理一郎 牧師

 

2021.9.26 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第19主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教17

説教「世はわたしを憎んでいる」

聖書 レビ記23章23~44節

ヨハネによる福音書6章60節~7章9節

 

 

聖書

6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62 それでは人の子がもといた所に上るのを見るならば……。

6:63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」6:70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人はわたしが選んだのではないか。ところがその中の一人は悪魔だ。」6:71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。7:2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。7:3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。7:4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」7:5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。7:6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。7:8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かないまだわたしの時が来ていないからである。」7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

 

 

はじめに. 主の語る福音のみことばに躓く人々

ヨハネによる福音書の7章1節以下を読みますと、主イエスを取り囲む人々の不信仰に、大きく驚かせられます。主イエスが誠実に語られた福音のみことばに、多くの人々がこれほどまでに深刻に躓いてしまうのか、と愕然とさせられます。6章の段階では、主イエスは、人々や弟子たちの不信仰を嘆き、こう訴えておられました。「6:36 あなたがたはわたしを見ているのに信じない」。そして「6:60弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だだれがこんな話を聞いていられようか。』」と弟子たちの多くがつぶやくのをお聞きになった主イエスは、「6:61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたこのことつまずくのか。』」と仰せになり、それを見ていたヨハネも、「6:66 このために弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と記しています。ガリラヤの人々も、そして多くの弟子たちも、主イエスから完全に離反して、主のもとを去って行きました。多くの弟子たちが主イエスから離反し、去って行った原因は、主イエスのお語りになられた「福音のみことば」そのものにありました。人々は、何と、「福音」の根本に躓いていたのです。神の救いのご計画を、神の独り子である主イエスに託して、天から世に遣わされ、「わたしは、天から降って来た生きた命のパンである」と告げられた、まさに神の子自ら証言する福音の説教に、人々や弟子たちが躓いたのです。神ご自身からであっても、神の真実を語ると、人々は躓き離反するのです。福音を宣べ伝えるとは、実はそういうことなのです。いくら語っても、福音の本質は聞かずに、自分の都合のよいことだけを求めて聴こうとします。聴かれることの方が、かえって怪しいのかも知れません。聴かれない方が、本当の場合のありそうです。宣教活動とは、意味がないと言って腐らずに、愛と寛容と信念をもってみことばに仕え続けることでもある、ということがよく分かるのではないでしょうか。

ヨハネは、こうした人々の躓きと不信仰に対して、「1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と証言し、また「3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。3:20 悪を行う者は皆光を憎みその行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ないからである。」と、躓きと不信仰の根底に、悪が支配し、その結果、本性的に、真理の光を恐れ憎むのだ、と洞察しています。人間の力では、克服しきれない悪と闇の力による世界支配を示唆しているかのようにも読み取れます。

しかし、7章に入りますと、さらに人々の不信仰と離反は、より深刻さを増して行きます。それは「7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」と記されている通りです。ユダヤ人ばかりではなく、主イエスご自身の家族や親族からも、しかも主ご自身の兄弟たちの中に、主イエスに躓く者が登場します。「7:3 イエスの兄弟たちが言った。『ここを去ってユダヤに行きあなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。7:4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいないこういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。』7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」と述べて、はっきりと、主の身内における不信仰と離反の現実を証言しています。先ほど、悪と暗闇が人類全体を支配している、というヨハネの洞察について触れましたが、まさに人々は、この悪と闇の支配に対して、どうしても抵抗することができず、支配されてしまうのです。そうした弟子たちの躓きと離反の現実について、主イエスご自身が「7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいるわたしが世の行っている業は悪い証ししている」と仰せになり、明らかに、世を支配する悪と闇の抵抗の中にあることを指摘しておられます。こうした悪と闇のすさまじい抵抗の中で、主イエスは、はっきりと「十字架の死」を意識し覚悟しておられたのではないでしょうか。それが、7章1節の「ユダヤ人が殺そうとねらっていた」という表現に、また「わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」という7章8節の主ご自身のみことばにたいへんよく表されています。本日は、そうした主イエスの苦悩と人々の離反について考えます。

 

1.12弟子の選びにおける光と闇

ところが、そうした悪と闇のすさまじい抵抗の中で、非常に興味深い、しかも深刻な伝承について、ヨハネは触れます。少し前に戻りますが、6章66節でヨハネは「6:66 このために弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と述べて、弟子たちの躓きと離反を総括したうえで、さらに主イエスに対する躓きと離反を根源から引き起こしている真相に踏み込みます。「6:67 そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。6:68 シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』6:70 すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところがその中の一人は悪魔だ。』 6:71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」と記されております。言わば、主イエスの啓示を前にして、まさに光と闇が激しく交錯する現実を証言します。主イエスによる12弟子の選びにおいて、一方では「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じる」と告白するペトロの信仰告白に対して、他方では、神の啓示のわざを根底から抵抗し破壊しようとする悪魔の存在が、ここであからさまに、露呈されます。しかもその悪魔と闇の抵抗と支配は、何と主の選ばれた12弟子の中枢にまで及んでいたという事実に、私たちは愕然とします。まさか神の御子である主イエスの選びの中にまで、悪魔が入り込み、闇は激しく抵抗して光と争っているのです。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と言われた主ご自身のみことばは、驚愕の極みであります。

少し深読みになりますが、ヨハネは、こうした主の選びの中にありながらも、その根源からとことん抵抗しようとする悪魔の働きについて、その深刻な実体を具体的に自分たち使徒の中にも存在することを証言すると共に、同じように神に選ばれたはずの教会の中においても、悪と闇の抵抗が根強く働いている、という教会の現実も、暗に示唆しているように読めるのではないでしょうか。一方では明るく「あなたこそ、神の聖者です。わたしたちは信じます。」と言いながら、他方では「イエスを裏切ろうと謀略を図る悪魔」の支配が現存しているのです。そしてそうした悪と闇による悪魔支配は、多くの場合、人間の「支配欲」や「権力欲」或いは「自己栄光化の欲求」を、流行りの「承認欲求」をも含めて、そのような人間の自我欲求を通して、悪魔の抵抗は働き続けているのではないか、と思われます。牧師や長老そして信徒ひとりひとりのただ中にさえも、悪魔は入り込んで、こうした自我欲求を利用して誘惑し、ついには反キリストという化け物になって抵抗するのです。さまざまな形での教会紛争を初め、牧師や信徒の間で引き起こされる紛争の根底に、人間の本性である自我欲求を餌に誘惑し唆し続ける悪魔が働いているように見えます。教会の中でさえも、この世の権力闘争や裁判闘争の様相と化する事案も昨今は少なくないようです。是非、しっかりとみことばに立ち帰りつつ、謙遜に悔い改めをもって絶えず祈り合えるよう、お互いに注意し合いたいと思います。

「このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(ヨハネ6:71)と記されていますが、なぜ、ユダは「十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」のでしょうか。ユダは、自分が「十二使徒の一人である」ことは、とても強く自覚していたようですが、どのように考えていたのでしょうか。そして「イエスを裏切ろうしていた」ユダの意図とは、何であったのでしょうか。ヨハネではもうすでにここで明らかに示されてしまっていますが、この裏切りが明らかにされるのは、つまり主イエスが悪魔の支配を告げて、ユダが裏切るとはっきりと指摘する場面は、「過越の食卓」において(マタイ26:14~25、マルコ14:10~21、ルカ22:1~23、ヨハネ13:21~30)です。すなわち、弟子たちを初め人類のために、贖罪の犠牲の生贄として十字架にかかり死ぬことを明らかにして、その十字架の死によって贖罪の身体となるご自身の肉と血を先取りして、パンと葡萄酒を弟子たちに分け与える聖なる晩餐の場面です。言い換えれば、十字架を目前にして、まさに主イエスの十字架を引き起こす動因となるユダの裏切りがここで告げられ、明らかにされます。こうした状況から、ユダヤは、明らかに、使徒であることの本当の意味を取り違えていた、と推測されます。主イエスは、驚くべき不思議な力をもった「王」として、ユダヤの民衆を導き、ユダヤをローマの軍事的支配から解放して、新しいイスラエルを再建するお方と信じていた。ユダばかりではなく、主の力を示すよう求めた主の兄弟や家族たちも(7:3~9)、そのように、主イエスの立身出世と権力掌握の中に、自分たちの名誉や賞賛が実現されることを求め期待していたはずです。そうした欲求や確信が、十字架刑を受けて死ぬ、というローマとユダヤ権力者に対する完全敗北を決定づける瞬間でした。主の十字架の死こそ、それによって、ユダは使徒としての意味を失い絶望したのではないでしょうか。こうした地上における完全な絶望こそ、主イエスを裏切る決定的な動機となって働いたと思われます。しかもその絶望それ自体が、主イエスをいよいよ十字架の死へと導く引き金になったのです。裏切りとは、このようにして、人間の権力欲や自我欲求から生じるもう一つの見返りとして、露わにされるのです。この世の次元を超えて、天の神の真理を受け入れるということは、人間の思いを遥かに超えることで、結局は、本当の意味で、「6:65父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と主イエスご自身が言われたように、神の選びによる外に、道はないと言わざるを得ません。悪魔は、いつも神の選びに反逆して、世の終わりに至るまで働き続けます。創世記3章が啓示するように、人間本性である自我の欲求を餌にして、魂の根源から誘惑して堕落させ、結局は神を裏切り、離反を謀り続けるのであります。それは既に、選ばれたはずの12使徒の中においても、ましてや世の教会においても、いよいよ引き起こされる深刻な現実であります。

 

2.裏切りは、予知であり容認なのか

「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」と仰せになられた、このみことばを改めて読み返しますと、非常に意味深長な表現であることが分かります。「わたしが選んだ」という神の決定的な選びの中に、「ところが、その中の一人は悪魔だ」というのです。しかも主イエスは、「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる」と、不信仰の存在を予知したうえで、さらに「イエスは最初から信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた」と証言している点は、いよいよ意味深長というよりは、むしろ不可解と言わざるを得ません。主は、こうも繰り返して言われます。「6:65こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければだれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」と仰せになっておられます。神の選びと裏切りの間には、ある不可解さが見え隠れしてきます。「不可解さ」と申しましたのは、神さまに対して甚だ不敬な言い方になりますが、しかし私たち人間の感情からすれば、どうして神は選びのうちに悪魔までもお加えになられたのか、という一種の不可解さは、禁じ得ない所です。どういうことでしょうか。神は「神の選び」の中に「悪魔」を加えられて、人類救済のクライマックスである「十字架」に向けて、時を刻みつつ、神のご計画をお進めになられておられるかのように見えます。しかも、その神のご計画全体を、主イエスは、既に完全に予知予見しつつ、覚悟固くし、神の御心を遂行してゆかれるのです。神のご主権による聖なる選びの中に、裏切りと悪魔による誘惑支配が容認されていた、ということは、何を意味するのでしょうか。しかもそのような悪魔や裏切りを、主イエスは予知して、しかも覚悟して受け止めておられるのです。それどころか、自らのご意志に基づいて、裏切りに導かれ乗りかかっていくようにして、十字架の死へと向かわれるのであります。神は、明らかにご自身の確信と容認のもとで、ユダに裏切りの場を与えておられるかのように、読むこともできます。それどころか、ユダの裏切りを推し進める悪魔の罪さえも、背負って十字架に赴くかのように、見えて来るです。極論すれば、救済者としてのキリストは、既にあらゆる裏切りと抵抗を背負う覚悟をしておられた、ということになります。悪魔の支配さえも、ご自身の犠牲によって償うかのように、十字架の贖罪の死へと向かってゆかれるのであります。その上で、どんな罪人であれ、どれほど深刻に悪魔に支配されていようとも、否、だからこそ、主イエスは改めてこう言われたのではないでしょうか。「6:53はっきり言っておく。人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつもわたしの内におりわたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」と。ここで改めて求められ、同時にまた問われていることは、このみことばを信じ受け入れる、という最後の信仰決断であります。それだけで十分なのです。ただ、キリストにおける神の愛と恵みに基づく完全な救いを認めて、信じて受け入れさえすれば、それでよいのです。どれほど不信仰であったとしても、今改めてここで、最後に信じ受け入れることで、新しい命が与えられるのであります。世の終わりに至るまで、この主のみことばは永遠に世界に響き続けており、私たちに語りかけ続けているのです。キリストの十字架の死における贖罪から、排除されなければならない者など、誰一人として存在しはしないのであります。ただこの福音のみことばを認めることで、全ての神の恵みは、わたしたちのうちに豊かに成就するのです。私たちが、キリストの十字架において神の救いを信じ受け入れる限り、キリストの十字架は、完全な「贖罪の十字架」として、全ての人々を背負い尽くして、罪を償い、新しい命に生まれ変わらせてくださるのであります。わたしたちは、神よりこの福音のみことばをもったのです。そしてのこの力ある福音のみことばのうちに生きることが許されたのです。

