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2021年1月24日「盗んではならない」 磯部理一郎 牧師

2021.1.24 小金井西ノ台教会 公現後第3主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答110~111

十戒について(7)

 

 

問110 (司式者)

「第八戒(『盗んではならない』)において、神は何を禁じるのか。」

答え  (会衆)

「神は、ただ司法当局が処罰する盗みや強盗だけを禁じるのではありません。

そればかりか、力づくにより、

或いは、不正な目方・枡・物差・物品・貨幣・利息を正当に見せかけることにより、

すなわち神によって禁じられる何らかの方法により、

隣人の財産をわがものとしようとする、あらゆる悪巧みや悪事のすべてを、神は盗みと呼びます。

加えて、あらゆる貪欲と神の賜物を無駄に浪費することもまた(神は盗みと呼び禁じます)。」

 

 

問111 (司式者)

「ではこの戒めにおいて、神は何をあなたに命じるのか。」

答え  (会衆)

「わたしが、可能な限りそしてしたいと願う限り、

隣人の利益のために、役立つようにますます励み、

隣人に対して、自分が人にして欲しいように自ら振る舞い、

困窮の中で惨めな思いをする人々を助けたいと願って、誠実に働くことです。」

 

 

2021.1.24 小金井西ノ台教会 公現後第3主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教51(問答110~111)

説教「盗んではならない」

聖書 申命記5章17~21節

テモテへの手紙一6章3~10節

 

前回の第七戒「姦淫してはならない」に続いて、本日の説教は、第八戒「盗んではならない」という戒めの解き明かしとなります。第七戒の「姦淫してはならない」という禁止命令は、所謂「結婚制度を守る」ために、規定された律法ではなくて、「神の呪い」を回避するために、神の御前で人格の尊厳を尽くして、其々が決断した結果として、自分自身からの神さまへの応答として、「姦淫はしてはならない」という戒めを持つに至る、という戒めであります。律法を規定する基本原理は、ここでは「神の呪い」を避ける選択として、自分の人格としての決断が求められます。その本意は「神の祝福」に生きる、という選択的決断によるものであります。神さまの御心を知り、自分自身の人格的尊厳を精一杯尽くして、神さまの御心にかなう選択をする、そうしてそこで出会う神の祝福に生かされる、そして自分にとっても自由で真実な生き方を始めるのであります。

本日の第八戒「盗んではならない」という禁止命令も、同じ原理のもとにあります。即ち「神の祝福」に生きようとする選択的決断から生じた、また神さまに対する真摯な応答を前提にして、自らの人格の尊厳を尽くした自由と喜びにおいて、まさに神への感謝と喜びをもって、受け入れてゆく戒めであります。私たちは、自らの自由を尽くして、まず神の御心に心を向けます。そして謙遜に、神の御心に心の耳を向けると、神のみことばは鋭い剣となって、聞こえてきます。みことばの向こうには、神さまがおられ、神さまもそのご人格を尽くして私たちの前に現存しておられます。そこは「聖」であり、「義」であり、「超越」であり、そして何よりも「愛と憐れみ」に満ち溢れています。時に、みことばは「神の呪い」のように響き、自分の罪を徹底して断罪告発する「裁きの声」のように聞こえます。そうした「神の呪い」の前に立ち尽くし、神が厳かに現臨する御前で、すなわち神が語るみことばの前で、自らの人格的尊厳を尽くして、みことばを聴き分けるのです。そうして次第に神のご人格に触れ、ついには神の尊厳と愛に触れ、本当の神の恐れ(畏れ)を知り、神の呪いを避けて、神の祝福に生きようとする決断に至るのです。こうして「神の祝福」にお応えする道を選択する信仰生活の始まりとなります。聖書のみことばを読み、また聞くということは、そういうことでありましょう。

 

本日の第八戒について、ハイデルベルク信仰問答110では、こう告白宣言します。「第八戒(『盗んではならない』)において、神は何を禁じるのか。」と問いまして、「神は、ただ司法当局が処罰する盗みや強盗を禁じるのではありませんそればかりか力づくにより、或いは、不正な目方・枡・物差・物品・貨幣・利息を正当に見せかけることにより神によって禁じられる方法により、隣人の財産をわがものとしようとする、あらゆる悪巧みや悪事のすべてを、神は盗みと見なします。加えて、あらゆる貪欲と神の賜物を無駄に浪費することもまた(神は盗みと見なし禁じています)。」と告白します。最初の答え方に注目しますと、「神は、ただ司法当局が処罰する盗みや強盗を禁じるのではありません。」と言い切っています。しかも最後の所では「神は盗みと見なします」と盗みの最終判断は神の裁定による、と言っています。つまり第七戒「姦淫してならない」と同じように、第八戒「盗んではならない」とは、ただ単に「司法当局が処罰する盗みや強盗を禁じるのではない」と、国家や社会による司法がこの戒めを規定する基本原理ではない、と明確に断言し公言しています。すなわちこの世の人間の側には決定権は一切ない、ということになります。「司法当局」と意訳しましたが、元々の字は「上に立つ支配機関、政府、役所、当局」(Obrigkeit)を意味する字です。つまり問答は、単に、国家社会の規定する「盗み」だけをここで問題にしようとしているのではないのです。それ以上の、それを超える、もっと本質的で根源的な「盗み」を、神は問題にしているのだ、と言うわけです。

似たような誤解が「罪」という概念にもあります。同じように司法当局によって処罰される、所謂「犯罪」を、一般的には「罪」と言いますが、キリスト教では、つまり神が問題にしようとするのは「犯罪」以上の罪、それ以上の、もっと根深て根源的にある、人間の本質や本性において決定的な意味をもつ「罪」を問題にします。いわば犯罪を幾重にも引き起こす「原罪」であります。英語ではThe Original Sinと呼びます。盗みも、犯罪としての盗み以上に、もっとその奥に根源的な盗みがあって、人間の本質を支配する「原罪」を根元にあって、「盗み」を犯させるのです。神さまはその盗みを告発し断罪し、かつ激しく呪うのですが、問題はその奥に潜む罪こそ、神が呪う本体であります。いわば「姦淫してはならない」とは、姦淫を引き起こす姦淫の根っこ、姦淫の「心」を神は問題して呪うのです。同じように「盗んではならない」も、盗みを引き起こす盗みの根っこ、盗みの「心」を神は問題にし、呪うのです。

 

問答110の答えで、意味深い点は「力づくにより」とありますように、身分や地位など、あらゆる世の社会的「力」を背景にして、掠め取ること、極端に言えば、違法に強奪することよりも、所謂「合法的」に盗むこともありうるのであって、その合法的な盗みも含めて、重大な「盗み」として、神は見ておられるのです。それはただ単に金銀だけではなく、それに纏わりつく権力や利害、場合によって人事や人脈による地位獲得も含まれるでありましょう。独占欲や支配欲など、さまざまな人間の欲望から生じる盗みが、神によって断罪告発され、そしてついには呪われているのです。私たちの地上の教会社会の中でさえも、例外なく、いくらでも起こっている「盗み」があるのではないか、と予想させます。教会の私物化はその典型であります。まさにありとあらゆる「力」や「見せかけ」によって、何もかもを掠め取ってしまう「盗み」であります。恰も「合法」的に、恰も「民主」的な制度や選挙の見せかけの名のもとに、掠め取り、盗むのであります。『国盗り物語』という名の小説がありますが、まさに国さえも盗みとる強盗であります。政治や経済、場合によっては、教育や福祉などの領域において、そして何よりも宗教という領域においてこそ、甚だしい「盗み」が横行しているのではないだろうかと、とても不安で恐ろしくなってしまいます。まさに世の中とは、大きな盗み合いの中に、生まれては消え、盗みの連続現象は続いているようにも見えてきます。

 

ここで、基本的な問いが生じます。世界はいったい誰のものなのか、という問いです。「私有」とか「私有財産」は、憲法や国法によって保障されます。しかし究極において、果たして世界は「わたしのもの」なのでしょうか。前回ご紹介しましたように、熊野義孝先生はこう論じておられます。「近代主義の特徴は既に周知のごとく、一言にして主観化の原理に立脚したものと考えることができる」と述べて、近代精神とは「自我哲学」による支配である、として総括なさっておらます。繰り返しのご紹介をご容赦いただきますが、こうも言われます。「個性の創造的な自由を仮定しつつ究極には世界を自我の延長となす哲学である。そこではあらゆる非我乃至物象はことごとく自我の自由な人格性の展開のための手段と見なされ、自我の自律(Bei-sich-selbst-sein)ということが究極の原理であり、それ故に自我の豊饒は同時に人類致富の所以である。」(『熊野義孝全集』9、「教会と文化」338頁)と、近代精神を総括されています。しかしさらに深刻なのは、教会の現実です。同じ論文で「教会の現実性を見失ってこれを主観化し空想化する謬想に対してわれわれは警戒せねばならぬ」と、キリスト教会自身に警鐘を鳴らしておられます。キリスト教会自身が本来の教会性を見失って、自ら主観化して、自我哲学の支配の中に堕落している、という厳しい批判であります。昨今の言い方をすれば、まさに「教会」自身が、世界を私物化し、自己目的化している、という指摘になります。こうした意識の広がりの中で、「盗むな」という戒めを、改めて聴き直すのであります。主観化の原理について、おそらくこれほどまでには、ハイデルベルク信仰問答の時代では、予測できなかったことかも知れませんが、その後の近代現代社会は、こうした驚くべき化け物のような怪物の姿をした私物化社会として出現したわけです。それは、産業革命や巨大な資本を背景にして、古代中世とは比較にならない規模で進行しています。ある報告では、世界の全ての富は僅か7%の人だけが独占している、というわけです。確かに民主的で平等な社会を近代は実現したことは、否めない歴史的事実でもあり、高く評価しなければなりません。しかし他方で、改めて根源から、世界は果たして誰のものなのか、と問うのです。極論すれば「わたしのもの」、すなわち主観化の原理と自我哲学の徹底した展開の中で実現したことも、また事実であります。さらに言い切るならば「世界は人間だけの独占物」なのか、という問いであります。人間もまた自然世界の一部であり、神の被造物の一つではないのか、という問いであります。「盗むな」という神の戒めの前には、「盗む」人間がいるのであります。熊野先生によれば「キリスト教の見地においては、現存の人間は罪を犯さざるを得ない。人間の罪悪不可避性ということがまず明確に認識されねばならぬ。このことは唯個人的に清潔が保たれ得ぬという以上に、われわれが必然的にこの堕罪の世界に生息している事実から導き出される。したがってわれわれの自覚は、人格の自律ではなく罪責の認識(Sich-Schuldig-wissen)でなければならぬ。」と述べて、いわば「盗む」という「罪責の認識」を求めておられます。先生は、さらにこう結論づけています。「私が汝乃至彼に対して相手の独立を犯し、その人格を無視する時、この罪が同時に私をも汝をも彼をも包む創造の秩序を破壊する」と断じ、盗みとは即「創造秩序の破壊」を意味し、まさに盗みとは、創造の秩序を破壊してしまった人間の堕罪から生じている、と指摘します。

まさにイエス・キリストは、この破壊された創造の秩序を回復するために、世に降り受肉して、その創造世界を本質から背負い、十字架において贖罪し、復活により新しい創造へと回復するのであります。教会は、そのキリストの身体であることを改めて想い起すのであります。この受肉のキリストにおける十字架と復活による贖罪と新しい創造こそ、教会本来の現実であり、したがって教会が世に身を置く意味と目的は、この贖罪者としての働きを担うことであります。

 

「盗む」という意味をより深く根源から考え直すうえで、世界はだれのものかと問ううちに、少し大きな議論となりましたが、単に司法上の盗みが問題となるにとどまらず、神によって創造された創造世界のすべてが、人間の犯した罪により、大きな「盗み」の中にあるのだ、という問題がお分かりいただければ、十分であります。ですから教会は、絶えず「盗んではならない」と語り続けなければならないのです。ハイデルベルク信仰問答110の答えに「隣人の財産をわがものとしようとする、あらゆる悪巧みや悪事のすべてを、神は盗みと見なします。加えて、あらゆる貪欲と神の賜物を無駄に浪費することもまた(神は盗みと見なし禁じています)。」と告白しています。ここで決して読み落としてならないことは、一見「隣人のもの」を盗むことを主題にしているように見えますが、それに加えて「神の賜物」を無駄に浪費することも大きな「盗み」として禁じられていることです。ここで、私たちは、世界がすべて「神の賜物」であることを想い起すことになります。そういう意味では、万物は、「隣人」のための所有物としてあるのでもなければ、ましてや「自分」のものだと思い込んでいる資産は勿論のこと、命や生活のための「時間」も「空間」もそして「空気」さえも、すべてが「神の賜物」であって、浪費することは盗みとなる、というわけです。すべてが神のものであること、神からお預かりしたもの、そしていずれは、神にお返しすべきものである、ということを、絶えず私たちは深く心に留めておくべきでありましょう。愚かなことですが、結局は、万物が神により創造された神のものである以上、盗んで盗んでも、盗み通すことはできないのです。改めて盗む愚かさを、深く知るべきでありましょう。言い換えれば、神の創造に対する「盗み」が根本から問題にされるその大きな枠の中で、隣人のものを盗むという人間社会での盗みが断罪されているように思われます。

 

さて、こうした盗む愚かさから一変しまして、問答111は、ついに新しい決断と信仰による神への応答として、新しい生活を告白するに至ります。「ではこの戒めにおいて、神は何をあなたに命じるのか。」と率直に問い、つまり「盗むな」という禁止命令の前で、あなたは今ここで何を学び、どう決断し、何をもってあなたの新しい生き方とするのか、とそう問答は迫ります。そして「わたしが、可能な限りそしてしたいと願う限り、隣人の利益のために、役立つようにますます励み隣人に対して、自分に人がして欲しいように自ら振る舞い困窮の中で惨めな思いをする人々を助けたいと願って、誠実に働くことです。」と応答します。告白者たちは、神のみことばである戒めに、心を向け直して、新たに決断し、神にお応えしようとしています。そして新しい信仰による生活を始めます。北森嘉蔵先生が教室でよく言われていたことを想い起します。それは、キリスト教の本質、愛の本質とは、「自己否定媒介」による他者愛である、というお言葉です。また「他者媒介」による自己形成ということも言われていたように記憶しています。自己存在を、徹底的に「他者」に向けて、献げ奉仕するのですから、当然ながら、その行為は「自己否定」となります。しかしこの自己否定の行為によって、本当の意味での自己形成は媒介され獲得される、という意味でありましょうか。信仰問答では「隣人の利益のために」「隣人に対して」そして「困窮の中で惨めな思いをする人々」と三度に渡って隣人を挙げています。そして神によって自分の前に「隣人」として差し出された人々のために、「わたしは、励みfördere、振る舞い(行動を取り)handele、そして働くarbeite」と答えでも、三重の動詞を用いて、その覚悟を告白しています。

 

しかし、やはりどうしても近代現代の人々は、自我欲求の満足、自己実現、立身出世、そして承認欲求・・・のために、と、すべての価値が「主観化の原理」によって、「自我哲学」によって貫かれ、支配されているように見えます。そうした現実の中で「盗むな」と説き、ましてや「自己否定媒介」による「他者愛」の精神を生きることは不可能に近く、とても困難なことです。それどころか、理解さえできない、と言えましょう。理解しがたい、あり得ないことに、いよいよ思えてきます。これは、実に大きな壁であり、下手をすれば、却ってこちらの方が、別の意味で、空想や幻想であるとして、嘲笑されてしまうのではないでしょうか。場合によっては、そうした言動は、偽善かつ虚偽と見なされてしまいそうです。しかし、熊野先生の教えからすれば、だからこそ、世界や人類という水準では果たせない、「預言者」としての「批判的使命」が「教会」には委ねられている、と言えます。なぜなら、教会の本質は「天」にあるからです。そして私たちの国籍も天にあるからです。繰り返し申しますが、この被造世界にではなくて、教会は、「天」に向かって、神に選ばれ召し集められた民の共同体であり、「キリストの身体」として世に現存する教会であればこそ、世界に向かって、教会は「盗むな」と「語る」ことができるのです。「したがってわれわれの自覚は人格の自律ではなく罪責の認識(Sich-Schuldig-wissen)でなければならぬ。」ということになるのではないでしょうか。上から下に対して命令するようにではなく、愛と謙遜をもって、下から上に向かって世に仕えて、人々に奉仕し、そして隣人のために誠実に働き、励むのです。このことは、次回の説教でもう少し丁寧に触れたいと思いますが、こうした大きな壁への挑戦において、できないことをできる、と去勢を張って言っているのではありません。むしろだからこそ、却って、神を恐れ(畏れ)、なしうる謙遜をもって、向き合い立ち向かうのであります。

 

私たち自身のこの時代に対する、信仰によるチャレンジについての議論は、もう少し丁寧に、次回の問答から扱いますが、ここでは先ず、その前に、聖書から学び直しておきたいと思います。使徒パウロは、愛弟子テモテに手紙を書き送り、こう諭しています。「6:7 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ世を去るときは何も持って行くことができないからです。6:8 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。6:9 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が人を滅亡と破滅に陥れます。6:10 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。6:11 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義信心信仰忍耐柔和を追い求めなさい。6:12 信仰の戦いを立派に戦い抜き永遠の命を手に入れなさい命を得るためにあなたは神から召され多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。6:13 万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。6:14 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく非難されないように、この掟を守りなさい。」(Ⅱテモテ6:7~14)文面からは、実に温かく労り、愛情豊かに説諭するパウロの心が滲み出て来ます。しかし同時に絶対に信仰からは妥協しない、という厳しい使徒としての姿勢がここには貫かれています。「おちどなく、批判されないように、この掟を守りなさい」というのが、弟子への命令です。

パウロはテモテに二つのことを教えます。一つは、欲により罪によって引き起こされる滅びです。「その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます」と教えていました。「何も持たずに世に生まれ世を去るときは何も持って行くことができない」とも説いていました。わたくしはこれ以上に勝る、人生をわきまえ知る「分別」はほかにはない、と思います。人生最大の学びとは、世に生まれた以上は、「世を去る」意味と目的を深く考え知る、できればそれを豊かに味わう、ということではないでしょうか。しかもこの世では最後に一切を失い、無となって去る「死と滅び」の人生の意味を、そしてその後に控える最後の審判を、深く弁えることです。もう一つは、神の愛と神への信仰による「永遠の命」です。これが聖書のメッセージの中核です。「6:12 信仰の戦いを立派に戦い抜き永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」と確信、確証に満ちた言葉で、告げます。おそらくこれを読んだテモテは、どれほど大きな希望と励ましを得たことでしょうか。ここには、まさに「みことばの力」、「励まし」が溢れています。パウロは、若く未熟なテモテに、「滅び」に至る道を捨てる勇気を教え、同時にまた「命」に至る道に生きる希望と誇りを教えたのです。だからこそ、謙遜に「正義信心信仰忍耐柔和を追い求めなさい。」と勧めるのです。怯むことなく、臆することなく、愛と信仰の道を生きるのであります。

若いテモテにとっては、どれほど世界の壁、しかも大きな罪と滅びに支配された世界との宣教の闘いは、大きな壁であったでしょうか。それは現代に生きる私たちも同じであります。何も変わりません。この大きな壁の前で、パウロは愛弟子と共に立って、神への大きな信頼と希望をもって、立ち向かうのです。そしてすぐにパウロは、ローマで処刑され、殉教してゆくことになります。

2021年1月17日「まことの愛による家庭の平安」 磯部理一郎 牧師

2021.1.17 小金井西ノ台教会 公現後第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答108~109

十戒について(6)

 

問108 (司式者)

「第七戒(『姦淫してはならない』)は、何を言い表すか。」

答え  (会衆)

「淫らなことはすべて、神によって弾劾されます。それゆえ、私たちは不貞不倫を心から憎悪します。

聖なる結婚生活においても、また結婚以外の生活においても、慎み深く純真な生活をしなさい、

ということです。」

 

 

問109 (司式者)

「この戒めにおいて、不倫不貞やそうした醜態のほかに、もはや神は禁じないのか。」

答え  (会衆)

「私たちの肉体と精神とは、二つともに、聖霊の宮です。

それゆえ、神が望まれることは、

私たちが、この二つを汚れなく神聖なものとして、保ち続けることです。

したがって、神は、あらゆる汚れた行為、態度、言葉、考え、欲望を、

また人間を汚れへと唆すものは皆すべて、禁じるのです。」

 

2021.1.17 小金井西ノ台教会 公現後第2主日

ハイデルベルク信仰問答講解説教50(問答108~109)

説教 「まことの愛による家庭の平安」

聖書 申命記5章17~21節

マタイによる福音書5章27~32節

 

本日は、律法の十戒、その第七戒『姦淫してはならない』について、ハイデルベルク信仰問答より、みことばの解き明かしをいただきます。わたしたちは今、罪の破れと絶望の中で、神の戒めに向き合おうとしているのではありません。或いは、絶望と破れ、疑心暗鬼と闇の中で、神の戒めを聴くのでもありません。そうではなく、私たちは今、福音の豊かな響きの中で、希望と信頼に溢れて、神の愛と救いのみことばとして、戒めを聴くのであります。私たちは今、罪赦された喜びと復活とうい新しい命に溢れる中で、新しい希望と使命を受けて、神のみことばを聴くのであります。それは「律法から福音に至る」道を経て、今まさに「福音」の中にあって、「福音から新しい律法へと向かう」道のただ中に立っているのであります。そうした福音による希望と喜びの中で、本日も、第七の戒め「姦淫してはならない」を聴くのであります。ここに、本日のみことばを聴く、決定的な前提があります。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問答108で「第七戒(『姦淫してはならない』)は、何を言い表すか。」と問い、「淫らなことはすべて神によって弾劾されます。それゆえ、私たちは不貞不倫を心から憎悪します。聖なる結婚生活においても、また結婚以外の生活においても、慎み深く純真な生活をしなさい、ということです。」と教えます。この問答108の答えで「淫らなことはすべて、神によって弾劾されます。」とありますように、まず自分の心を神さまに向けて、神の御前で、信仰的決断が迫られ、神との深い対話の中から、神への応答が導き出されます。つまり私たちは、まず神の激しい弾劾と断罪の前に、立たされます。