 

3.「人の子がもといた所に上るのを見るならば……」

主イエスは「あなたがたはこのことにつまずくのか。」と、弟子たちの躓きと離反を前にいたしました。しかしそれがあなたがたの現実であれば、「6:62 それでは人の子がもといた所に上るのを見るならば……」、増々躓き離反することであろう、と心を痛め、弟子たちのより深刻な不信仰について嘆き訴えておられます。ここには、ジレンマが大きな壁となって立ちはだかっているように思われます。ジレンマとは、一方で、悪魔による裏切りさえも、主の十字架の贖罪死は永遠の命をもたらす、大きな神の愛と恵み力が明らかにされます。しかしまたその一方で、いよいよ主の十字架における愛と救いを信じて受け入れることができなければ、命はない、という裁きが生じてしまうことです。

「人の子がもといた所に上る」とは、御子の栄光なる帰還を指して言われたみことばではないかと思われます。神の世に対する愛は、キリストが十字架で死に完全に人類の罪の償う贖罪の死を遂げることで、完全に御子において成し遂げられます。それゆえ、十字架の死の内に陰府に降ることは、まさに神のご計画の成就を意味するために、主の下降を意味する十字架の死は、同時に、直ちに神の御心の成就という栄光勝利を意味しており、天に昇り凱旋する栄光の帰還を意味します。父なる神の、世に対する愛と憐れみによる救いのご計画を、御子は十字架の死に至るまで神に従順を尽くして、しかも受肉の神として人間本性を根底から背負い、死の裁きの犠牲をもって人間の罪を完全に償われるからです。御子はその受肉した人間の身体において十字架の死における完全な贖罪を果たされて、神の義を得たからであり、神の義とは、神の無限の祝福と平和に満たされた命の関係を示す神と被造物との善き秩序でもあります。これがヨハネにおける「降って来た命のパン」である「栄光のうちに昇る」神の御子であります。

確かに主イエスの受肉したお身体は「肉の眼」という制約の中で見るには見えますが、しかし、無限の力に溢れた神の永遠の本質は、肉の眼では決して見ることはできません。神の栄光とは、そうした受肉した神の下降と無限の上昇における栄光であり、また先在の神のロゴスによる天への帰還であります。言い換えれば、もはやそれ以上の神のみわざはない、というべき神の永遠なる完全性を意味するのではないでしょうか。「救済」という点で、神は全てのみわざをやり尽くしてしまった、それが、御子の十字架であり復活であります。そして別の助け主である聖霊までも既に世に遣わしておられるのであります。であるとすれば、いよいよ残された最後のことは、それを感謝と喜びのうちに信じ受け入れるだけであります。

福音を語るとは、「神の恵み」を明らかに現すとだけではなく、実は、最も深刻な「人間の罪」を明らかに現すことでもあります。福音の光の輝きが増せば増すほど、私たちの罪の暗闇もまた色濃くその陰を刻むのです。こうして福音の恵みは、無限の神の愛と慈しみの恵みを告げ知らせるのですが、それと同時に、不信仰においては、そのまま最後の審判となって、裁きの宣告となります。福音を語ることは、神の愛と御心の実現を明らかに啓示しますが、その結果、その愛の光のもとで、人間の罪が露わに啓示されます。主の十字架は贖罪であり、贖罪とは罪の償うという罪の宣告と罪からの解放を意味するからです。したがって福音を啓示するとは、常に、その罪の現実に向かって、悔い改めを呼び求める叫びとなるのです。そこでただ一つ、感謝と喜びをもって悔い改め、罪を告白し、キリストにおける愛と命の勝利を心から讃美するのであります。このように、人間の理解を超える神の本質は、罪を悔い改めて、神の啓示としてのみことばを信じ受け入れること、みことばをいよいよ聴き分けて深く学ぶ外に、救いの道はないのです。キリストにおいて十字架の死は「無限の苦しみ」であると同時に「無限の栄光」となります。そればかりか、私たちにおいても十字架の死は無限の命への解放となるのと同時に「永遠の裁き」をも照らし出しているのです。みことばにおける神の御心を受け入れ、理解できるようになること、そのためには、神を啓示するみことばを聴いて深く学ぶ外に道はないのです。みことばを聞いて学び続ける信仰が求められるのです。このように、神のご決意とご計画の真相は、主イエスご自身と主のみことばにおいてのみ、啓示され明かに示されるのです。その主のみことばを信じ受け入れ、聴いて学ぶことこそ、まさに霊の恵みであり、永遠の命を知る基礎となります。そしてこのように信仰の形成は、すべては主の「みことば」と「霊」による恵みの賜物として与えられます。

2021年9月19日「命を与えるのは霊である」 磯部理一郎 牧師

 

2021.9.19 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第18主日

ヨハネによる福音書講解説教16

説教 「命を与えるのは霊である」

聖書 詩編106編39~47節

ヨハネによる福音書6章60~71節

 

 

聖書

◆永遠の命の言葉

6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」6:61 イエスは、弟子たちこのことついてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。6:63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり命である。6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。6:65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければだれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」6:66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」6:70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」6:71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 

 

説教

はじめに. 「教会の基」は、神の啓示の「みことば」とそれを信じ受け入れる「信仰」にある

先週の礼拝は、わたくしども小金井西ノ台教会の創立を記念する礼拝でした。したがいまして、前回の説教では、特に「教会の礎」となる信仰と神学を覚えて、ヨハネによる福音書6章をお読みいたしました。実はこのように、「教会を立てる基礎とは何か」、「いったい何が教会を教会たらしめているのか」という根本問題に立って、みことばを聴き、信仰を受け継ごうとした人々は、言うまでもなく、決して私たちだけでなく、既に2000年を貫いて、数多くの信仰の証人たちが、皆同じようにそう考え、決意を重ねてまいりました。原始教会を担った「12使徒」を初め、その原始教会に伝えられた信仰を厳粛に受け継いだ人々があり、当然ながら、ヨハネとヨハネの教会もその一つでありました。「教会」とは、この世を超えて、世の支配に勝利し、既に今ここに終末の「神の国」を担う神の教会である、という自覚のもとに、しかも、その明らかな根拠と堅固な基盤は、どこから来てどこにあるのか、世界に向かって言い表して来ました。教会の基盤と礎は、キリストの語られた「神のみことば」そのものにあり、そのみことばにおいて啓示されたキリストと神の真理を信じ受け入れる「信仰」により、神のみわざは実現することを明らかにしたのであります。ヨハネによる福音書6章の前半で、主イエス・キリストは「父から遣わされた者」であり「天から降って来た命のパン」である、とご自身から語り、証しされます。しかしユダヤ人たちは、主のしるしを「神の業」であるかも知れないと考えましたが、残念ながら、主ご自身が語るみことばの本当の意味について、またご自身が誰なのか、みことばにおいて明らかに示された神の啓示を信じて受け入れることができませんでした。そこで人々は、いよいよ肉の眼でも見えて分かるような具体的な「しるし」を主に求め続けたのです。人々は結局、主イエスご自身とご自身のみことばにおいて人々に直接に証しする「神の啓示」を斥けてしまいました。前回も申しましたように、ヨハネは「あなたがたは見たのに信じない」と訴えていました。それはほかの弟子も同じことでした。湖の上を歩く主イエスのお姿を眼で「見た」はずなのに、主イエスを「幽霊」と思い、ひどく恐れるばかりでした。神の真理、即ち、主イエスとは神の子であり天の父から遣わされて、天から降って来た命のパンである、という「神」の真実を知るには、人間の肉による認識は甚だ無力でありました。有限が無限を捕らえることは出来ないことなのです。それゆえ、神と人とを繋ぐ唯一の絆は、ただ神の啓示の「みことば」とそれを信じ受け入れる私たちの「信仰」の他にない、改めて確認して、本日のみことばを読んでまいりたいと思います。

 

1.神自らが、主イエスと主のみことばにおいて、神の本質を啓示した

そこで主イエスは、そのように主のみことばを信じ受け入れられない人々に対して、さらに深く踏み込んで、6章60節以下で、こう仰せになります。「6:60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』6:61 イエスは、弟子たちこのことついてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまずくのか。6:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。6:63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり命である。』」とお説きになって、信仰へと導かれる道筋と根拠について、教えられます。人々は、ヨハネは弟子たちと呼んでいますが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(ヨハネ6:60a)と主を罵ります。また「弟子たちがこのことについてつぶやいている」(ヨハネ6:61)ことに対して、主イエスは「あなたがたはこのことにつまずくのか。」(ヨハネ6:61b)と、人々の不信仰の原因は「このこと」について「つまづいている」ためである、と指摘します。「このこと」とは、どんなことでしたでしょうか。少し長くなりますが、改めて前回の6章46節以下からに戻り読み返して、主のみことばの論点を確認しますと、「『6:46 父を見た者は一人もいない神のもとから来た者だけが父を見たのである。6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。6:50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。6:51わたしは天から降って来た生きたパンであるこのパンを食べるならばその人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』6:52 それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。6:53 イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちの内に命はない。6:54わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56わたしの肉を食べわたしの血を飲む者はいつもわたしの内におりわたしもまたいつもその人の内にいる。6:57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』6:59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」という説教でした。

 

是非、ここでご注目していただきたい点は、勿論、主ご自身のことを、主イエスとはどのようなお方であるか、その真相を、明らかに示しています。主イエスは、世に対して、ご自身とご自身のみことばにおいて、「神の真相」を明らかに啓示して、神の真実なお姿を現しています。このみことばにおいて、究極的には神の本質を言い表した「三一体の神」の秘義を人々に啓示したのであります。主イエスはご自身の内なる神に直行して、その真の神の真相をご自身のみことばにおいて人々に伝え、受肉したお身体の内に現臨する神の愛と命の本質の交わりの内に人々を招き入れようとしています。みことばにおいてご自身における「神の現臨」を現わし、人々をご自身のみことばにより「神の業」に招き入れ、「真の神」と出会えるようになさったのです。こうして初めて世と世の人々は、主のみことばにおいて、神の業に触れ、現臨する神と出会い、神の真理を知ることが許されたのです。そうでなければ、神の業に触れることも、神と出会うことも、神を知ることも、一切できなかったのです。「6:46 父を見た者は一人もいない神のもとから来た者だけが父を見たのである。」と主が断言する通り、世の人々に可能なことは、ただ、主イエスとそのみことばにおいて、聴いて学ぶことの外に、道は永遠にないのであります。主イエスと主のみことばにおいて、その神の本質を神自らが現しお示しになったわけです。本日のみことばが決定的な意味を持つのは、神は、主イエスと主のみことばにおいて、神であるご自身の本質をお示しになった、という一点に尽きるのではないかと思います。

 

2.信仰における人類の躓きと罪への堕落

ところで、人々は、どうして「神」につまずいてしまうのでしょうか。人が神につまずく原因について、躓きの要因を、もう少し丁寧に、主のみことばから探り求めてまいりたいと存じます。人々が神につまずく原因として、主イエスは主に三つの要因を明かにします。何と言っても、第一に、人は神を見ることができない、という人間の決定的な限界を告げます。人々はこの致命的な「自分の破れ」を決して認めようとはしないのです。主イエスは「6:46 父を見た者は一人もいない神のもとから来た者だけが父を見たのである。」と仰せになり、人間と神との本質的な違いに触れています。言い換えれば、神と人との間には、「無限」と「有限」という決定的でかつ本質的な違いがあります。だから両者の間は無限に乖離してゆき、人間の手では神に届かないのです。それゆえ人間が神に向かう、神と共に生きるための道は、神を信じてお委ねする以外に、外に方法はないのです。それなのに、アダムもエヴァも、みことばを通して語りかけてご自身を現わされた「神」を、そのみことばを破り拒否してしまい、自ら信仰における神との絆を捨て、神との関係性を放棄してしまいした(創世記3章参照)。その結果、神と共に生きる場であるエデンの園を失い、ついに悪魔の唆しに誘惑されて自我欲求に溺れてしまい、自分が神のようになれるという幻想を抱き、底なしの地獄である死と滅びに転落堕落してしまいました。こうしてみことばにおける神を信じ受け入れる信仰を拒み、神と共にある唯一の道である信仰を捨てて、人はいつも「神などいない」と決め付け、神のようになろうと自分を絶対化するのです。完全な他者である神を否定して自己を絶対化した人間は、自由独立を叫びながら、人間同士の間でもましてや万物に対しても、自我欲求の絶対化のために他者の全てを独占支配し、思い通りにならないと、巨大な戦争殺戮や破壊を続けるのです。人類最初の子であるカインは、神の前に自我欲求が承認されないと知ると、直ちに血肉を分けた兄弟アベルを騙して殺してしまいます(創世記4章参照)。ここまで神から離反してしまいますと、人類はとても神に向かうことも、神と共に生きることも、そして神に近づくことも、不可能となり、神から完全に離反してしまい、その愛と命を中心とする人格的な関係は失われてしまいます。こうして人々は「神」に完全につまずいてしまいました。それゆえ、その結果、あらゆる時と場において、本当の意味で「愛」と「命」と「平和」を共有することができなくなってしまいました。

しかしそれでも神は、人間と万物の造り主として、無限の愛と慈しみをもって、いつも人間を初め万物と共にその傍らに寄り添い現存し続けておられます。そしてその神の全てを完全に知り尽くしたお方こそ、唯一の「神の独り子」であり、父から「人の子」遣わされた主イエス・キリストだけであります。この「神」の真実を、主イエスはご自身において露わに現わし、みことばを語り啓示したのです。したがって、人々が神を知るには、神を見て触れることも、そして神と出会うことも、主イエスと主のみことばにおいてのみ、初めて許されており、人はそれを信じて受け入れる信仰に基づく外に、道はありません。このように、神を知り、神と共に生き、神の命の祝福と恵みに与る道は、常に、みことばを信じ受け入れる信仰よる以外にないので、したがって、結論としては、唯一信仰において、神の恵みのみわざである永遠の命に与るのであり、主が仰せの通り「信じる者は永遠の命を得ている」ということになりのであります。

 

3. 「わたしは天から降って来た生きた命のパンである」

主イエスは、ご自身とご自身のみことばにおいて、「わたしは天から降って来た生きた命のパンである」とご自身の神としての真相を啓示し、父と子という「神の本質」を明らかに示されました。しかし、そればかりではなく、神の本質からさらに進んで、神の愛と神による人類救済のご計画とその決意を啓示し、しかもその人類救済者として神から遣わされた人の子として受肉したメシアこそ「わたしである」(エゴー・エイミ)と宣言し、神の意志と計画とを明らかにします。それを、主イエスは「6:48わたしは命のパンである」「6:50天から降って来たパンである」「6:51わたしは、天から降って来た生きたパンである」と言い表しました。主イエスのみことばを信じる信仰の難しい点は、こうした神の隠されたご計画やご決断を初め、神の全ての秘義の中核を完全に啓示して明らかにしている所にあります。しかも、その救済計画遂行の主人公こそ、天から降って来てマリアより受肉した主ご自身である、と表明された所にあります。主イエスご自身が「受肉の神」であり「受肉のキリスト」であることを受け入れ信じることを求めたからです。大工ヨセフとマリアの子である地上の人間イエスは、本質的に、いったい誰であるのか。それは、神と完全一体の神の独り子であり、唯一神を知る者であり、神から「人の子」として遣わされた「神のメシア」ある、と明らかにしたのです。つまり、わたしは神であり、同時に世に救い主として遣わされた受肉の神である、と自己表明したことになります。まさに大工の子が神であったのです。しかも人類を完全に救済して永遠の命を与える神の子であったのです。

 

4.「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」

そして主イエスはこう語ります。「6:51わたしは天から降って来た生きたパンであるこのパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」「6:53人の子の肉を食べその血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は、永遠の命を得わたしはその人を終わりの日に復活させる。」「6:56わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におりわたしもまたいつもその人の内にいる。」と主は繰り返し語り、主イエスご自身の肉を食べるまた血を飲む、と言われます。かつてニコデモが「新しく生まれる」という主の信仰による新生の教えを、母の胎内に戻ることはできないと肉的に誤解して躓いてしまったように、ここでもまた、人々は「肉を食べ、血を飲む」というみことばと信仰による霊的な教えを、この世の肉を食べることだと誤解して躓いています。主イエスの肉を食べ血を飲むことで、永遠の命が与えられて、神のうちに永遠に憩うことができる、というみことばに、人々は完全に躓いてしまいました。

では、主の肉を食べ血を飲むとは、どういうことでしょうか。ヨハネによる福音書は、主イエスの実際に語られた主のみことばを、そしてそれを受け継いだ原始教会の伝承を、さらに加えて、ヨハネとヨハネの教会の信仰告白を、三重に重ね合わせるようにして、主イエスのみことばを語り直しているように思われます。しかし何と言ってもその中心中核は、言うまでもなく、主イエスご自身が実際にお語りになった主のみことばです。最も古い伝承として伝えられているパウロの伝承によれば、「11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:23~26)と、主イエスご自身が、過越の食卓で、弟子たちに伝えた主ご自身のみことばです。したがって、このパウロの伝承から、ヨハネのことばを読み直すと、主イエスの肉を食べ血を飲むとは、最後の晩餐に分け与えられた聖餐のパンと杯を象徴する表現であることが予測されます。具体的には、聖餐のパンを食べ聖餐の葡萄酒を飲むことで、キリストの肉を食べ血を飲むことになる、と主ご自身が約束されたことを意味しているように思われます。したがって、この「過越」の食卓を象徴する主の肉と血は、すなわち最後の晩餐において先取りされ指し示されたキリストの肉と血とは、文字通り、主のご最後の肉であり血であり、主キリストの十字架と復活の身体そのものを食べることを意味することになります。つまり、十字架の死に至る肉体であり、主の罪を償う「贖罪」の犠牲の肉と血であり、それを「食べ飲む」とは、主イエスご自身が制定され約束された聖餐に与ることを通して、即ち主の贖罪の肉を食べ血を飲むことを通して、その本体である主の十字架と復活のお身体みわざに与ることを意味します。簡潔に言えば、主の十字架の死における贖罪のお身体に与り、主の復活のお身体と一体に結ばれ、私たち自身の身体が十字架と復活の身体となる、ということを意味することになります。だからこそ、パウロは、聖餐に共に与る中で、「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:26)と証言したと考えられます。言い換えれば、「主の死」に共に与り、「主の死」そのそのものと一体となって、「主の死」を立証する証人となり、「主の死」を告げ知らせるべき宣教主体となるのであります。こうして「聖餐」における「共同共有のキリストの身体」こそが「教会」なのであります。

ヨハネの証言に戻りまして、6章54節以下で、「6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と宣言し、弟子たちに約束した主イエスは、「6:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と言い切っています。主の肉を食べ主の血を飲むことで、主の十字架と復活のお身体を共有し共同するわたしたち一人一人において、そして受肉した神の独り子である主イエスにおいて、両者はついに相互に決定的な一体の交わりに入れられ、言わば、両者における相互内在性の関係がここに生まれるのであります。

こうして、主イエス・キリストは、ご自身の十字架と復活のお身体において、世と世の人々を死と滅びから解放して、永遠の命を与える天から降って来た命のパンとなり、また人の子として、受肉して世に降った神のメシアとして、新しい人間本性に人類に与えるのです。すなわち肉を食べ血を飲むことで、人々の罪は完全に十字架の死の身体において贖罪されて、復活という新しい人間性のもとに、人々に永遠の命が与えられるのです。「6:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」とお約束くださった通り、私たちは、この主のお身体をいただくことで、主のお身体において、主のうちに永遠の命と平和に満たされて、憩うことができるのです。

 

5.「命を与えるのは”霊”である」

最後に、主はみことばをこう結びます。「6:63 命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と、人々に教え、「神」の本質を総括して、神の究極的な本質を「”霊”」として、言い表します。神は一つですが、その働きにおいて世に現わしたお姿から言えば、天地創造という「創造」の働きに集中して「神」のお姿を言い表せば、「父」なる神であり「造り主」なる神として捉えることができます。そして人類救済のために罪を償い神との和解を果たされた救いの働きに集中して「神」のお姿を言い表せば、「子」なる神であり、「メシア(キリスト)」として受肉した神のロゴス(神の言)であり、「救い主イエス・キリスト」となります。そして最後に、神の本質の全てを別の助け主として世界に命の息吹を吹き入れ、しかも私たち人類と万物の内に隅々に至るまで偏在して、命の源となる「命の与え主」という働きに集中して「神」を言い表すとすれば、それは即ち聖なる「霊」であり、「霊」として神のお姿を示すことになります。こうして、主イエスは、ついに「神の本質」を、「父」と「子」と「霊」の神として明らかにし、「三一体の神」として神の本質を啓示したのであります。この神の内奥にあり、かつ世界を超越する真理は、余りにも人間の思いを越えており、人間の理性や感覚による物差しでは到底量り知ることはできない、無限の神の本質であります。当然ながら、人間に頼るのであれば、その結果は必ず躓くことになります。しかし同時に、神のみことばを信じ受け入れ、神のみことばに頼れば、神の本質に触れ神と共に生き、神の全ての恵みに与ることのできるのです。

2021年9月12日「わたしは命のパンである」 磯部理一郎 牧師

 