この「(神によって)弾劾されます」と訳した字(vermaledeiet:verfluchen)は、本来の意味は「呪う、呪詛する」という字です。竹森先生はその通りに「神に呪われている」とお訳しになっておられます。本当はそう訳すべきですが、わたしは怖くなってしまい「神に呪われている」とは訳し切れず、現代風に「断罪される」とか「弾劾される」と訳してしまいました。英訳でも古い字のaccursed という字で訳されており、「呪われた」という意味です。現代風には「告発される」という訳になるのでしょうか。用語の用い方からすれば、些細なことと思われますが、信仰をつくる筋から申しますと、とても大事な、信仰の基礎となるところです。

そこで少しこだわりをもって触れておきたい点が一つ、あります。それはこの信仰問答の「答え方、応答の仕方」であります。まさに、信仰とは、私たちの真実で誠実な心が神に向かうとき、初めてみことばが聞こえて来て、意味が分かり、そして決断が生まれ、神への応答という信仰生活が始まります。そして何よりも、みことばの向こう側には、神が厳かに現臨しておられるのです。信仰問答も同じでありまして、神のみことばによる「問い」に、心を誠実に向けて問いに「答える」という応答の形で、決断が迫られ神への応答となります。それが、信仰問答の「答え」となっています。まずその「答え方」に注目しましょう。問答の答えでは、いつもそうなのですが、まず、神がどのようにお考えなのか、明らかにされます。そしてそれから、わたしたちの応答としての信仰告白が言い表されます。つまり問答によって、私たちは、まず神の呪い、神の断罪と弾劾告発の前に立たされます。その神の呪いと厳しい弾劾告発の前に立ち尽くした所で、神の呪いと断罪を恐れて、「それゆえ」と今度は自分の「決断」と「応答」が迫られ、改めて信仰による応答として、私たちの信仰生活は引き起こされ、はじめらます。つまり神さまからの問いの中で、いつも私たちは「神の呪い」と向き合うことになる、というのであります。実はこの「呪われる」という字は、かつては「ニケア信条」の中でも用いられました。信仰を正しく言い表すことのできない者たちに向けて、「呪われよ」と宣言したのです。「信仰告白」は同時にまた「神の呪詛宣言」でもあったのです。今の教会では用いられてはいませんが、ハイデルベルク信仰問答も、そうした古い教会の態度を受け継いでいるようみ見えます。「神の呪い」というべき神の厳格な弾劾と告発の前に、私たち教会もそして人類もまた、いつも立たされ、決断と応答が求められているのであります。正しく信仰を言い表し、相応しく神に応答することで、神の呪詛から解放されるのですが、信仰を正しく言い表すことができなければ、相応しい応答ができなければ、神の呪詛の中に立ち続けることになります。そして思私たちが、慮を尽くした果てに、下した決断と応答を通して、神は新たな命の息吹を私たちの内に吹き入れようとなさっておられるのではないか、と思います。私たち人間は、ここで尊厳ある「人格」として、神の問いの前に立つのです。言い換えれば、神は「裁き主」として、同時にまた人間を心から信頼し尊重する「愛と信頼の神」として、親が子を思うように、みことばを通して「問い」の向こうに立っておられるのではないでしょうか。ハイデルベルク信仰問答も、したがって、そのように、私たちも厳しい「神の呪い」の前に立ち、人としての「人格の尊厳」を尽くして決断し、神への信仰をもって応答する。そうしたかかわりの中で、私たちの魂は、新しい神との人格関係に養われ、永遠の命と未来へと踏み出してゆくことになるのではないか、と想像できるのではないでしょうか。

 

本文の「それゆえ」(darum)という用語は、そうした経過敬意を伝えるものであります。実を言いますと、「それゆえに」と訳しましたが、直訳しますと「その神の呪いを避けて」とも訳すことができます。神の呪いの前で、私たちが誠実を尽くして決断し応答する。「その(神から呪われている)ことをめぐり」或いは「そのことを避けるために」決断と応答が迫られ、つまり神の呪いを避ける決断と応答により、その結果「それゆえ、私たちは不貞不倫を心から憎悪します。」という告白となり、「聖なる結婚生活においても、また結婚以外の生活においても、慎み深く純真な生活をしなさい」という覚悟に至ります。このように、意味深い点は、人間のあるべき形を説く「倫理」は、実は意味深いことに、「神の呪いを避ける」という深い人格的決断から生じています。「神によって弾劾告発され、呪われている」という所から、人格としての決断や応答が迫られ、新しい信仰的応答が生まれ、生きるべき倫理的道筋が構成される、というような考え方は、倫理の生まれ方としては、現代的な考え方からすれば、きっと厳しい批判に晒されることと思います。現代社会において今もなお「神の呪い」なのか、と場合によっては嘲笑されるかも知れません。しかし他方で、こうした人間の心の奥深い所で、神と人間との関係性が根源的な「原理」として現れているようにも思えるのです。理屈を超えた奥深い魂における「恐れ」であり、「畏れ」であります。

 

「淫らなこと」と訳していますが、一般的に言えば一夫一婦制を前提にした「性」的な不貞と不倫を意味するものと思われます。いわば「性」sexの乱れを意味する言葉である、と考えてよいと思います。ある意味では、「性」の領域は、所謂「理性」や「理屈」を超える、人間の生物としての最も奥深い行動原理を支配する領域でもあります。礼拝の説教としては、余談に聞こえるかもしれませんが、脳の領域で言いますと、前頭葉のように比較的新しい進化によって獲得された「理性的な知的領域」と異なり、「情動」反応を支配する大脳辺縁系よりもさらに奥深く、最も古く奥深い脳の層と密接に関与する領域と言えます。進化論では、人類進化の原理となる領域でもあります。進化の歴史において、多くの生物との比較において、人間が人類として命を繋ぐ意味から、性の選択的決断こそ決定的な意味を持つ、考えられています。そうした過程で、生存競争原理の中で、性の選択的決断のひとつとして婚姻制度も論じられます。しかし問題は、人類の長い体験的学習から、「神による呪いを避ける」という奥深い魂の決断原理がそこには働いていた、と理解することもできます。男女のスペクトラムをめぐるジェンダの問題も含めて、性や結婚の在り方をめぐり、上から下へ投げ下ろすように、その絶対値を形式的に決定づけることは、非常に困難なことであり不可能であって、いつも相対的で多様な判断が余儀なくされるものであります。

ハイデルベルク信仰問答の意味深い所は、決して最初から、いわば依って立つ出発点を、つまり性の乱れについて論ずる原点を、単に一定の時代や社会制度による規範に依存せずに、徹底して常に「神の呪い」と弾劾告発の前に立ち尽くす、という所から始めようとしている所にあります。つまり決して形式的に、また人間の自我欲求から出発するのでもなく、ましてや一定の時代や社会の制度慣習を絶対化するのではなくて、「神の呪いをめぐって」を性の選択的決断に対する規範原理とする点です。少なくとも自分自身の「性」をめぐり、選択的決断の基本原理を判断するうえで、私自身としての立つべき基本原理は、まさにこの「神の呪い」を畏れ(恐れ)回避する所にあると考えています。既存の社会制度を形式的に規範原理とすることはできないのです。聖書の中でも、アブラハムの子孫繁栄の祝福をめぐりサライ(サラ)とハガルは深刻な苦悩を分かち合い(創世記16章)、終末を予期したパウロの独身主義に至るまで、時代や状況において、非常に多様であります。神の呪いを回避する、言い換えれば、どうすれば「神の御心」に適い、「神の祝福」を受けられるのか、という「神の呪い(祝福)」原理から、すべてを展開させようとしているように見えます。ですからハイデルベルク信仰問答も、神の呪いを回避するという原理から、つまり神の祝福を受けることができなくなるような、不貞不倫を憎悪する、と告白しているのではないか、と思われます。原典の文章表現からすれば、ドイツ語のよくある些細な用法ですが、その意味する所からすれば、とても意味深い原理を窺い知ることができるのではないかと思います。

 

さて、神の呪いを避けて神の祝福に至る道筋という原理に基づいて、神の前で下す決断と応答でありますが、問答108はその答えで「聖なる結婚生活においても、また結婚以外の生活においても、慎み深く純真な生活をしなさい」と答えています。ここで注目したいのは「聖なる結婚生活」と言い、「慎み深く純真な生活をする」と言い切っています。問題は、何をもって「聖なる結婚」となし、「純真無垢な生活をする」とする根拠は何か、という点です。結婚制度があるから、結婚していれば、その男女はそのまま「神聖」となるのか。結婚制度に守られているので純真無垢と言えるのか、改めて疑念が生じます。人間が作る制度や形式も大事ですが、それ以上に、私たちが心を目を向けるべきことは、神さまによって聖とされる「神聖さ」であり、神さまからいただく「純真無垢」にあるのではないでしょうか。私たち自身が、純真無垢なのではないのです。ましてや、私たち自身が神聖であるはずがないのです。ではなぜ、「聖なる結婚生活」と言ったのでしょうか。ではなぜ、「慎み深く純真な生活をする」などと言えるのでしょうか。

その決定的な答えが、問答109です。問答109は「この戒めにおいて、不倫不貞やそうした醜態のほかに、もはや神は禁じないのか。」と問い、「私たちの肉体と精神とは二つともに聖霊の宮です。それゆえ、神が望まれることは、私たちが、この二つを汚れなく神聖なものとして保ち続けることです。したがって、神は、あらゆる汚れた行為、態度、言葉、考え、欲望を、また人間を汚れへと唆すものは皆すべて、禁じるのです。」と告白します。問答を告白する者は、誰でも、その命と体の内に、即ち私たちの肉体と魂とのうちに、「聖霊」を宿しており、私たちの身体そのものが、そのまま即、厳粛な「聖霊を宿した聖霊の神殿」である、と宣言しています。つまり、結婚生活が「神聖」とされるのも、また私たちが「慎み深く純真な」生活をすることができるのも、実は神が、私たちの身体そのものを「聖霊の神殿」となさったからだ、というのであります。だからこそ「聖」であり、だからこそ汚すことは直ちに呪われることを意味するのではないでしょうか。性sexの生活そのものよりも、性を担う人間本体、その魂と肉体そのものが神の賜物であり、聖霊の宮であることに、目を向けています。さらに言えば、神の決定的な関与であり、神の生きた現臨がそこにあるからであります。