2021.9.12 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第17主日(創立65周年記念)礼拝

ヨハネによる福音書講解説教15

説教 「わたしは命のパンである」

聖書 ヨハネによる福音書6章41~59節

エレミヤ書31章1~6節

 

聖書

6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。

6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が人の子を認証されたからである。」

6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33 神のパンは天から降って来て世に命を与えるものである。」

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンであるわたしのもとに来る者は決して飢えることがなくわたしを信じる者は決して渇くことがない。6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに信じない。6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。6:48 わたしは命のパンである。6:49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。」

 

 

説教

はじめに

本日の礼拝は、わたくしども小金井西ノ台教会の創立を覚える「創立記念」礼拝となります。したがいまして、本日もヨハネによる福音書の講解説教をこれまで通り進めますが、その前に、教会創立を共に記念しながら、ヨハネ福音書のみことばを分かち合いたいと存じます。そこで、本日は、特に「教会を立てる」ということを意識して、或いは、「教会の基とは何か」という点に焦点化させて、ヨハネのみことばを読んでまいります。

 

1. 教会創立記念礼拝に臨んで

『小金井西ノ台教会三十年史』にしたがって、小金井西ノ台教会の創立を振り返りますと、1956年9月23日に「日本基督教小金井西ノ台伝道所」として、渡辺充牧師によって、現在のこどもの国幼稚園園舎で、第一回礼拝が行われたことが記録されています。そして1966年には高尾霊園に教会墓地を購入しています。1971年1月渡辺充牧師のご逝去に伴い、東部連合長老会議長芳賀真俊牧師のご推薦により宮本進之助牧師を説教者にまた上良康牧師を代務者に定め、伝道は継続されました。1975年には「伝道所」から「第二種教会」に昇格を果たし、1977年に新会堂を貫井南町に建築し、竹森満佐一牧師によって献堂式が行われました。この新会堂建築により、第二代牧師に宮本進之助牧師が就任され、教会の宣教は幼稚園園舎から新会堂へと移りました。その後、1986年田中牧人牧師、寺田真一伝道師を経て牧師招聘に困難を覚えますが、1997年より川崎嗣夫牧師、2003年より武田英夫牧師、2010年より青戸宏史・歌子牧師、そして2019年現在の磯部理一郎・紀代子牧師へと宣教の働きは受け継がれております。これまでの西ノ台教会の歴史で、最も大きな宣教の転機となったことは、幼稚園園舎で渡辺牧師により宣教の産声を上げた誕生期、次に1977年貫井南町に新会堂を建設し幼稚園から分離独立し、宮本進之助牧師を招聘し宣教を本格化させた第二段階、そして2000年(平成12年)川崎嗣夫牧師のもとで小金井市貫井南から現在地本町6丁目7番3号に移転し、新しい宣教地を得た第三段階として、教会の変遷を捉えることができそうです。ただ、薬屋さんだった木造の中古住宅を購入して会堂としたため、建物はそのまま改修して用い、既に築50年を経過しています。その間、2003年川崎牧師の退任を受けて武田英夫牧師が、2010年武田牧師に代わり青戸宏史・歌子牧師が、この新天地で宣教を受け継ぎ教会形成が担われて来ました。早くも貫井南町の新会堂建築から44年、この本町に移転して20年を迎えました。現在、丸2年、足掛け3年に及ぶコロナ禍の中で、教会の宣教は困難を極めていますが、これまでの神の恵みに、心から感謝申し上げますと共に、これからの新しい5年10年の教会宣教の展望をしっかりと見据えながら、更なる教会形成と宣教の課題に取り組んでまいりたいと考えております。

 

2.教会の基としての「福音の信仰」

教会の宣教と形成という点で言えば、言うまでもなく、教会の基は「福音」であります。しかも「福音」を正しく継承する信仰にあります。わたくしどもの西ノ台教会は、神の福音を宗教改革の精神に基づいて、特に「改革長老教会」の信仰と神学に基づいて創設され形成されたプロテスタント教会です。この教会創立と形成の礎に固く立って教会創立を記念したいと存じます。この教会は、日本のプロテスタントの潮流の中にあって、さらに具体的な流れを申し上げるならば、旧日本基督教会の伝統と東京神学社、即ち東京神学大学を中枢にして担われて来た宣教の神学の上に立てられ、直接には今では連合長老会に所属しておりますが、より正確に言えば、熊野義孝先生や竹森満佐一先生による教会の信仰と神学を基盤にして、形成されて来た教会である、ということを、いよいよ徹底して覚え、自覚的に継承する必要があります。そうした教会創立の信仰と神学は、先ほど創立の歴史を振り返る中で触れた通りです。その中心は、日本キリスト教団や今では連合長老会も含めまして曖昧かつ未定型であり、極論してより純粋に言えば、熊野義孝先生の神学を通して受け継がれた「受肉のキリストによる贖罪の神学」を基礎にして、「福音の信仰」は私どもにおいて継承され、私どもの教会は立てられ形成されて来た、と言っても過言ではありません。私どもの教会が依って立つ教会の基と礎は、ただ一つ、「福音の信仰」にありますが、その福音信仰の本質は、「神の言葉の神学」と「受肉のキリストによる贖罪」を中核とした熊野義孝先生・竹森満佐一先生の教えを継承することで、初めて確保される教会の信仰であり、神学である、と考えられます。おそらくこの日本において、プロテスタント教会として真の教会を立てる道は、その他にはないのではないのではないでしょうか。このように教会とその宣教の礎をしっかり固めることで、次世代の教会形成を確かにすることが可能となり、担保されるのです。その教会信仰の基盤を堅く覚え、いよいよ熊野・竹森神学によって教導された信仰をよく学び、それをしっかりと継承し、この信仰と神学の継承の充実によって、教会の形成を進めることにあります。

さらに踏み込んで言えば、熊野義孝先生・竹森満佐一先生の神学と信仰の源は、これもまた言うまでもないことですが、まさに公同教会を決定づけた「ニケア信条」と「カルケドン信条」にあり、これら両信条の信仰と神学は、ルターやカルヴァンの宗教改革を踏まえつつ、「ハイデルベルク信仰問答」において受け継がれました。こうした一連の公同教会の信条・信仰告白を日本において簡潔に継承したのが、旧日本基督教会1890年制定の「信仰の告白」であります。こうした一連の公同教会の信仰を、まさに串刺しするように、聖書・ニケア・カルケドン・宗教改革・ハイデルベルク信仰問答・旧日本基督教会「信仰の告白」と受け継がれ、そして東京神学大学における熊野・竹森神学へと貫かれて来ました。こうした教会の信仰と神学の伝統の中から、わたくしども小金井西ノ台教会は生まれ形成されて来たのです。したがって、わたくしども小金井西ノ台教会は、教会の基となる信仰を、この脈絡において、しっかりと確保し教会形成の礎とするのであります。私たちに委ねられた教会の基となる信仰を正しくしっかりと受け継ぎ、力強く担うことができますように、と心から願い求める次第であります。これが、教会創立を覚え記念する根本的な意味であります。教会員ひとりひとりの信仰的自覚、そして何よりも牧師を含めて長老会の一致した理解と確信が求められる所であります。

 

3.福音の本質「わたしは命のパンである」

主イエスは「朽ちないパン、命のパンとは、わたしである」と言われ、また「朽ちないパンとは、永遠の命を得ることであり、終わりの日に復活させることである。6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」と言われました。

わたくしどもの教会とその宣教の基盤を聖書において堅く覚えるのであれば、まさにこのみことばにあります。したがいまして、この主の決定的な福音のみことばを改めて読み直してみたいと存じます。主イエスは6章33節以下で「6:33 神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものである。」と告げ、また「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と宣言して、ご自身こそ、ただ一つの永遠の命に至る食べ物であり、命のパンであることを明かします。しかもそれは、神の永遠のご意志であり、神のご計画である、と啓示します。「6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」と神の隠された救いのご計画を人々に告げ知らせます。重ねて、6章44節以下でも、主イエスは「6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければだれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と告げます。主イエスはここで、これ以上にないほど明らかに「神の啓示の本質」即ち「福音の本質」をはっきりと告知したのです。こう言われます。「6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」と、はっきりと福音の本質とは何であるか、また神の隠されたご意志とご計画とは何であるのか、人々に啓示されます。神の完全なご意志とご主権のもとで、すなわち「神の国」の到来という宣教により、私たちは永遠の命に至る復活の恵みに与るのです。そしてその「永遠の命」は、主イエスによる救いを信じて受け入れる、という「信仰」を通して、私たちに与えられるのです。これが「福音」であり「神の啓示の本質」であります。そのために、神の独り子である主イエス・キリストは、父によって天から降り世に遣わされて、十字架の死において、私たちの罪を償い、神との和解を果たして、その十字架におけるキリストの功績により、わたしたちは完全に罪赦されて、永遠の命の祝福に与るのです。ヨハネが3章16節で「3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と伝える通りであります。したがって、当然ながら、教会の宣教も、神の独り子であるイエス・キリストを信じ受け入れる信仰によって、裁かれずに永遠の命が与えられる、というこの福音の一点に集中します。

ここには、私たちがしっかりと覚えるべき「救いの道筋」が明示されています。「6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人一人も失わないで終わりの日に復活させることである。」と言われていますが、「わたしをお遣わしになった方」即ち「神」のご意志は、「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること」にある、と明確に宣言されます。神の啓示の真理の中心に、言わば世にある私たち人類は全て、既に神のご意志によって「わたし」即ち主イエス・キリストに与えられている、と明示されています。「わたしに与えくださった」という言い方を、逆説的な別の言葉で言い換えれば、6章44節に「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」ということになりましょう。神のご意志によって、完全にキリストに私たちは与えられ委ねられたのです。誰も父なる神の御心でなければ、教会に足を運び、洗礼を受けて、礼拝を守り続ける、ということはあり得ない、ということにもなります。世も万物も、そして私たち人間の全てが、神のご意志によって、イエス・キリストのもとに委ねられ与えられているのです。したがって、主イエスは、私たち全人類の「主」であり、私たちはまさにキリストに所有された「キリストのもの」であります。神のご意志からすれば、この世は全て本質的に「クリスティアーノス」即ち「クリスチャン」として基礎づけらたのです。

主イエスは「わたしに与えてくださった人」と呼んでいますが、父が子であるキリストに「与える」とは、どういう意味でしょうか。いくつかの意味に解釈できそうです。第一に「キリストのもの」とされることです。もう少し詳細に言えば、神の愛と意志のもとに、キリストによって統べ治められつつ、永遠の命を実現する、ということであります。「神の独り子」は、「キリスト」(メシア:救い主)としてしかも処女マリアより受肉した「人間」として、十字架の死に至るまで人間の罪を償う「完全な贖罪の生贄」として、ご自身の霊も魂も肉体もご人格の全てを神に献げられて、人類の罪の贖罪を果たし、神への完全な「従順」を尽くして、「神の義」を勝ち取り、人間のために神との和解を実現し神との完全な命と祝福の関係を回復して、復活をもって私たち人間の本性に永遠の命を注ぎ、人間の本質を根本から神のもとに回復してくださいました。この救いと福音は、十字架と永遠の命を復活というキリストのお身体において、受肉したキリストの人間本性において、成し遂げられた「キリストのお身体による和解と贖罪」であり、その勝利の証明が「復活による永遠の命」であります。キリストに属するとは、このキリストの贖罪の身体、永遠の命に溢れた復活の身体とされる、ということになります。簡潔に言えば、キリスト者すなわちキリストに属ずる者は皆、この受肉のキリストの贖罪と復活の命の身体として新たに生まれ、永遠に生き続けるのです。それが、福音の本質であり、教会宣教の中核であり、私たちの信仰の中心であります。熊野先生の信仰と神学は、まさにこの「受肉のキリストの十字架の贖罪と復活の身体」を信じ受け継ぐことにあります。神のことばにおいて、この生けるキリストの十字架と復活のお身体に私たち罪人は招き入れられ、永遠の命に養われるのです。まさにみことばにおいて主イエスはご自身を「命のパン」として差し出し与らせて下さるのであります。

わたしに与えてくださった」とは、それだけの意味に止まるものではありません。私たちをキリストに与えて委ね、その所有と支配のもとに任せられたのですから、キリストは私たちの「主」であり、「主」とは、さらに厳密に言えば、「支配の主(王)」である以上に、最後の審判における「裁き主」であります。つまり私たちが神に裁かれるとすれば、それはまさにキリストによって裁かれるのです。キリストは「最後の審判者」となられたのです。それゆえ、私たちが「義」とされて永遠の命に救われるのであれば、それは主キリストが「最後の審判者として復活させ救うのです。キリストは、まさに「最後の審判者」として、私たちのために贖罪の赦しと復活の命を与え、かつ決定づけるために、私たちの前に立ち、みことばを語り、ご自身の十字架と復活の身体を私たちの前に差し出されるのです。主イエスは、ご自身のみことばにおいて、私たちをご自身の十字架と復活のお身体のもとにお招きくださり、いよいよ深く永遠のみことばを語り、私たちの魂の奥深くに向かって、ご自身が神のメシアであり神の独り子である、という本当の神キリストのお姿を現してお示しになり、そして「これは、わたしの身体である、取って食べなさい」と言って、ご自身の贖罪と復活のお身体を差し出されるのです。みことばにおいてご自身の十字架の贖罪の中に私たちを招き入れ、差し出されたご自身の十字架と復活のお身体をみことばを通して分け与えられ、それによってついに、私たちは罪を完全に償われて、永遠の命に満たされ、まさに飢え渇き朽ち果てるべき人間本性は、その根源から復活による永遠の命のお身体のうちに養われるのであります。「みことば」において、即ち「説教」というinvisible見えないことばと「聖餐」というvisible見えることばにおいて、主イエスは、ご自身を「天から降って来た命のパン」として「これは、わたしの身体である」と宣言して、私たちに十字架と復活のお身体を差し出して分け与えてくださるのであります。「説教と聖餐」という「みことば」において、主ご自身が差し出される十字架と復活のお身体に、聖霊の恵みと信仰によって共に与り、私たちは死と滅び裁きから永遠の命の祝福のうちに救われるのです。私たちは、みことばにおいてこのキリストのお身体に与り永遠の命に養われつつ、魂と身体の全人格において、唯一真の神を見、主と出会い、唯一真の神の生ける命の交わりのうちに、しかも三一体の神の交わりのうちにいよいよ深く招き入れられ、神と共に生きるのです。これが、キリストに属する者の実態であります。この福音を私たちはキリストの身体である教会として担っているのです。

 

4.みことばにおいて、キリストを信じ受け入れる「信仰」の意義

最後に残された問題が一つあります。それは、みことばにおいて、差し出された十字架と復活のお身体の前に、私たちはどう応えするか、ということです。その神の真実を認めず暗闇の中を彷徨い続けるのか、神でないものを神とする偶像を拝み続けるのか、或いは、感謝と喜びをもって信じ受け入れ従うのか、であります。すなわち、みことばに背き罪に支配され続けるのか、それとも福音の信仰に生きるのか。みことばを受け入れず、神の啓示を拒み、神に背くのか。この背きの罪ゆえに、世は神の真理の光のうちに決して憩うことは出来ないのです。その背きの実態は、人間自身の自我欲求ゆえに、悪魔の誘惑に唆されて、誘惑に敗北して堕落し、この堕落と破綻を生涯の宿命として生きるのではなく滅びに堕ちることにあります。6章32節で主イエスはこう言われます。「『はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33 神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものである。』6:34 そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、6:35 イエスは言われた。『わたしが命のパンであるわたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに信じない。』と言われています。ここで、是非注目すべき意味深長な言葉は、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」という痛烈な指摘です。言い換えれば、見ても信じることができない、という意味にも解釈できそうです。見ていても、果たして何が見えているか、です。もう一つ、注目すべき意味深長な表現があります。6章45節のみことばで「6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。6:46 父を見た者は一人もいない神のもとから来た者だけが父を見たのである。」と教える部分です。ここで注目すべき所は、主イエスは聖書の言葉を事例として引用しながら「父から聞いて学んだ者」は皆、「わたしのもとに来る」と仰せになっている所です。同時に併せて「父を見た者は一人もいない」とも断言しておられます。つまり、はっきりとここで、主イエスは、神を「肉の眼」では決して見ることはできない、と諭しておられるのではないでしょうか。神は「無限」ですが、人は「有限」です。有限である人の眼で、無限の神を完全に見て取ることはできないはずです。たとえ肉眼で「見たから」と言って、人間の感覚器官で神を完全に捕らえ包み込むことができるでしょうか。したがって、神ご自身が語りかける啓示のみことばを信じて受け入れる以外に、外に方法はないのではないでしょうか。私たちは、ただ「みことば」による神の啓示によって光照らされて、初めて神の真理に触れることができます。それも、ほんの僅かな真理を知るにすぎません。それなのに「見たから」と言って、否、かえって、神を見れば見るほど、信じがたい驚きに包まれてしまうのではないか、と思います。前の説教でお話しましたように、湖の上を歩く主イエスを弟子たちは実際に「見た」からこそ、それは驚くべきことであり、恐れとなって、「幽霊だ!」と叫ぶしか、できなかったのです。そして主イエスはみことばをもって語りかけます。「恐れることはない。わたしだ。」と主ご自身が語りかけるみことばにおいて、主はご自身を明らかにお示しになると、そして弟子たちは安心して、あれほど荒波に翻弄され続けていた小舟は既に向こう岸に着いていた、という新しい事実と向き合うことができたのです。

結局は、神の啓示のみことばを聴き入れることができないと、神の真実は見失われ、損なわれてしまうのではないでしょうか。みことばに現わされた神の啓示を、すなわち、イエスを神のメシアとして、その十字架と復活をわが救いとして、信じ受け入れない、という不信仰が生じることになります。ヨハネは6章41節以下でこう記します。「6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」とあります。主イエスをどう見るか、主イエスをどう信じるか、その見て信じる内容が問われています。一方では「天から降って来たパンである」と言われるように、主イエスを、天から降って来た神のメシアであり、人々を永遠の命に養い永遠の命を与える命のパンである、という「神の真理」です。イエスのうちに「神」を見て信じることを示しています。もう一つは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。」と呟いたユダヤ人のように、主イエスを、この世の身分から、言い換えれば「この世」から見て、卑しめ貶めています。

確かに主イエスは、ヨセフとマリアの息子でもあります。それはとても重要な意味を持ちます。ご自身のうちに、すべての人間を背負い、ご自身から人間としての責務を果たすためです。主は、神のメシアであるからこそ、ご自身のお身体において人間性の全てを背負い完全な贖罪の生贄として、さらには完全な命の復活勝利の身体として、全人類を背負うのです。しかしただの人間にはそれはできないことです。神から遣わされた神のメシアだけが、マリアから受肉したお身体と人間性をもって、全人類の人間性そのものを背負い担うのです。したがって、ここでとても大切な点は、受肉したイエスのうちに天から降られた神の独り子を同時に見て、信じ受け入れることです。この信仰は、ニケア信条に示されるように、イエス・キリストは父なる神と同一本質であるという信仰であり、またキリストにおいては、神であり同時に人である、とするカルケドン信条の信仰となります。主イエスは、ご自身のみことばにおいて、神であり人であるメシアとして、ご自身を現しておられるのであります。福音の中核であり、教会宣教の基であり、信仰の源泉となります。しかし、この信仰を受け入れられないのが、ユダヤ人たちでした。そういう意味からすれば、ある意味で、ニケア、カルケドンの信仰を受け継げないのであれば、このユダヤ人たちと同じことになるのではないでしょうか。私たちの信仰も教会も、しっかりとここに立つのであります。

2021年9月5日「永遠の命に至るパンのために働きなさい」 磯部理一郎 牧師

 

2021.9.5 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第16主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教14

説教「永遠の命に至るパンのために働きなさい」

聖書 出エジプト記16章1~16節

ヨハネによる福音書6章22~40節

 

 

聖書

6:22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。

6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が人の子を認証されたからである。」

6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。6:33 神のパンは天から降って来て世に命を与えるものである。」6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンであるわたしのもとに来る者は決して飢えることがなくわたしを信じる者は決して渇くことがない。6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに信じない。6:37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。6:40 わたしの父の御心は子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

 

説教

はじめに

ヨハネによる福音書が物語を進めてゆく進め方について、その展開方法をめぐり、改めて想い起していただく所から、話を始めさせていただきたいと思います。ヨハネは、最初に不思議な「しるし」を行う主イエスを描きます。次いで、その「しるし」をめぐって、ユダヤ人たちの議論や避難が不信仰として紹介され、それを根本から受けてお応えになるという形で、比較的長く纏まった主イエスご自身による説教が紹介されます。しかもその主イエスの説教において、いつも共通していることは、主イエスとはだれなのか、ご自身の本当の姿を自ら主イエスが明らかにする、という形が繰り返されながら、福音書の物語は進められてゆきます。ヨハネは、主イエスが実際に語られたみことばを中核にして、ヨハネとヨハネの教会の信仰告白を盛り込みながら、言わば主イエスによる命のパンの説教として、ここから展開してゆくことになります。この「命のパンの説話」は、6章59節まで続く非常に長い教説として展開してゆきますが、本日は、その前半に当たる40節までの所を取り扱いことになります。そして残り後半の41節から59節までの「命のパンの教説」については、来週の説教でお話することになります。

 

1.それは「肉と欲望のパン」か、それとも「霊と命のパン」のしるしか

さて、主イエスは、6章1~15節に示されましたように、5000人を超える群衆に対して、僅か「大麦のパン五つと魚二匹」で、全員を満腹させても有り余るほどであった、という不思議な業である「しるし」を行われました。このしるしにより、多くの群衆が、舟に乗って、主イエスを追いかけて来たのです。6章22節以下では、その群衆たちの跡を追いかける様子が報告されています。「その翌日湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。6:23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。」と記されています。