 

ここで改めて、私たちの肉体と精神が、すなわち身体が問題となります。神の御子イエス・キリストは、私たちと全く同じ魂と肉体を受けて受肉し、その受肉の身体と精神とをもって十字架にかかり、復活し、天に昇られました。その「キリストの身体」が大きな意味を持ってきます。「教会」はキリストをかしらとする「キリストの身体」であります。教会とは神によって召し集められた私たちひとりひとりであり、私たちひとりひとりの身体こそ、キリストをかしらとする「キリストの身体」でもあります。キリストは、その私たちの肉体と魂をご自身の人間本性として背負い、そのご自身の肉と血とによって罪を完全に償い、贖い、復活して、天に昇り、父の右に座しておられます。そのキリストの身体こそ、私たちの身体の「本体」であります。キリストの身体の肢体(えだ)とは、そういうことでありましょう。そこには、キリストの霊である聖霊が満ち満ちています。キリストの身体には、復活による永遠の命と聖霊とが満ち満ちており、わたしたちは日々、みことばである説教と聖餐(ミュステリオン:秘儀、カトリックでは「秘跡」東方では「機密」・プロテスタントでは「聖礼典」の一つ)を通して、その霊と体をわが身体としていただき、肉体も魂もそのみことばによって養われいます。このことにこそ、決定的で重大な意味があります。いわば「キリストの身体」であることを前提にして、それを根拠根源として、私たちは、初めて「神の呪い」とその厳しい弾劾告発を回避することができるのです。それどころか、ただ回避するのではなくて、神の御子イエス・キリストの身体そのものの内に、新たに生まれ変わり、新しい血と肉そして聖霊によって永遠の命へと養われるという現実のもとに、生かされ生きています。したがって「結婚」も、このキリストの身体としての営みの中での結婚であり、キリストの身体の中に設けられた家庭であり家族であります。そうした意味から、社会制度としての結婚ではなく、カトリック教会、東方教会、聖公会も「キリストの身体」における「結婚」を「聖礼典」(ミュステリオン「神の秘められた救いと完成のご計画」の秘儀)の一つとして堅持するのではないでしょうか。プロテスタントでは「結婚」をサクラメント(ミュステリオン:聖礼典)に数えませんが、数えなくても「キリストの身体」としての新しい命の営みであることに、違いはありません。神は、呪うどころか、神はその独り子を私たちの罪の償いと新しい永遠の命のために与えてくださいました。その御子のお身体を私たち今着て纏っているのです。洗礼も聖餐も共に、御子のお身体を着ること、御子のお身体に養われることですが、「性」sexをめぐる生活も含めて結婚生活の一切が、全く同じように、御子のお体を着て御子の贖罪と復活のお身体に養われる営みなのです。だからこそ、「神聖な神の神殿」と呼べるのであります。慎み深く純真な生活となるのは、キリストの裂かれた肉と流された血のゆえであり、聖霊によって新たに生まれ創造されてゆくからであります。もし仮りに私たち人間の側から答えられるとすれば、或いは答えるべきことは、ただその身体を感謝と喜びをもって大事にする、ということに尽きるのではないでしょうか。何か特別に立派なことや清い生活をすることではなくて、日々精一杯「キリストの身体」とその養いを大切にすること、すなわち教会員としての信仰生活をまず大事にする、ということになるのではないでしょうか。主の日における神の礼拝を怠らずにみことばに与り続ける、キリストの身体として生き養われることです。すでに問答103で学びましたように、「わたしが、熱心に神の教会に通い神のみことばを学び聖礼典にあずかり、神に憐れみを公に祈り求めキリストの教えに基づいて施しをすることです。次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始める」ということに尽きるのではないでしょうか。

 

本日の説教題を「まことの愛による結婚生活の平安」といたしました。結婚生活で最も重要なことは「愛」であり「平和」であります。神よりいただく真の愛と真の平安であります。そこでさらに大切なことは、夫婦が互いに結婚する前に、其々が共に、神の御子キリストの十字架と復活のもとで、キリストの身体として結ばれている、という点にあります。キリストの名によって教会で結婚式を挙げる、ということはそういうことであります。カトリックでは結婚式でも葬儀でも必ず「聖餐」が執行されまが、それは「キリストの身体」として養われる営みの中に結婚も死もあることを示すことであり、決して否定すべきことではないと考えられます。家庭にこどもが生まれるとは、キリストの子として其々の家庭が「神の家族」として生まれることです。いわば、その家庭は、キリストの家族であり、キリストの家庭として、キリストの身体としての永遠の生の営みを始めることを意味します。だからこそ、永遠の愛を信じ永遠の平和を祈り求めることができるのであります。わが子可愛いとする思いを遥かに超え、好きで惚れた情愛を遥かに超えて、キリストの家族として、キリストの愛をもって互いに愛し、キリストの平和をもって、互いに平和な家庭を担うのであります。それがキリストの身体としての家庭であり、結婚であります。

 

第七戒をめぐり、ハイデルベルク信仰問答から三つのことを学ぶことができます。特に問答104で「私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれる」と教えられました。神さまの御心は、所謂「他者」が、自分の前に自分の「隣人」として差し出されることで、明らかに、自分以外の人格の尊重を通して、神の真理、神の愛、神の義を深く学び、そればかりか、神の似像として自分の人格を豊かにそして確かに成長させてくださる、ということがよく分かります。父や母、兄弟、そしてわが子、夫や妻というさまざまな人格と触れ、共に生きることを通して、人間であることの尊厳と真価をいよいよ深く知り、学ぶ。試行錯誤を繰り返しながらも、その意義を一層豊かに噛みしめるものです。自己中心で他者を自我欲求や自己実現のための道具として利用する、という考え方を捨てて、他者を愛し他者のために仕え働く、という愛を学ぶことを、人格の尊さとして、神は私たちに教えられます。

前回ご紹介した熊野義孝先生は、わたしたち人間の近代現代社会における誤った考え方、そうした近代主義の特徴は「主観化の原理」にある、と論じています。すべての精神、文化、社会の活動を「自我の自由な人格性の展開のための手段とみなす哲学」にある、と指摘します。熊野先生はこうした近代の哲学を「自我哲学」と総括し、近代のキリスト教信仰さえも、この「主観化の原理」、或いは「自学哲学の領域内」に見出そうとする点に、大きな誤りがある、と指摘されておられます(「教会と文化」338頁)。キリスト教会とキリスト教信仰の根本課題は、いかにかして、この「主観化の原理」「自我哲学」から解放されることにあります。それはまさに直ちに、まず私たち「教会」自身から、「キリストの受肉体」としての身体を回復することではないでしょうか。自らの身体をもって、愛の身体、贖罪の身体、そして復活という永遠の命に溢れたキリストの身体であることを想起することにあります。この「キリストの受肉の身体」である教会をもって、世に対する贖罪と復活の場とするのであります。そこに「愛の秩序」を獲得する場が生まれるのではないでしょうか。

「父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」とは、まさに、神が自分のために差し出し給う隣人として他者と出会うことであり、神より賜る隣人として他者を愛し、他者のために仕えることで、初めて愛することを学び始めることができます。しかし、さらに大切なことは、ただ自分が他者を愛することを学ぶのではなくて、「他者から愛される」という現実も、学ぶことができるのです。自分が他者のために仕えることと同時に、他者こそが自分のために仕え働いてくれることを、そして何よりも、他者の罪を赦すこと以上に、どれほど他者によって自分の罪が償われ、贖われ、赦されているかを、深く学ぶのであります。言い換えれば、ひとりのキリストの身体の肢体としての尊さ豊かさを、贖罪と復活の喜びを、霊肉共において学ぶのであります。そうしてついに、他者を愛すべき隣人として深く感謝して、認め、受け入れ、信頼することを学ぶのであります。こうして問答109の教える通り「私たちの肉体と精神とは二つともに聖霊の宮です。それゆえ、神が望まれることは、私たちが、この二つを汚れなく神聖なものとして、保ち続ける」のです。私たちは、この義を、いよいよ深め、確かにするのであります。

2021年1月10日「隣人を愛せ」 磯部理一郎 牧師

2021.1.10 小金井西ノ台教会 公現後第1主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答105~107

十戒について(5)

 

 

問105 (司式者)

「第六戒(『殺してはならない』)において、神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「わたしは、わたしの隣人を、思想によりまた言葉や態度により、

ましてや行為により、わたし自身からも他者を通しても

辱め、憎み、侮り、殺してはならない、ということです。

むしろ、わたしは、あらゆる復讐心を捨て去り、自分自身を傷つけず、

自ら思い上がって危険を冒してはならない、ということです。

それゆえ、官憲は殺人を防ぐため剣(つるぎ)を携えています。」

 

 

問106 (司式者)

「では、この戒め(『殺してはならない』)は、ただ殺人についてだけ、語るのか。」

答え  (会衆)

「殺人の禁止を通して、神が私たちに教えようとされることは、

神は、殺人の根元となる妬み・憎しみ・怒り・復讐心を嫌い、

そうしたことはすべて、神の御前で隠れた殺人となる、ということです。」

 

 

問107 (司式者)

「だが、そう言われるように、私たちが自分の隣人を殺さないことだけで、果たして十分なのか。」

答え  (会衆)

「いいえ。第六戒で、神は、妬みと怒りに対して、死刑の宣告をしています。

それゆえ、神が私たちに望まれることは、

私たちが自分の隣人を自分自身のように愛し、

隣人に、忍耐・平和・柔和・慈悲・親愛を示し、

隣人に及ぶ損害を可能な限り防ぎ、私たちの敵にさえも、善行を尽くすことです。」

 

 

2021.1.10 小金井西ノ台教会 公現後第1主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教49(問答105~107)

説教 「隣人を愛せ」

聖書 出エジプト記20章13~17節

マタイによる福音書5章21~26節

 

私たちは今、キリストのもとで、新しい出会いを経験しています。その新しい出会い方とは、仲保者、主イエス・キリストの受肉において、しかもその十字架と復活による贖罪と新しい永遠の命のもとで、改めて新たに父と母とに出会い、同じように、主イエス・キリストによる贖罪と命において、その福音の光の中で、新たに隣人とも、私たちは出会います。この新しい出会いは、共に「主の贖い」の中に招き入れられ、新しい希望と喜びそして完成への期待と信頼に溢れています。前回の説教で学びましたように、ハイデルベルク信仰問答104は「第五戒(『あなたの父母(ちちはは)を敬え。』)において、神は何を望まれるのか。」と問い、「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つすべての人々に対して、わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従い、彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです。なぜなら、私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるからです。」と告白しています。統べ治められる、とありますように、神の新しい統治による、すなわち神の国における、父母との、また隣人との新しい出会いであります。既に主イエスにおいて、罪赦された者同士が共に集い出会い、共に復活という永遠の命に満たされて、新しい希望と期待に生きる。そうした福音という新しい創造の中で、父母と出会い、隣人と出会い、そして世界と、私たちは出会っているのであります。