「その翌日」とは、主イエスが弟子たちだけを強いて舟に乗せ、向こう岸のカファルナウムに行かせた、その翌日です。その翌日に、群衆はついに主イエスに追いついて、探し出したようです。そこで、5000人の食事というしるしに続いて、今度は、群衆との間に、主のしるしをめぐって問答が生じます。その第一声が「6:28神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いでありました。この「神の業を行う」とは、5000人を超える人々を満腹させる、という主イエスの行われた「しるし」を、彼らは「神の業」と考えていたようです。しかし問題は、なぜ人々はそれを「神の業」と思ったのか、その心にあるのではないでしょうか。彼らのその思いに、主イエスは鋭くかつ厳しく目を向けます。主イエスは、ご自身のしるしを神の業であると考えた群衆の心を深く鋭く見抜いていたのです。主イエスは、最初にまず、はっきりとこう言い切ります。「6:26はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言って、あなたたちは、「しるし」の本当の意味を理解していない、と群衆の無理解を指摘します。彼らに分かり易いように、はっきりと、全くしるしのうちに啓示される神の真理が見えていない、と言い切っています。強いて二元論的に言えば、「肉」の腹を満腹させるしるしなのか、「霊」の腹を満腹させる「命のパンのしるし」なのか、したがって、神が民の罪を全て赦し死と滅びの裁きから民を解放して、永遠の命の祝福をもって民を満たすのか、主イエスはここで、その「命のしるし」の意味を、問題にしているのです。したがって主は直ちにこう言われます。「6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である父である神が、人の子を認証されたからである。」つまり主イエスは、わたしは、魂と信仰による救いのことを言っているのに、永遠の命に生きる神の恵みのみわざについて示したのに、あなたがたはそれを取り違えて、自分の肉の腹を満たすことばかりに、心が奪われてしまっているではないか、と人々の無理解を指摘するのです。つまり、神がメシアを遣わして人々を永遠の命へと導くという命のパンを与えたことに心を向けないで、この世の肉的で物理的な満腹満足を求めて、主イエスのしるしを神の業と思い込んでいるのではないか、と主イエスは群衆の本音を見抜いていたのです。だから、この世で終わってしまう単なる肉的な満腹満足を求めるのではなく、つまり、朽ちる食べ物、肉のパンを食べて満腹することに依り頼む生き方から、永遠に飢え渇くことのない「命のパン」を求めて生きなさい、と言って、群衆の無理解と誤解を明らかにしたのであります。あなたのために、神がメシアである主イエスを通してのみ与えてくださる「永遠の命のパン」の意味を、この世で欲望欲求を満たす「欲望のパン」として、誤って受け取ってしまっていたのです。「6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とは、そういう意味ではないでしょうか。

 

2.「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために」

冒頭で少々触れましたが、厳密な聖書研究から申しますと、これはどちらかと言えば、純粋に主イエスの説教そのものである、というよりは、むしろ、主イエスのみことばを中核にして、つまり原始教会で語り継がれ伝承されていた所謂「主イエスの命の教説」の伝承に、さらにヨハネはその伝承に加えて、ヨハネとその教会の信仰告白を重ね合わせるようにして言い表すという形で、主イエスの命の教説を展開してゆきます。この「命のパンの教説」も、ちょうど3章で、ニコデモとの問答形式を取りながら主の教えが展開される、という進め方と同じ語り方で、ここでも群衆との問答形式のような形で「命のパンの教説」が展開されてゆきます。

この「命のパンの教説」は、大きく分けますと、三つの問答によって、導かれているように見えます。最初の問答は「神の業を行う」とはどういうことか、即ち、神の業にあずかり神の業に生きるとは、どういうことなのか。私たちはどうすれば、「神の業」に生きることが出来るのか、を問います。二つ目は、神の業とは、そもそも何であり、それを確かな形で見極めて認識するとは、どういうことか。「神の業」を、眼に見える形での「しるし」として示されなければ分からないではないか、だから「見えるしるし」をもって、神の真理を明らかに示してほしい、という求めであります。具体的に言えば、かつてモーセが、天からのマナを降らせ、放浪で飢え渇いた民を食べさせたたように、実際に示して欲しい、ということになります。最後の三つ目としては、主イエスよ、いったいあなたは何者なのか、どうしてあなたは神の真理を語ることが出来るのか、それを証拠を提示して、その権威と根拠を具体的に明示して欲しい、と言って、主に求めるどころか、主を論難してゆきます。

先ほど6章26節以下で「パンを食べて満腹したからだ。6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6章26b~27節)と、主イエスは人々に教えました。「永遠の命に至る食べ物」と語り、群衆の信仰心に、或いは人々の心に、訴えかけています。言わば、私たちの心を、肉から霊に、この世から神の国に向け直そうとします。そうです、皆さん、「永遠の命」に至らしめる食べ物とは何なのか、深く考え直してみませんか、と諭しておられるのです。いくら日常のパンや肉を食べても、お腹はすぐに空いて、飢え渇き、ついにはいくら食べても飲んでも、私たちは終わりの死を迎えるのです。日常のパンや魚が永遠の命に至らしめる食べ物とはならないことは、少し考えれば、誰にでも分かることです。ただし、そうと分かっていても、では、自分を永遠の命に至らしめる食べ物とは何か、本当はよく分からないのです。一番大事な自分の命のことなのに、いったい何が自分の命を永遠に保証くれるのか、知らないまま、ただ生きそして何もわからないまま「死」を迎え、人生は終わってしまいます。さぁ、今ここで考えてみませんか。いったい、あなたを永遠の命に至らしめる食べ物とは何ですか? あなたはそれを本当にそれを知っているでしょうか。今まで、それを真剣に求め、考えたことがありますか? 根本的な「命の問題」を提起しているのです。教会に集うのも、その目的は何のためですか。「6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」というのです。たいていの人は、おそらく、永遠に生きることができる、と心から信じて生きてはいないはずです。自分の大事な命なのに、永遠に生きる命など、まともに考えようとはしないのです。学歴や、財産や地位や、人々の賞賛は、いつも気にしていても、果たして自分の命を永遠に保証してくれるのは何かは考えないのです。それらは皆、必ず終わり、奪われ、失われてゆくものばかりです。教会に通いながら、場合によっては牧師や長老に任職されていても、自分の命を永遠に保証してくれるものが何か、どこまで本当に深く厳密に知っているのか、とても怪しい所であります。大事なことは、真の命の与え主とは誰かを知り、命を永遠に保証できるお方と、今ここで、確かに出会うことなのです。

 

3.「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」

そこで主イエスは、29節でまず「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と、余りにも率直に、そして非常に誠実に、真正面から神の真理を群衆に告知しています。ニコデモにもそうでしたが、主イエスは、殊に神の真理、真実、即ち啓示については、余りにも幼子のように、そして誠実に人々と向き合い、お答えになります。その誠実なお姿には、とても驚かされます。神の業に与り神の業に生かされるとは、ただ「神がお遣わしになった者」即ち「主イエスを信じる」ことである、と答えています。神から遣わされた主イエスを信じることにおいて、神のみわざに与り神のみわざに生かされ、神の業を行うことが出来る、と断言したのです。人が人として、霊魂・精神・肉体の全てを包む全人格として、神のみわざに与って生きる、その決定的な第一歩とは、主イエスを神がお遣わしになったメシアであると信じ受け入れることである、と言われたのです。これは決定的な意味を持つ重要なみことばです。「信じる」とは、信頼して身も心も人格の全てを尽くしてお委ねすることです。誓い所で言えば、結婚もそうでありましょう。完全ではないにしても、互いに受け入れ合い、認め合い、そして信頼と尊敬をもって、身も心も全てを尽くして、お互いに委ね合う生活であります。人間らしさという点から言っても、人間同士が互いに信じて受け入れ合う部分がなければ、共に人間として生きる営みは成立しません。これは、自分に対しても言えることす。身も心も、人格のすべてを尽くして、自分自身を信じて受け入れられない限り、私たちは人格として成立できず、結局は破綻して自ら死ぬ以外になくなってしまいます。しかも自分を産み育て、自分を養い支えてくれる人々を信じて受け入れられない限り、人としては生きることはできないのです。ましてや、人間をご自身に似せてお造りくださった「造り主」である神を信じて受け入れること、その造り主が自分のために救い主として独り子を世にお遣わし下さったことを信じて受け入れることで、私たちは初めて神のみわざに与り生かされることが分かるのであります。もう少し厳密に言えば、造り主である神が、今ここに、主イエスにおいて現臨しておられる、ということを受け入れ信じることにより、神の業に与り生きることになります。神の業を私たち人間が行うとは、そういう風に信仰を通して、神の恵みと命に与ることであります。しかし群衆は「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか?」と言い返しています。もう少し有体に言えば、そんなことは誰が信じられるだろうか、永遠の命などはあり得ない、と言って、嘲笑っているようにも見えて来ます。

 

4.「あなたがたはわたしを見ているのに信じない

それでも主イエスは、驚いたことに、永遠に至る命のパンは、既にあなたがたに与えられている、と告げます。「6:33 神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものである。」と主イエスは告げ、永遠の命に至らしめる命のパンは、既に天から降って来て、今ここに、あなたがたの前に差し出されているではないか、と解き明かします。すると、群衆はそれに応えて「6:34主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」とパンを求めるのですが、主イエスは改めて、群衆の心を鋭く見据えて、率直にこう告げます。「6:35わたしが命のパンであるわたしのもとに来る者は決して飢えることがなくわたしを信じる者は決して渇くことがない。6:36 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに信じない。」と、群衆の心の本質を映し出すかのように、みことばにおいて、彼らの不信仰を明らかにいたしました。永遠の命を与えるキリストを受け入れず、やはりこの世の腹を満たす生活を選ぶからです。

ここで再度、主イエスは「信じる」ことについて言及しておられます。29節でまず「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と仰せになり、この34節では「わたしを見ているのに信じない」と言われます。「わたしを見ているのに信じない」とは、どういうことでしょうか。問題は、ただ信じるのではなくて、信仰において、何をどのように信じ受け入れているのか、その信じる内容、受け入れたこと、さらには信じたことと自分とがどうかかわるのか、その関わり、どのような関係にあるのか、その関係性が、をさらに踏み込んで問題になっていると思われます。

前回の説教で、湖の上を歩く主イエスを見て、弟子たちは実際にそれを見たのに、驚き恐れたのです。つまり、「見ている」のに、「幽霊だ」と言って、恐れたのです。弟子たちは、確かに湖の上を歩く主イエス見たのです。逆に言えば、確かに見たからこそ、「幽霊」だと思い、「恐れた」のではないでしょうか。これは、とても意味深いことを示しています。つまり「見たから」こそ、真実の姿を「受け入れることができない」のです。言い換えれば、見て体験したからと言って、本当の意味で、メシアと出会えるかどうかは、甚だ疑問である、ということになるのです。真実を知る確かさとは、どこにあるのでしょうか。ましてや神の独り子であるキリストを見たという事実の確かさは、どこでどのようにして確かめることができるのでしょうか。ここでヨハネは、人間の目で見たから、という人間の側の体験や経験によらない、人間の肉の体験を遥かに超える出来事であり事実である、ということを示唆しているのではないでしょうか。主イエスがメシアであること、神の救いの真理は、人間の側の認識力や感覚に依拠するものではない、ということではないでしょうか。では、どのようにすれば、正しく主を受け入れる信じることができるのでしょうか。湖の上を歩く主イエスを弟子たちが正しく認識して「神の子である」告白に至った根拠は、たった一つしか記されていません。それは、キリストからみことばによって語りかけ、その語りかけられたみことばを通して、弟子たちはキリストを認識し、主イエスであると分かって、安心しました。つまりここに、重要な示唆があります。それは、みことばを聴く、ということです。みことばを聴き分け、聴き入れることを通して、はじめて主イエスと分かり、主イエスと出会う、主イエスを人格のすべてを挙げて受け入れることができるようになる、ということではないでしょうか。したがって、主イエスがここで、「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と仰せになった、その背景には、主イエスのお語りになるみことばを受け入れようとはせずに、みことばそのものを最初から拒んでいる、ということが分かるのではないでしょうか。みことばを聴く意志がなければ、何を見て何を経験したとしても、神の真実な御心もお姿も「幽霊」にしか見えては来ないのです。彼らの目で見ることの出来た姿は「幽霊」でしかなかった、それは、みことばを聴くことになしには、神の御子であり、メシアとして認識し受け入れることはできない、ということではないでしょうか。人間同士でも、お互いの本当の姿を知るには、お互いの告白し合うことばを信じることから始めなければならないのと同じであります。そのように、主イエスは、直接弟子たちに「わたしだ。おそれることはない。」とみことばをもって語りかけ、弟子たちの心の中に、魂の奥深くに、主イエスご自身の本当のお姿をお示しになられたのではないか、思います。主イエスのみことばによって魂が豊かに導かれ、そのみことばによる啓示を心から信じ受け入れるとき、私たちはキリストを確かに知り、出会うことができるのではないでしょうか。

永遠の命を与えるパンは、主イエスご自身であります。主イエスにおいて、人々は永遠に命に与ることができるからです。神は主イエスをお遣わしになり、主イエスは父なる神に心からの従順を尽くして、人々のために罪を償いご自身を十字架の死に至るまで献げました。この犠牲によって、人類の罪は完全に償われ、義が与えられ、永遠の命の祝福に与ることが出来ます。その命のパンを、私たちのために、ご自身のお身体を差し出して、お与えになられます。それは十字架における完全な償いの身体であり、それは復活における完全な命に溢れる身体であります。私たちは今ここで、もう一つのみことばである聖餐において、私たちのために差し出された永遠の命のパンに、確かな「信仰」をもって、共にあずかりましょう。

 

2021年8月29日「わたしだ、恐れることはない」 磯部理一郎 牧師

 

2021.8.29 小金井西ノ台教会 聖霊降臨第15主日礼拝

ヨハネによる福音書講解説教13

説教「わたしだ、恐れることはない」

聖書 詩編145編10~21節

ヨハネによる福音書6章16~21節

 

 

6:16 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。6:17 そして、舟に乗り湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。6:18 強い風が吹いて湖は荒れ始めた。6:19 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。6:20 イエスは言われた。「わたしだ恐れることはない。」6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた

 

 

はじめに. 湖の上を歩く主イエス:神に遣わされた神のメシアを啓示する

本日は、ヨハネによる福音書6章16節から21節のみことばをお読みしますが、読んでみますと、非常に不思議な出来事が弟子たちの体験として伝えられています。読む人によっては、少々不気味にも感じる所でもあるようです。著名な聖書註解者でありまして、殆どこの出来事について、詳しく解説しないで済ませてしまうことが多いようです。しかし、聖書には、非常によく似た出来事として、マタイによる福音書14章22節から27節に、またマルコによる福音書6章45節から52節にも登場します。マタイ、マルコ、そしてヨハネは、同じような酷似する出来事を彼らの体験談として証言しており、新共同訳聖書では、三つとも「湖の上を歩く」という全く同じ表題が付けられています。したがって、概ねこれらは同じ一つの出来事を、マタイ、マルコ、ヨハネは其々の理解にしたがって伝承し伝えている、ということになるのではないか、と思われます。

そこでマタイ、マルコ、そしてヨハネ、其々の記事を比較一覧しながら、この出来事の真相を正確に読み解いてまいりたいと思います。比較一覧プリントを皆さんのお手元にご用意しましたので、どうぞご参照いただきながら、お話をお聞きいただければ、と存じます。ヨハネ6章16節は「弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした」と記します。ところが、マルコ6章45節は「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ」と伝えており、弟子たちが舟に乗って湖を渡って行き着く目的地が、ヨハネは「湖の向こう岸のカファルナウム」と記し、マルコは「向こう岸のベトサイダ」と記しており、両者は相互に矛盾して表記しています。それゆえなのか、マタイは「向こう岸」とだけ表記しています。今となりましては、果たして目的地はどちらなのか、特定することは出来ません。したがいまして、共通する表記はただ「向こう岸」であり、小舟に乗って目指す目的地、しかもそれは主イエスのご意志に基づいて目指すべき向こう岸であり目的地であります。結論から言えば、ある意味で、それはキリストの身体である教会という小舟に弟子たちを乗せて、この世という大嵐の中を航海して、終末の神の国をめざす、ということをも暗示しているようにも思われます。

関連して、ここでもう一つ、意味深い点として、マタイとマルコは共に「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」と明記しています。弟子たちが舟に乗って湖の向こう岸に渡ろうとしたのは、つまりこの出来事は、終始一貫して、主イエスの「強い意志」に基づいて、引き起こされたことである、ということを念頭に入れて、読むべきであります。この嵐の湖の中で、湖の上を歩く主イエスを見る、というこの出来事は、明らかに、主イエスの固く大きなご意志のもとで、弟子たちは舟に乗せられ、湖を渡ろうとする中で、引き起こされてゆくことになります。つまり単純な嵐の出来事を伝えるというよりも、主イエスにおける神の大きなみ心とその啓示として主イエスの真理をお示しになるという前提で、福音書記者はこの出来事を伝えようとしている、ということを窺い知ることができるのではないでしょうか。つまり、主イエスこそ、神がお遣わしになられた神のメシアである、という真実を啓示する出来事として、この出来事は描かれているのであります。

 

1.荒波と暗黒に苦悩するこの世の中で

さらに詳しく読み進んでゆきますと、聖書は、湖を渡る際の「状況」について、特に時や気象について、言及します。主イエスは、残念ながら、祈るためにお独りで山に残られましたので、それゆえ、舟は弟子たちだけを乗せて、夕方に、既に暗くなる中に、出航しました。ただ、意味深い点として、再度確認しておきますと、大きな前提として、この出来事全体を包み込むように、主イエスご自身が弟子たちを強いて舟に乗せたことです。しかも、主イエスは山に残られて祈っておられます。そうした主イエスの言わばご計画とご配慮に守られて、弟子たちは、夕暮れの中を小さな舟に乗り込んで、ガリラヤ湖を向こう岸をめざして漕ぎ出して行ったのです。

ところが、弟子たちの乗った舟は、漆黒の暗闇に包まれる中で、「強い風が吹いて湖は荒れ始め」(ヨハネ6:18)ます。そして「逆風のために」(マタイ14:24、マルコ6:48)、「湖の真ん中」(マルコ6:47)で、「何スダディオン」(マタイ14:24)の所で、それは凡そ「25乃至30スタディオン」(ヨハネ6:19)進んだ所でしょうか、即ち5~6㎞進んだ所で、弟子たちは漕ぎ悩んでしまいます。しかしこうした出来事はよくあったようです。というのは、鋭く奥深くえぐられた、すり鉢状の地形をしたガリラヤ湖は、山から吹き下ろす突風に曝されることが多かったからです。たとえ、そうした地形と気象事情をよく知り、舟の操作に慣れた漁師たちであっても、余りにも突然にしかもとても強い突風に襲われると、とても危険であり、手も足も出なかったのではないでしょうか。今で言えば、突然の豪雨に曝されて、どうしようもできない気象事情に当たるかも知れません。あれだけ優れた衛星技術により、十分予測され分かっていても、被害は甚大となるのです。そうした突然の嵐と突風との闘いは「夜明け」(マタイ14:25、マルコ6:48)まで続きました。収まるはずの風も、終息するはずの嵐も、夜を通して闘い抜いても、一向に静かにならず、ついに「夜明け」を迎えてしまったのです。そのため、弟子たちの舟は、ついに危機的な状況の中に陥り、弟子たちの命も最早瀕死の状態にあったと考えられます。その真っ只中で、まさに主「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見た」(ヨハネ6:19)というのであります。マタイは「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(14:25)と記し、ただマルコは「湖の上を歩いて弟子たちの所に行きそばを通り過ぎようとされた」(6:48)と微妙な表現をしています。

この湖での出来事を読んでいますと、どうも全く異なる二つの世界が互いに交錯して、描かれているように、思えてきます。一つは、荒れ狂う嵐の湖の中で、木の葉のように荒波に翻弄される小さな舟に乗り込んで、苦悩し続ける弟子たちの現実世界です。夜通し暗闇の中で舟を漕いでも漕いでも、僅か10㎞足らずの向こう岸に辿り着くことが出来ないまま、猛威を振るう嵐と荒波に飲み込まれ、溺れ死んでしまう恐怖と絶望の世界です。この小さな舟は、何も抵抗できずに、無力のまま、暗闇の中に転覆し、恐ろしい荒波の中に飲み込まれてしまう弟子たちの現実世界です。舟や水に慣れているはずの漁師たちでさえも、まさにそうした生活の場の中にあるのです。どうすることもできない魔物のように、襲いかかる逆風と突風と向き合わなければなりませんでした。当たり前にガリラヤ湖の漁師として生まれ育った弟子たちの日常生活の中に、どうすることができない大きな暗闇が支配しているという現実があり、どうしても辿り着く事の出来ない向こう岸があったのです。弟子たちは、そうした暗黒に住む魔物と向き合ったのではないでしょうか。僅か10㎞足らずの向こう岸に辿り着くことさえできず、暗闇の中で荒波に飲み込まれて終わるのです。それがそのまま、自分たちの本当の生活なのだ、ということを思い知ったはずです。

湖を知り、舟を操り、魚を取り、飢え渇くことなく生業を立てていた日常生活のただ中に、まさに魔物が住んでおり、ついに牙をむいて襲い掛かってきたのです。この闇の姿を露わにした湖の真ん中で、弟子たちに襲うかかる逆風と荒波は、ただ単に自然現象の話ではなく、人間の生活の本質を投影しているようにも、読むことができます。人間が生きる日常の現実の中に、その本当の姿は、底なしの暗い闇であり、そしてその深みには想像もつかない魔物が住んでいて、ついに私たちを暗黒の世界へと飲み込んでゆくのです。どんなに知恵と力を尽くしても、乗り越えられない、決して向こう側には辿り着くことの出来ない、そんな破綻と絶望の中に、私たちの本当の生活はある、それが、あなたの生活の実態である、と教えるのです。わたしたち人類が文明をいよいよ堅固に豊かに築けば築くほど、予想を遥かに超えて、思いもよらない大災害が私たちを飲み尽くし、叩いても叩いても湧き上がる新しい病原菌は次々と私たちの文明社会を侵し、また科学や知識を進めれば進めるほど、核兵器など一瞬にして起こる大量殺戮はより深刻となっています。人類は本当の平和にも、健全健康な生活さえも、いくら進化に進化を重ねたとしても、決して辿り着くことはできない現実です。そして何よりも、全ての人々が例外なく、死と滅びの中で自分自身を失うことになります。一つの病気を克服したと言っても、また次の病気に苦しみ、ついには死に至るのです。これが、木の葉のように、漆黒に住む魔物によって翻弄される小舟の姿であり、私たち人間の儚さであり、現実なのであります。

 

2.「夜明け」を迎えるとき、神の歴史における介入を啓示する

しかし聖書は、同時にもう一つの、全く異なる新しい世界を告げ知らせます。それが、まさに「夜明け」に、主「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見た」(ヨハネ6:19)とする、もう一つの、信じがたい、驚くべき、新しい出来事であります。一方で、暗黒に住む魔物のような嵐に襲われる絶望的な現実の中で、他方では、信じがたい、驚くべき、主イエスによるもう一つの新しい世界と私たちは出会うのであります。マタイもマルコもそしてヨハネもまた、明らかに共通する点は、つまり福音書は、明らかに、主「イエスが湖の上を歩く」というこの出来事を描くことで、しかもそれを弟子たちが見たことを証言することにより、主イエスにおいて神はこの暗黒の世界に力強く迫り、キリストを通して神の無限の力が私たちの人生に介入し始めていることを証言しようとしたのではないでしょうか。単に不思議な奇跡を物語るのではなくて、明らかに、福音書は、外ならぬ全能の神が、自然を超越して超自然的な力をもつて、「主イエス」において、介入しているという決定的な啓示を描こうとするのです。どんな悪魔や魔物に飲み込まれようと、私たちは、主イエスというお方の神の力とそのご意志の中に、そして無限の愛と祈りの中に、完全に包まれているのだ、ということをヨハネも、マタイもマルコも共に、共通して言い表そうとしているのです。