 

本日は第六戒「殺してはならない」について、ハイデルベルク信仰問答より解き明かしを受けますが、その第六戒について、問答105は「第六戒(『殺してはならない』)において、神は何を望まれるのか。」と問い、「わたしは、わたしの隣人を、思想によりまた言葉や態度により、ましてや行為により、わたし自身からも他者を通しても、辱め憎み侮り殺してはならない、ということです。むしろ、わたしは、あらゆる復讐心を捨て去り、自分自身を傷つけず、自ら思い上がって危険を冒してはならない、ということです。それゆえ、官憲は殺人を防ぐため剣(つるぎ)を携えています。」と告白します。人間の悲惨がどこにあるか、と問えば、やはり人を愛し、人を受け入れることができない、という所にあるのではないでしょうか。人間の悲惨を生み出す具体的な場が、問答の告白する通り、「辱め、憎み、侮り、殺す」ということにあります。

 

こうした行為で、共通する重要な問題は、「人格」としての尊厳や尊さを根本から見失ってしまうことにあります。人間存在の人格としての尊厳とは何か、と言いますと、創世記1章26節以下によれば「1:26 神は言われた。「我々にかたどり我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とありますように、人間の人格としての尊厳は「神の像」としての尊厳です。目に見えない神の存在が、目に見えるようにと人間を創造された、と言っても過言ではないでありましょう。また創世記2章7節によれば「2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と述べて、神の命の息そのものを吹き入れられているところに、命の源があることが証言されています。人の人格としての尊厳とは、神の息による命にあります。最も神に近く、最も神の尊厳と命を湛える存在が、わたくしたち人間存在であります。だからこそ、人格を凌辱したり、憎悪したり、侮辱したり、ましてや、その人格を否定するばかりか、神の息そのものである命を奪い取って殺してしまうことは、決して神は許しません。人間は誰であろうと、神さまの人格そのものを、また神のさまのお命をかたどって創造され、まさに神の存在を世に代わって神の御心を映すべき存在として、人間は世に生まれたはずです。そればかりか、世界に満ち満ちる生き物全体を管理統治する、という世界に対してとても重いしかもとても栄光と権威ある責任を担っています。

 

世界の統治と管理を担う人間が堕落すれば、世界の秩序は壊れ傷ついて、世界は痛みと悲しみに苦悩することになります。欲望に唆されて、神に背き、罪に堕落した人類の最初の子であるカインは、神さまの忠告を無視して、妬みと怒りの余り、兄弟アベルを殺して、アベルの命を奪ってしまいました。兄カインは、弟アベルの祝福を認め、受け入れ、共に喜ぶことができなかったのです。弟アベルの中に、神の息吹が溢れていることを認めることができませんでした。人間が世に生まれた以上は、誰にも皆、一つの例外もなく、神の命の息吹が漲り溢れています。ひとりひとりの中に、神が直接吹き入れられた命の息吹の尊厳を認めることができない、ということは、神を認めることができないことを意味します。神に背き、罪に堕落した人間は、実は既に心の中で、神を殺してしまっていたのではないでしょうか。神を殺してしまった者が、どうして、人間の中に神の息吹を認めて、その尊厳を敬愛することができるでしょうか。こうして、神への背き、率直に言えば、人間による神殺しは、具体的にこの世では、人殺しとなって、展開するのであります。ましてや、神を信じる者が人を殺す、などということは決してあってはならないことであります。宗教を理由に、信仰を理由に、人が人を殺すということは、決して許されないのであります。わたくしたちキリスト教徒の間でも、歴史の事実として、とても悲しいことですが、殺し合いが幾度も行われたことがありました。決して許されることではないし、そこには何ら弁明の余地はありません。しかし日常において、今もなお、殺人が絶えないことも、否めない事実であります。戦争もなくなりません。それどころか、戦争のために巨額な投資がなされているのも、現実であります。何と、人間は惨めで悲惨なのでしょうか。進化発展と言いながら、人殺しを決して止められないのです。これほどの知恵や知識をもちながら、人間の根源から愛することができないのです。その中心は、自分中心であり、自我欲求を生の基本原理としてしまった点にあります。しかし神は、隣人を愛するという戒めを通して、反対から言えば、殺してはならない、という戒めることで、人の中に尊厳の回復を求めておられるのではないでしょうか。キリストによる福音とは、罪が償われて、新しい命の尊厳を回復することにあります。この福音の上に堅く立つとき、私たちの中に、新しい行動変容が生まれて来るはずです。福音に堅く立つことに生涯を尽くし、福音のもとに生きようと、常に私たち自身の行動を吟味して愛に生きることが求められます。

 

問答105で「それゆえ、官憲は殺人を防ぐため剣(つるぎ)を携えています。」と付け加えられています。現実の国家制度の中で、官憲は殺すためにではなく「殺人防止」のために、人民を守るために、剣を携える、というわけです。近代国家の大半は、国家による殺人となる死刑制度を廃止しています。アメリカではおおよそ半分の州が、そして日本も死刑制度を国家の威信をかけて死刑制度を存続させています。そうでないと、重大な犯罪が増加する、と考えるからでありましょうか。大きな矛盾ではないかと思います。一方で殺してならない、と言い、もう一方では、殺すのです。どうすればよいのでしょうか。一つは、徹底した「人格としての教育」にあります。人格の尊厳をどうすれば尊重することができるのか、その尊さと道筋を丁寧に教えること、そして共に深く学び合うことにあります。理想論かも知れませんが、試行錯誤を繰り返しつつも、それに徹底する他に道はないように思います。日本の教育基本法が、その目的として、「人格の完成」を掲げていますが、その意義は計り知れない、と思います。人格としての完成を祈り求めること以外に、人類が救われる道はないのです。

 

このように、「殺してはならない」という戒めをめぐり、では、ただ殺さなければよいのか、という課題が生まれます。ハイデルベルク信仰問答106は、「では、この戒め(『殺してはならない』)は、ただ殺人についてだけ、語るのか。」と問い直します。そして、「殺人の禁止を通して、神が私たちに教えようとされることは、神は、殺人の根元となる妬み・憎しみ・怒り・復讐心を嫌い、そうしたことはすべて、神の御前で隠れた殺人となる、ということです。」と教えています。「神は、殺人の根元となる妬み・憎しみ・怒り・復讐心を嫌い、そうしたことはすべて、神の御前で隠れた殺人となる」と言い切っています。殺人の根元に、妬みと憎しみ、そして怒りと復讐心がある、と教えています。しかもこうした思いはすべて、密かなる殺人そのものである、と説いています。つまりハイデルベルク信仰問答は、殺人をさらに魂のレベル、人間の心の中の問題としてさらに深く取り扱おうとしているのです。先ほど紹介した創世記4章に、兄カインが弟アベルを殺す場面が登場します。人類最初の殺人事件がどのように引き起こされたか、その隠れた殺人のレベルについて聖書はこう記しています。「4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、4:5 カインとその献げ物には目を留められなかったカインは激しく怒って顔を伏せた。4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのかどうして顔を伏せるのか。4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求めるお前はそれを支配せねばならない。」4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」(創世記4:4~8)。意味深い点は、兄カインの怒りに対して、主なる神は、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と明確に、密かな隠された殺人を予見して、カインに対して、みことばを発して、カインの人格の中枢である魂尊に対して、人間としての尊厳と自由を根源から、問いかけている場面です。殺人という表面化する行為の前に、奥深く隠された魂による殺人をどのように防ぎ、また回避するか。それは、まさに人格の中枢である魂において、人格の根源から人間として尊厳と自由に覚醒することによる他に、道はないのであります。神はその人格の尊厳の回復をカインに求め、それによって殺人を回避し防ごうとしたのではないでしょうか。まさに「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」のです。ここには、人間の人格に対する神の強い信頼と希望が溢れています。神はご自分の像に似せて人間を創造し、しかもご自分の本質を意味する命の霊を鼻の中に吹き入れて、人間を生きた者となさいました。その神の像であり、神の命の霊である人間に深い信頼と尊重をもって、どうであれ、自立した自由な人格としての秩序ある決断を求めたのであります。残念ながら、カインは弟アベルの殺人を選択したのです。もはやそこでは人間の尊厳も自由もそして義も完全に破壊喪失していたのです。この人格的破壊と自由と尊厳、そして神の義の喪失を、後に神は御子キリストの十字架と復活を通して、贖罪し回復するのであります。わたしたちは、そのキリストの回復された新しい人間性のもとに生まれかわり、新しい創造の中に招かれており、神は永遠の力と愛とをもって、私たちひとりひとりの人格を完成へ今は導こうとしておられるのであります。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問107でさらに「だが、そう言われるように、私たちが自分の隣人を殺さないことだけで、果たして十分なのか。」と問い続けます。当然、殺してはならないのですが、具体的に殺人を犯さなくても、或いは殺人者でなければ、それで十分なのか、と改めて、殺人を心の中の問題として、魂のレベルで執拗に問い続けています。そして「いいえ。第六戒で、神は、妬みと怒りに対して、死刑の宣告をしています。それゆえ、神が私たちに望まれることは、私たちが自分の隣人を自分自身のように愛し、隣人に、忍耐・平和・柔和・慈悲・親愛を示し、隣人に及ぶ損害を可能な限り防ぎ、私たちの敵にさえも、善行を尽くすことです。」と教えて、問答は、愛による善行へと導きます。ここで最も大切なことは、「愛」です。厳密に言えば、「愛の秩序」です。実は、熊野義孝先生は、教会を教会たらしめているのは「愛の秩序」である、と説いています。「不断に『愛の秩序』による謙遜と勇気にあって醇なる信仰告白の継承者たることを務めねばならぬ」(『熊野義孝全集』9「教会と文化」356頁)と、「愛の秩序」の意義を力説しておられます。教会を教会たらしめているとは、言い換えれば、わたくしたちキリスト者の存在を本質において決定づけているのは、「愛の秩序」である、ということになります。教会が教会として働き始める場、それは愛の秩序が働く場であり、私たちひとりひとりが、キリスト者として生まれ出る場、それが、愛の秩序が働く場である、というのであります。そしてその「愛の秩序」を根底から導くものが、「信仰告白」であり、謙遜と勇気をもってその継承者たることを求めておられます。熊野先生は、その直前で、この愛の秩序の中核を構成するものこそ、神の「受肉」であることを明らかにしておられます。つまり、私たちひとりひとりの命のただ中に、キリストの受肉がある、というわけです。それを謙遜にそして勇気をもって信頼し期待し認めるのであります。