なぜなら、ヨハネによれば、それを「見た」からであります。実は、牧師たちがよく参考にするある著名な聖書註解者は「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られる」のを見たのではなくて、それは「海辺を歩いていた」のを錯覚したのだと解釈します。しかし、それでは、聖書の証言を解き明かすことはできるはずはないのではないでしょうか。ヨハネは、「錯覚した」のではなく、はっきりと「見た」と証言しています。彼らは、暗黒の中でしかも嵐に翻弄されるなかで、確かに「見た」のです。その信じがたく、驚くべき、主イエスにおいて力強く啓示されている真理を見たのです。それはまさに、主イエスにおける力強い神の力であります。その主イエスにおける神の力は、暗黒に夜明けをもたらし、嵐に静寂を実現する神の力でありました。確かに、荒れ狂う湖の上を歩く主のお姿を見たとき、余りにも信じがたく、驚くべき出来事を見てしまったため、それを「見た」ことで、いよいよ弟子たちの心は恐ろしくなり、恐怖に震えたことでありましょう。ヨハネは「見て、彼らは恐れた」(ヨハネ6:19)と記し、マタイは「見て、『幽霊だ』と言っておびえ恐怖のあまり叫び声をあげた」と証言し、そしてマルコは「見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ」(マルコ6:49)と伝えています。彼らの知識や経験では受け止めることのできない、許容力を遥かに超えた現実と直面し体験したことは間違いないことでありましょう。

 

3.わたしだ。恐れることはない。

しかしここで、最も重要な点は「6:20 イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」と、明確に主イエスは、ご自身のみことばをもって弟子たちに臨みます。その主のみことばを彼らは聴いて、主イエスであると確かに認識して、主イエスと向き合い、荒れ狂う湖の真ん中で今出会っているお方は「わたしである」と主イエスと分かるのです。不思議なことに、弟子たちは、見て「主イエス」を正しく知り理解したのではありませんでした。否、主イエスを見たのに、認識できたわけではなかったのです。そこで、主イエスはご自身のみことばを語ることにおいて、「わたしだ!」とご自身の本当のお姿を示され教えらたのです。ことばの力とは、こういうことではないでしょうか。親子や兄弟でも、外見上の見せかけでは本当は余りよく分かっていないのかも知れません。その人の人格の本質から語り出すことばによって、その人の本当の姿を知る、ということは、それほど多くはなくても、確かに経験することです。人格ということ、人間であるということ、そして人間としての本当の尊厳は、その人の魂の中心から語られる真実な言葉によって、明らかになり、初めて認識されるのではないでしょうか。その主のみことばにおいて、主イエスはご自身を明らかにお示しになり、その主のみ言葉を確かに聞き分けることで、弟子たちは主イエスであることが分かったのであります。主イエスの「わたしだ。恐れることはない。」と弟子たちに直接語りかける、主の生きたみことばのうちに、主ご自身である、という真実が明らかに現されており、弟子たちは、荒れ狂う荒波の中であっても、主のみことばを確かに聴くことによって、ここに主がおられ、ここにおられるのは主イエスであると分かり、主イエスと確かに出会い、そしてついに自分たちの乗る舟の中に、「主イエスを迎え入れた」のです。すると間もなく、決して辿り着くことができなかった目指す地に、彼らを乗せた舟は静寂のうちに着いていた、というもう一つの、新しい現実に招かれ、遭遇したのであります。

 

4.イエスを舟に迎えいれようとした

不思議なことに、ヨハネは「6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく舟は目指す地に着いた。」と記している聖書証言に、是非とも私たちは注目すべきであります。全く異なる二つの世界が、ここでは互いに交錯し合い、出会い、交わり、そして一方では絶望的な暗黒と荒波に翻弄されながらも、それにもかかわらず、静寂のうちに目指す地に辿り着いているのではありませんか。わたしはここには三つの重大な要素が重なり合うように働いていると思います。

一つは、言うまでもなく、全く異なる二つの世界が同時に交錯し重なり合っているという現実です。単刀直入に言えば、一つは、死と滅びの運命に翻弄され続ける人間の現実であり、いくら舟を漕いでも、決して命と解放もない、希望の向こう岸には辿り着けない現実です。もう一つは、主イエスが湖の上を歩くという超越の神が明らかにこの地上に苦悩する人間の闇に深く介入して来られる神の支配、神の国の到来というもう一つの世界と現実であります。超越の神は、イエス・キリストにおいて、キリストを通して、私たち人類の住むこの世に語りかけます。神の無限の力は、キリストを通して、私たちの人生の奥深くに、漆黒の魔物が住む絶望の世界に深く介入され、人格の中枢から命と希望を与えて、かかわられるのであります。

そしてこの交錯し合う二つの世界にあって、しかしこの小さな小舟は、湖の真ん中で暗黒から夜明けへ、荒波から静寂へ、驚愕と恐怖から平和と安息へと突き抜けて、向こう岸へと辿り着いています。この貫通貫徹を実現し可能にしたのが、主イエスであり、主イエスの中枢から語りかける神のみことばであります。ここに、二つ目の重大な働きがあります。しかも神の独り子であるイエス・キリストは、その人間のことばにおいて、暗黒の世に深く救いの介入を啓示されるのです。今日の聖書で言えば、「わたしだ。恐れることはない。」というみことばにおいて、ご自身の本当のお姿をお示しになっています。意味深いのは、マタイとマルコです。マタイもマルコも湖の上を歩く主イエスを最初は「幽霊だ」(マタイ14:26、マルコ6:49)と言っておびえた、と証言しています。人智を遥かに超えた現象でありみわざであるからです。それは「幽霊」としか言いようない現実を見たからでした。しかしながら、主イエスご自身が語りかけた「わたしだ。恐れることはない。」というみことばにおいて、弟子たちは明らかに「幽霊」という錯誤と誤解から完全に解き放たれて、ここにおれるのは主イエスである、という確かで真実な真理認識に至ります。みことばが語られ、みことばが聞かれる中で、弟子たちは、幽霊ではなく、ついに真の主イエスと出会ったのです。

次いで、三つ目の重要な要素として、マタイはこの出来事をこう総括して終えます。「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」(マタイ14:33)と結びます。言うまでもなく、真実な信仰の認識に導かれて、真の信仰告白に至った瞬間であります。これは非常に意味ある結び、総括ではないでしょうか。つまり「わたしだ。恐れることはない。」という主イエスご自身のみことばによって語りかけられ、またそれを聴き分けることで、「幽霊」は大きく転換して、幽霊におびえる不安と恐怖から解放されて、「神の子」であると明白に認識します。主のみことばが弟子たちに語られ、弟子たちは主のみことばを聞くことで、恐るべき「幽霊」であるという錯誤と誤解を乗り越えて、「神の子」というもう一つの、真理の世界に辿り着いたのです。即ち、主イエスにおける神の力ある救いの働きを、みことばを聴くことにおいて、受け入れ、その体験を「信仰」として確保したことになります。まさにこの信仰において、ついに弟子たちは平安と静寂に満ちた向こう岸というもう一つの新しい世界に辿り着くことが出来たのです。これが三つ目の重要な働きです。暗黒に住む魔物に飲み込まれるのか、それとも主イエスをみ言葉を通して正しく認識して、信仰において、安息と静寂の向こう岸に辿り着くのか、それはまさに、み言葉を聴き分けて、キリストの出会い、キリストを受け入れる信仰の世界が実に大きな意味を持ちます。まさにそういう意味で、みことばは、死と滅びと絶望の世界から、弟子たちを神の子キリストにおいて力ある解放の世界へと導く分岐点となったのです。みことばを聴き分けることで、恐怖に満ちた「幽霊を見た」のではなく、平安に満ちた「神を見た」のであり、本当の「神の子と出会う」ことが許されたのであります。

 

5.すると間もなく、舟は目指す地に着いた

わたくしはこれまでずっと暗闇と絶望の中を生きて来ました。苦悩し続けた青春でもありました。しかし今は違います。平安と希望に自分の魂を置くことができます。したがって「安心」の中を生きれるようになりました。その決定的な分岐点となったのは、まさに「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださった主イエスがおられたからであります。文字通り「わたしだ。恐れることはない」という主のみことばを聴くことが出来るようになったからであります。主のみことばを聴くことで、わたしは生きて現臨したもう主と出会うのです。主のみことばにおいて、主の豊かな御心と主の救いの力に出会い、全身にそれが満たされるからです。木の葉のように、嵐と荒波に翻弄され続ける小さな小舟は、主イエスのみことばによって語りかけられ、主のみことばを聴くことにおいて、風は静まり、もうすでに向こう岸に舟は辿り着いているではありませんか。主のみことばを聴き分け、聞き入れることで、信仰の世界に辿り着き、キリストを知り、キリストと出会い、キリストを受け入れ、キリストと共に生き、キリストの力にすべてをお委ね出来るようになるからです。ヨハネは「6:20 イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』6:21 そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとしたすると間もなく舟は目指す地に着いた。」と告白しています。みことばを聴き、主イエスを迎え入れたのです。舟は彼らの命であり人生であります。彼らはみことばを聴き入れることにおいて主イエスを彼らの命のうちに、人生のただ中に迎え入れたのです。信仰において主イエスを日々迎え入れるのであります。日々主イエスのみことばにおいて主イエスと出会い、主イエスにおいてわたしたちは生ける神と共に生き、生ける神による命を知ります。するともう、そこは、神のみ国ではないでしょうか。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とは、そうした信仰における豊かな体験を証言しているのではないでしょうか。

「教会」は、よくこの「舟」に喩えられ、「沈まぬ舟」と呼ばれます。改革派の教会ではこの「沈まぬ舟」を旗頭にして誇りに覚えてきました。「教会」が、まさに「沈まぬ舟」となる、その瞬間がここにある、と言えるのではないでしょうか。木の葉のように嵐に翻弄される小舟が永遠不滅の教会となる瞬間が、ここに描かれ、告白されているのであります。漕いでも漕いでも向こう岸に辿り着けない小舟が、向こう岸に辿り着ける確信に至る瞬間があります。それは、「わたしだ。恐れることはない」主のみことばが語られた瞬間であり、主のみことばが小舟の中で従順に聞き入れられた瞬間であります。そして、そこに信仰の告白が生まれた瞬間であります。この地上に教会が、「神の教会」として、真の姿を露わにするとき、それはまさにみことばが真実に語られ、みことばが信じて聴かれる瞬間ではないでしょうか。わたしたちは常に嵐に翻弄され、不安の中に揺れ動きます。しかしそれを乗り越えることの出来る瞬間があるのです。それは、みことばを聴けた瞬間であります。そのとき、わたしたちは初めて、大嵐と暗闇の中に翻弄される中にあっても、永遠の安息と希望に憩う現実に辿り着くのであります。そのとき、私たちは初めて、死のただ中に身を置こうとも、永遠の命と勝利の喜びに生きることが出来るのであります。