パウロは「キリストを着る」と言いました。この「着る」(エンデゥオー)とは、「着る、包む、纏う、身に着ける」という字です。口語訳聖書で紹介しますと、その典型例は、「ガラテヤ3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」とパウロは言っています。また同じように「1Co 15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。死は勝利にのみ込まれた。」とも言っています。つまり「死と滅び」に運命づけられた人間本性が、「永遠の命」を纏った人間本性に変えられた、それは、キリストを着たことによる、ということになります。エフェソ書では「Eph 4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」と述べ、神にかたどって造られた新しい人を身に着けた私たちの姿が宣言されています。だからこそ、ついに「Col 3:12 あなたがたは神に選ばれ聖なる者とされ愛されているのですから、憐れみの心慈愛謙遜柔和寛容身に着けなさい。」とも語っています。キリストの受肉の身体と全く同じ一体の身体として、神に育てられ成長していくのです。神の愛による成長と育成のただ中に、私たちは生まれ、今そのただ中に生きているのです。だからこそ、熊野先生は、それを「不断に「愛の秩序」による謙遜と勇気にあって醇なる信仰告白の継承者たる」と仰せになられたのではないでしょうか。『殺してはならない』という神の戒めは、まさに大きなそして力強い神の愛の秩序の中で、キリストの身体として、受け止め直すことができます。私たちは、キリストと共に、キリストと一体の中で、この愛のもとで、新しい律法と向き合っているのです。だからこそ、ハイデルベルク信仰問答は「それゆえ、神が私たちに望まれることは、私たちが自分の隣人を自分自身のように愛し、隣人に、忍耐・平和・柔和・慈悲・親愛を示し、隣人に及ぶ損害を可能な限り防ぎ、私たちの敵にさえも、善行を尽くす」と言い切る、告白することができたのではないでしょうか。

 

2021年1月3日「父母を敬え」 磯部理一郎 牧師

2021.1.3 小金井西ノ台教会 降誕第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答103~104

十戒について(4)

 

 

問103 (司式者)

「第四戒(『安息日(あんそくび)を心に留め、これを聖別せよ。』)において、

神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「第一に、神が求めることは、説教の務めと学校での教えとが守られることです。

特に休日には、わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、

神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをすることです。

次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て、

神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、

この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始めることです。」

 

 

問104 (司式者)

「第五戒(『あなたの父母(ちちはは)を敬え。』)において、神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つすべての人々に対して、

わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、

善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従い、

彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです。

なぜなら、私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるからです。」

 

2021. 1.3 小金井西ノ台教会 降誕後第2主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教48(問答104)

説教 「父母を敬え」

聖書 出エジプト記20章12節

マルコによる福音書12章28~34節

 

本日の説教の主題は、十戒の第五戒です。ハイデルベルク信仰問答の104にあたります。問答104は「第五戒『あなたの父母(ちちはは)を敬え。』)において、神は何を望まれるのか。」と問い、「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つすべての人々に対して、わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従い、彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです。なぜなら、私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるからです。」と告白して、神の福音に感謝し、またその応答の覚悟を言い表しています。

前回も申しましたように、問答は、人間がこうして欲しいと求める人間の側の欲求からではなくて、神が望まれる神の御心に心を向けています。少し踏み込んで言えば、神の御心に心を向けるがゆえに、そこでこそ、初めて見えて来る「新しい福音の世界」です。その神の福音の恵みゆえに、新たに与えられる世界であり、福音の光のもとに、新しく照らし出される人間の在り方でもあります。すなわち、罪による死と滅びから解放され、償われ、回復されてゆく新しい人間世界を先取りする信仰による希望の中で、新たに輝き始める人間世界を見ています。古い律法による「できないのか」という裁きの世界ではなくて、十字架と復活のもとに新しく生まれ変わった愛と赦しの新しい「希望とよろこびの世界」であります。神さまの御心に心を向けて注視すればするほど、すなわち御子イエス・キリストの十字架と復活による救いに、心を向ければ向けるほど、新しく生まれ変わり新しく生きる喜びと力が溢れるのです。わたしたちは、2021年という新しい年を迎えましたが、まさにそれはAnno Domini(主の時代) 2021でありまして、主イエス・キリストの十字架と復活のもとで、新たに生まれて生かされる2021年であります。そしてこの「新しさ」とは、「神の新しい命の創造」による新しさであり、万物が神の御前で全く新たな希望と命に導かれ、新しい歴史を生きる喜びの新しさであります。新年を祝うということは、そういうキリストにおける新しさを喜び祝うことに外なりません。

このように、神さまに心を集中させ、神の福音を凝視する中で、福音という新しい世界の誕生が視野に入ってきます。罪がキリストの血によって完全に償われて、神の御前で完全に清められた人間本性が、新たに鼓動し始め、その新しい息吹を感じとることができます。そうした神の祝福に包まれて、福音により新しくされた父や母、また多くの隣人たちの存在が視野に入ります。福音の中でこそ、新たに出会う父母であり、兄弟であり、新しい家族の姿がそこには見えてきます。神の愛の前で新たに結ばれてゆく人間関係の在り方です。ハイデルベルク信仰問答104では、父母を敬えという第五戒において、父母も兄弟も隣人も、同等同質に扱われます。なぜなら、「福音」という光のもとで、人類は皆同じ一つの兄弟となるからです。

 

先週学びました問答103では、つまり第四の戒めでは、安息日において私たちは主なる神と直結します。どちらかと言えば、問答103は、神とわたしとの一対一の直結した関係の中で、求められる安息日の生活であります。余人を交えず全てを捨てて、常に即「神とわたし」という一対一の直接関係に集中します。安息日では、神さまとわたしとの関係とその信仰の純度が、深くそして鋭く、徹底して問われます。

しかし問答104では、神とわたしとの間に、父や母という家族や肉親が、そして隣人たちがその姿を現します。神との関係の間に割って入ってきます。またさまざまな社会的関係の人々が、神とわたしの信仰の間に割り込んで来るのです。神と自分との関係、その純粋な信仰の中に、他人というもう一つの異質な現実が割り込んで来るのです。実を言えば、実際の私たちの信仰生活の実態は、意味深長で、人と人との関係の質の方が強くそして濃くて、利害が直接的に影響します。したがって、どちらかと言えば、私たちはいつも人の顔を恐れて、行動決定しています。それは常に他人によって自分の損得や幸不幸が大きく影響されるからであります。その結果、神さまの御心を問うことは、ずっとあとの方に押しやられる場合が多いのではないかと思います。つまり、自分、人、そして忘れたころに神、となるのが実態であります。

 

さて、問答104の最初の表現で、「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つ人々に対して、わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示すべきである」とあります。父と母は、そのまま、ご理解いただけると存じます。血肉を受けた父母であり、成長のために保護し守り育てる養いの父母です。ただ、その次の「わたしの上に立つ人々」という表現については、少し説明すべき点があります。「わたしの上に立つ人々」と訳しましたのは、「上司、上役、上官」を意味する字(Vorgesetzte)が使われているためのです。ただ、ここで誤解しがちなのは、社会的身分を表す上下関係の従属を求めているわけではない、ということです。「わたしの上に立つ人々」とは、元々の用語の語源からすれば「前に置く、前に差し出されている」vorsetzenという意味です。ですから、私見ですが、「(神さまが自分のために)自分の前に差し出してくださった方々」と解釈すべき所ではないかと考えます。確かに社会的に上に立つ人々であるが、しかしそれは、神が御心において自分のために、自分の前に差し出してくださった人々である、ということになります。上にも下にも右にも左にも、神さまが自分のために自分の前に差し出された方々であります。だからこそ、どんな人々であろうと、問答ではsollenという強い字を用いて「彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです(耐え忍ばねばなりません)」と規定されています。しかも、それに加えて、常に「あらゆる敬意と愛と誠実を示し、善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従う」と告白して強い覚悟を表白しています。言い換えれば、自分の前に差し出された人々のただ中に、神さまの現存とその御心を見ているのではないでしょうか。人間は皆凸凹で、完全な人は一人もいません。凸凹な人間同士が、神の愛と恵みに支えられて、互いに凸と凹を生かし合いながら、助け合うことで、豊かな神の共同体が生まれるのです。自分の凹を隣の方の凸が補ってくれる、自分の自分の凹で隣の方の凸を補い、共に喜び合うのです。なぜなら、そのように、互いの助け合いを通して、「私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるから」であります。キリストの十字架の血によって贖われ、清められ、共に完成を目指す兄弟であり姉妹なのです。

 

ハイデルベルク信仰問答の104は、第五戒「父母を敬え」を「隣人を愛せ」という隣人愛の戒めとして、扱っていますので、改めて、聖書における隣人愛について、みことばを聴き直しておきたいと存じます。主イエスは、律法学者との論争で、隣人愛について、こう教えられました。マルコ福音書12章28節以下によれば「12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちでどれが第一でしょうか。」12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」(マルコ12:28~34)。

ここで主イエスは、第一の掟を「神を愛する」こと、第二の掟を「隣人を愛する」ことと規定します。しかも隣人愛の掟について、「どんな献げ物やいけにえよりも優れている」と答えた律法学者を高く評価し、「あなたは神の国から遠くない」(マルコ12:34)と言って祝福します。聴き方によっては、神への犠牲祭儀よりも、隣人愛の実践の方が優先される、と解釈可能です。

ここで問題となる第二の掟、すなわち隣人愛とは、どのようなことでしょうか。自我欲求と自己中心のために、蛇に唆され神に背き、そして罪に堕落した人間に、果たしてそれはどこまで可能なのか、大きな疑問が残ります。マルコ福音書の10章に、ある資産家の青年が登場します。「10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。10:21 イエスは彼を見つめ慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ったたくさんの財産を持っていたからである。」という話です。まずここで意味深い点は、「父母を敬え」の第五戒は、隣人の項目の後に挙げられています。つまり読み方によれば、隣人愛、平たく言えば、人を愛する範疇として「父母を敬え」は位置づけられているようです。したがって、ハイデルベルク信仰問答104もまた、第五戒の「父母を敬え」を隣人愛の項目として扱ったと考えられます。その上で、隣人愛の規定として、たくさんの資産を持っていたのに、施すことができるはずなのに、彼はその資産からほんの僅かでも分け与えることができず、ましてや主イエスに従うことはできなかった、というわけです。隣人愛規定に破綻した瞬間を描いています。このエピソードは、後にマルコ福音書10章23節以下で、次のように総括されます。「10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのはなんと難しいことか。10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」10:26 弟子たちはますます驚いて、「それではだれが救われるのだろうか」と互いに言った」。ここで言う「施し」とは「隣人を愛する」律法行為そのものを意味します。資産やお金があるから、施しができない。或いは、資産やお金をどれほど所有していても、施すことはできない。反対に、譬え資産やお金を持ちえない貧しい人であったとしても、施しはしない。従って神の国に入るのは難しい、ということになります。福祉国家と呼ばれる国家の行政の中核は、国家権力によって国民から強制的に税を徴収して、富を再分配を計ることにあります。こうした徴税により再分解を謀り、隣人愛の「施し」を実現しようとする政治選択ですが、それほど、貧しい人に施すことは、言い換えれば、実際に隣人愛の実践は難しい現実である、ということをよく示しています。この地球上の富は、僅か7%の人が独占している、とさえ言われるほどです。神の命令として隣人愛を尊重する精神はよく分かりますが、いざそれを実際に実行するとなると、途端に絶望という大きな壁に突き当たってしまいます。神を愛することも、隣人を愛することも、私たちは、本当の意味で、やはり、できないのです。極論すれば、他人を愛してその愛によって他人を救うほど、そんな愛も力も、私たちにはない、ということになるのでしょうか。

 

ところが、驚くべきことに、ヨハネは全く新しい視点から、すなわち「福音から律法へ」という信仰による希望から、改めて「隣人愛」を説き直しています。「4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。4:21 神を愛する人は兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(Ⅰヨハネ4:20~21)と語ります。ご注目いただきたい点は、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(4:20)と言い切っています。つまり、神への愛は隣人愛によって決定づけられる、と断言しています。つまり第一の掟の可否は、第二の掟によって判断される、とするとても意味深い教えです。本来ならば、神を愛する秩序と、人を愛する秩序は異なる別の秩序のはずです。しかも普通は、「神」を愛する秩序の方が「人」を愛する秩序に優先する、と考えるはずです。しかしヨハネは、その異なるはずの神との関係と人との関係を並列的に並べて論ぜず、相互に内的に結合した連続一体の関係秩序において捉えています。目に見える兄弟の中に、目に見えない神を見て、愛する、と言っています。目に見える人間の中に、目に見えない神を見る。目に見える兄弟の中に、目に見えない神の愛の実現を見ている、と言ってもよいでありましょう。言い換えれば、目に見えない神の愛とは、目に見える兄弟の中にこそ実現しているからだ、と言うのであります。4章16節以下では「4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちもイエスのようであるからです。(中略)5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」と論じます。

イエス・キリストにおいて、神に対する愛も隣人に対する愛も共に一つに直結していて、その一体性において、真の愛は実現しているのです。神への愛と人への愛という二元的愛は、キリストにおいて、「神・人」一元の愛の秩序として、一体の愛として統合されています。つまり、目に見えない神を愛する愛は、直ちに、目に見える隣人を愛する愛であり、目に見える隣人を愛する愛は、即、目に見えない神を愛する愛に外なりません。なぜなら、仲保者であるキリストにおいては、神への愛は人への愛となり、人への愛は神への愛となり、それがまさに神の永遠の愛であるからであります。「3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とする、ヨハネ福音書による「神の愛」において、この「神の愛」に立つとき、神への愛は人への愛となり、人への愛は神への愛となるのです。こうした神へと向かう愛と人へと向かう愛は相互に流動し合い、一つのキリストにおける愛として、統合される愛であります。まさに「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とする父なる神の愛であり、それに答える御子の愛ですが、それはキリストの受肉となり、御子イエス・キリストの十字架と復活となって展開します。このキリストの受肉において、神への愛と人への愛という二つの掟は、完全に一元化され、相互に流動し合い、そして一体の命のとして実現しています。それがまさに「神の愛」の姿であります。

ヨハネは第一の手紙4章2節以下で「4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」と語って、キリストの受肉において、神のご計画の全てが実現したことを確認した上で、次のように解き明かします。「4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」つまり一言で言えば、キリストの受肉による贖罪で、私たちの罪は償われ、新しい命と愛の人間性のもとに生まれた、ということではないでしょうか。キリストの身体として生まれ変わらせていただいた。だから隣人のために命を尽くすことに、大きな感謝と喜びを知ることができるようになったのです。それが神の愛であり、そこにキリストがおられ、そこにこそ神の国が実現するからであります。改めてヨハネによるみことばを読み直しますと、「4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。4:18 愛には恐れがない完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」そうです。隣人ひとりひとりが、キリストの完全な贖罪の命と愛と恵みを背負っているのです。生きた目に見えるキリストを着、キリストを背負っているのです。それが私たちの隣人なのです。

2020年12月27日「新しい安息日に召し集められる」 磯部理一郎 牧師

2020.12.27 小金井西ノ台教会 降誕第1主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答103~104

十戒について(4)

 

 

問103 (司式者)

「第四戒(『安息日(あんそくび)を心に留め、これを聖別せよ。』)において、

神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「第一に、神が求めることは、説教の務めと学校での教えとが守られることです。

特に休日には、わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、

神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをすることです。

次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て、

神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、

この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始めることです。」

 

 

問104 (司式者)

「第五戒(『あなたの父母(ちちはは)を敬え。』)において、神は何を望まれるのか。」

答え  (会衆)

「わたしの父と母に対して、またわたしの上に立つすべての人々に対して、

わたしは、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、

善き教えとその報いのすべてに、相応しい従順をもって自ら従い、

彼らの欠陥さえも、耐え忍ぶべきです。

なぜなら、私たちを彼らの手を通して統べ治めることを、神が望まれるからです。」

 

2020.12.27 小金井西ノ台教会 降誕後第1主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教47(問答103)

説教「新しい安息日に召し集められる」

聖書 出エジプト記20章8~11節

ヨハネによる福音書5章1~18節

 

先週は、皆さんと共に、主イエス・キリストのご降誕をお迎えし、クリスマスを祝うことができ、感謝と喜びでいっぱいです。教会が、本来の意味で「クリスマス」(Christ+mass, キリストのミサ聖祭)を迎えられる、ということは、とても意味深いことです。主イエス・キリストは、「神の独り子」であり、真の神が「真の人」として、聖霊により処女マリアからお生まれになった、それが主のご降誕であり、人間の罪をその本性の根源から十字架の犠牲において償い、復活という新しい永遠の命によって新生させて救う「イエス」という名が与えられたのであります。そしてまさに主イエスは、「キリスト」(油塗られた者)として、預言者にして教師、大祭司、王として、私たちを教え導き(教師)、罪と死から救い(大祭司)、統べ治められる(王)のです。このように御子は、ニケア信条(325年、381年)が宣言したように「父なる神と同一本質の神」であり、そしてカルケドン信条(451年)が規定するように「真の神であると同時にまた真の人」であります。この真理を教会が一致して「アーメン」(確かに真実です、まさにその通りです)と唱えるとき、初めて世界の教会は、正しい意味で、主のご降誕を迎え、クリスマスを祝うことができるのであります。マタイによる福音書に「28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」と記されますように、復活を共にした弟子たちさえも、主イエスを、主なる神として礼拝する(プロスクネオー)を躊躇し、神として拝む疑義を覚えていたのではないか、と推察される中で、教会は数百年も間、真のクリスマスを祝えずに、暗闇の中を彷徨う歴史を余儀なくされたのです。

古い神学用語に、‘lex orandi, lex credenda’(Prosper de Aquitania; Indiculus de gratia Dei)という言葉があります。「恩寵の先行」という神学の原理から、礼拝と教理との関係を規定した用語です。そして祈りの形である礼拝そのものを通して与えられる神の恩寵は、本来、信仰の形である教理に先行することを言い表しています。しかし残念なことに、人間の側からの応答は鈍く遅れ、神の真理を捕らえることに、いつも限界を余儀なくされるのです。「ヨハネ1:5 光は暗闇の中で輝いている。(しかし)暗闇は光を理解しなかった。」のです。カルヴァンの言うように、有限は無限を包むことはできないのです。神の恩寵神の啓示と恩寵を象徴する明星が、人類の知恵を象徴する三博士を導いたように(マタイ2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」)、神は、常に終始一貫して人知を超え、インマヌエルの神として民と共に現存し、救いのみわざを行われ、啓示の出来事を通して、またみことばを通して、真理の光を照らし、人類を導かれてきました。しかし、そうした神の啓示による恵みを人類が正しく知るには多くの時間と努力が必要でした。神の救いのみわざは、常に先行して働き、またそれが完全であっても、信仰を通してその恵みを認識するに至るまでには、やはり人類には限界があり、論争や対立も生じ、忍耐と努力が求められたのです。しかしこれは教会だけではなく、私たちひとりひとりの信仰生活においても同じことであります。神の恵みは、あなたに対して本当は完全であり十分なのですが、それを相応しく知り理解するまでには多くの歳月がかかるのです。まさにミュステリオンの中に、隠された完全な神の救いの秘儀を、信仰を通して探り求め、学ぶことが、教会の歴史において今もなお求められているのです。ハイデルベルク信仰問答は、こうした伝統という学びの遺産の上にたって、教会を改革し正しく立てようとした、と言えます。

 

本日からハイデルベルク信仰問答講解は、神の掟である「十戒」に戻ります。待降節に入る前は「十戒」のうち「第三戒」までを学びましたが、今日はその第四の戒め「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」についての教えとなります。問答103によれば、「第四戒(『安息日(あんそくび)を心に留め、これを聖別せよ。』)において、

神は何を望まれるのか。」と問い、「第一に、神が求めることは、説教の務めと学校での教えとが守られることです。特に休日には、わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをすることです。次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て、神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始めることです。」と答え、安息日の信仰を告白しています。

神の戒めには、たとえどんな律法であろうと、必ず「神の御心」が表されています。神が、私たち人類に心から望み、求めておられる神さまの思いが示されています。ですから、問答はその問いで、「神は何を望まれるのか」と問うのです。第一戒では「神は何を求めるのか」(fordern)、第二戒では「神は何を望まれるのか」(wollen)、第三戒では「何を意図するのか」(wollen)と問答は問うて、神の要求、神の要望、神の意図を、其々の戒めの中に見出そうとしています。そして本日の第四戒も「神は何を望まれるのか」と問い、神がお望みなることに心を向け直すのであります。したがって答えにおいても、「第一に神が求めることは」或いは「次に神が求めることは」というように答えて、信仰を言い表そうとしています。このように、神が人類に戒めを与えることで、まずとても重要なことは、私たち人間の心を神に向ける、神の御心に向ける、ということにあります。私たちからすれば、何よりもまず「神の御心」を尋ね求めるのであります。信仰生活の第一歩は、自分の欲求ではなく、神さまの御心を謙遜に尋ね求めることができるようになることであります。

次いで、意味深いことは、第一戒で「神は何を求めるのか」という問いで用いられている字は、fordernという字ですが、「要求する、請求する」という意味のほかに、実は「厳しく訓練する」という意味があります。つまり、神は律法を通して私たちにいろいろな在り方を求めますが、実はそれによって、私たちを厳しく訓練しようとしておられるのであります。最近は、教会生活の中で、「訓練」という言葉は聞かれなくなりましたが、恩師の竹森満佐一先生は、始終「訓練」ということを言われ、教会生活の重要な要素としておられました。まさに「みことばによる訓練」であります。ヘブライ人への手紙は、信仰による希望と確信を告げた後に、12章で主による鍛錬について語っています。「12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。』12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」と語り、教会の人々を諭しています。厳しい神の訓練の中に溢れ出る、神の父としての決定的な愛を説いています。しかもその厳しい鍛錬の目的は、神の本質である新聖にあずからせるためである、つまり神の子として、神の家族とするためである、と告げるのです。「『主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。』12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。」このみことばは、私たちの心を、愛と誇りと励ましで、奮い立たせてくれます。つまり、十戒には、神の御心や意図が表されており、律法における神の御心とは、つまるところ、父が子を愛する愛によるのであります。ですから、戒めと向き合うとき、その中心で常に心を向けて問題にすべきことは、神の愛による、神の子としての鍛錬である、という点に尽きるのではないでしょうか。ですkら、いつも私たちは、戒めの中で、戒めを通して、神の父としての愛に出会うのであります。このことは、信仰生活において、決定的な意味を持ちます。

 

さて問答103の答えでは、神は第四の戒めを通して私たちに二つのことを望んでおられることが明らかになります。まず「第一に、神が求めることは、説教の務めと学校での教えとが守られることです。特に休日には、わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをすることです。」と答えます。ドイツでは、Landeskircheと言って、英国国教会のように、国や地域の領主の選択により、ローマ・カトリック教会を取るか、福音主義のプロテスタント教会を選ぶかが、決められています。領主がルター派を選べば、その地域はルター派教会となります。ですから、教会での説教も礼拝も全てがプロテスタントの信仰により導かれます。同じように、学校教育の現場でも聖書のみことばが教えられます。神学部は今でもドイツでは日本で言う国立大学です。そうした所謂キリスト教国としての環境下にあることを前提とする表現です。大事な点は「特に休日には」と明記されていますように、日曜日の礼拝を守ることが規定されています。「わたしが、熱心に神の教会に通い、神のみことばを学び、聖礼典にあずかり、神に憐れみを公に祈り求め、キリストの教えに基づいて施しをする」と告白しています。非常に具体的ですので、説明は不要かと存じます。熱心に教会に通い、説教と聖礼典に与り、公に神と会衆との前で祈り、献金をささげることです。

そして第四戒を通して、神が私たちに望まれることは、「次に、神が求めることは、わたしが、全生涯を通していつの日も悪しき働きを捨て神が聖霊を通してわたしのうちにお働きくださるよう身を委ね、この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始めることです。」と答えています。悪い働きを捨てる、聖霊を通して神が自分のうちに働くように、自分を神に委ねることが求められます。単刀直入に言えば、生まれ変わり造り変えられた感謝と喜びであり、その応答として、日々常に神への「献身」を覚える、という生活であります。「永遠の安息日」を生きる生活と言ってよいでありましょう。本日の説教題は「新しい安息日に召し集められる」といたしました。それは、問答103に「この生涯において永遠の安息日(あんそくび)を始める」と告白されており、新しい信仰生活が言い表わされているからです。元々「安息日」とは、出エジプト記によれば「20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」、また申命記によれば「5:15 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならないそのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられた」と、安息日の目的を記しています。万物創造の完成と神の民であるイスラエルの救いを覚えるために、ということになります。

安息日すなわち完成を覚え聖別する「安息日」に、なぜ、わざわざ「永遠の」という言葉が付け加えられるのでしょうか。安息日は、すなわち神の創造は完全で永遠のものではなかったのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答が「永遠の安息日」を言い表した背景には、人間の罪と堕落があります。神の創造は完全であり完成したのです。その完全さの中に、神はご自身の人格に似せて人間を造り、霊を吹き入れ、理性を持つ魂と肉体を与えました。神は人間をご自身のように愛し、ご自身のように霊と命の尊厳を尊重して、人間の全ての自由を与えたのです。これ以上の愛の表し方はほかにはないのではないでしょうか。ところが、あろうことか、人間は、その神の愛の象徴とも言える自由において、神に背き、一心一体の関係を破壊し、自ら罪に堕落して、死と滅びの定めに彷徨うことになりました。狡猾な蛇は、人間の自由な自我欲求を利用して神から離反するよう唆したのです。唆した蛇も悪いのですが、誘惑に負けて神に背いた人間はもっと悪く悲惨であります。神の創造は完成しつつも、その完成がゆえに、人格的自由を愛によって与えたゆえに、神の創造とその豊かな秩序は、人間の罪と堕落により、傷つき病んで、滅びへと向かって破綻し始めたのです。安息日は、汚され、傷つき、破壊されてしまったのです。創造のわざも、エジプト脱出のわざも、すべてが神の愛と恵みによるものであり、その意味では、完全であり永遠であります。しかしそれを受ける人間は、永遠の神の創造と救済を、常に罪によって汚し傷つけて、永遠のものとすることができなかったのです。やはり、人間には、御子のご降誕と受肉による、御子の十字架と復活による、新しい創造の完成と解放が必要だったのです。そしてついに御子イエス・キリストは十字架により、人間をはじめ万物を贖い、復活という新しい永遠の命と義の秩序のもとに、回復したのであります。そのキリストによる完全な創造完成と回復を前提にして、キリストの恵みのうちに導かれているゆえに、単に古い安息日に逆戻りするのではなくて、新しい「永遠の安息日を始める」と告白したのではないでしょうか。罪の赦しと創造の完成の約束の中にある、新しい安息日であります。罪に対する神の怒りや神の裁きによる滅びを予定された安息日ではないのです。安息日に病人を癒された主イエスは、こう仰せになりました。「5:21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。5:22 また、父はだれをも裁かず裁きは一切子に任せておられる。5:23 すべての人が父を敬うように子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく死から命へと移っている。」と。つまり、今私たちが迎えている新しい安息日とは、裁きではなく、御子によって復活の命を与えられる恵みと喜びの日であります。「裁かれることなく、死から命へと移っている」と主イエスご自身が宣言された通り、死を超えて命に移る安息日であります。主日の礼拝は、本日最後です。次回は、新年を迎えての礼拝となります。まさに死と終わりを超えて、新しい永遠の命に移る安息日を私たちは共に守っているのであります。

2020年12月20日「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」 磯部理一郎 牧師

2020.12.20 小金井西ノ台教会 待降第4主日(クリスマス)礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答35~36

子なる神について(4)

 

 

問35 (司式者)

「『主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ』とは、何を意味するか。」

答え (会衆)

「真にして永遠の神でありまた永遠に変わることなくいまし給う永遠の神の御子が、

聖霊の働きを通して、処女マリアの肉と血から真の人間本性をご自身にお受けになり

また実際のダビデの子孫となり、罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられたからです。」

 

☛ 『マリヤ』は、「使徒信条」からの引用分のため、翻訳も合わせて「日本基督教団信仰告白」の表記に従い、「マリア」は、問答の本文であり、『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)の表記に従いました。迷う所ですが、其々を尊重しました。

 

 

問36 (司式者)

「キリストの聖霊による受胎とその誕生から、何を有益なこととして、あなたは得るか。」

答え (会衆)

「主は、私たちの仲保者となられ、主の罪なき完全な神聖によって

罪のうちに身ごもられたわたしの罪を神の御顔の前で覆い隠してくださることです。」

 

 

2020.12.20 小金井西ノ台教会 待降節第4主日・クリスマス礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教46(問答35~36)

説教「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」

聖書 ルカによる福音書2章1~21節

ヘブライ人への手紙9章11~14節

 

「待降節」に入りまして、これまで、主イエス・キリストのお名前について、お話を致しました。一つは「イエス」(神は救い給う)というお名前、次いで「キリスト」(油塗られた者)というお名前、そして前回は「神の独り子」というお名前について、ハイデルベルク信仰問答33と34から、学びました。ユダヤ教からキリスト教へ、キリスト教がはっきりと分離独立する分水嶺となった、その決定的な根拠は、主イエス・キリストが「父なる神と同一本質なる神の子」である、と告白宣言した点にありました。つまり「三一体の神」を公に告白宣言することで、つまり、キリストを「神の独り子」である、と告白することで、キリスト教は「ユダヤ教」から独立して、まさに「キリスト教」となったのです。教会の教理の歴史で言えば、聖書の証言を「ニケア信条」(325年、381年)は、キリストは造り主なる神と同一本質(ホモウシオス)の神である、とする信仰に堅く立って、はっきり言い表したことで、教会は、キリストを頭とする神の教会として、初めて自らの依って立つ立場を確立することができたのであります。このように、キリストを「神と同一本質である」とする立場から信仰を明らかにした、主の呼び名こそ「神の独り子」という呼び名でありました。

 

先週は、主イエス・キリストを、「神」として、見てきましたが、本日は、キリストを、「人」として、見てゆく信仰について明らかにしてまいります。キリストは、唯一の真の「神」でありますが、しかし同時にまた真の「人」でもある、という真理に触れてまいります。キリストはその本質において「人間」である、とする明確な証言は「処女マリヤより生まれ」という言い方で表明されます。本日はクリスマス礼拝でありますが、クリスマス礼拝の本当の意味と目的は、一方で神が天から地上に降ることを祝う、という光と喜びでありますが、他方では同時に、そのように天から降られた神は人となられた、ということを祝う、光と喜びでもあります。先週は、神が天から地上に降られた、その主イエス・キリストは、唯一真の神であり、万物の造り主なる神と同一本質なる全く同じ神の御子、神の独り子であった、という神の真理を明らかにいたしました。本日は、その唯一真の「神」が、同時にまた、真の「人間」であった、という話であります。クリスマス礼拝の本当の意味は、実はこのように、神が天から降られ、「人」となって現れた、すなわち、神がイエスという男の子となって「処女マリヤから生まれ」、人々の前に現れたとする福音を共に覚える礼拝であり、まさに「神の受肉」を喜び祝う祭りであります。

 

ハイデルベルク信仰問答35は「『主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ』とは、何を意味するか。」と問いを掲げます。前回お話したように、ハイデルベルク信仰問答は、公同の信仰として「使徒信条」を受け継ぎ、「処女マリヤより生まれた」のは「聖霊」の働きによる、と告白します。「神の御子」が「人」としての降誕する、それは、聖霊の働きによる、と言うのであります。それによって、主のご降誕が、三一体の「神」のみわざであることを言い表します。しかしそれに加えて、その聖霊の働きにより「処女マリヤにより生まれ」と告白して、主イエスが真の血肉を受け継ぐ「人間」として生まれたことを明らかにします。問答35の答えは「真にして永遠の神でありまた永遠に変わることなくいまし給う永遠の神の御子が、聖霊の働きを通して、処女マリアの肉と血から真の人間本性をご自身にお受けになり、また実際のダビデの子孫となり、罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられたからです。」と告白します。ここでは、キリストにおいて、唯一真の「神」と真の「人間」とが、同時に成立していることになります。キリストにおいて神と人とが同時に実現するために、聖霊とマリアの血肉が大きく働いています。これを、即ち神の御子のご降誕の本質を一語で言い表そうとすれば、神の御子のご降誕とは、「神の受肉」にある、と言えるのではないでしょうか。英語で「神の受肉」をincarnationと言いますが、語源はラテン語でincaro(in 「~の中に」+ caro「肉、肉体」)という字です。つまりキリスト教真理の根幹を一語で言い表すとすれば、まさにこのincaro, incarnation, 即ち「神の受肉」という一語に尽きるのではないでしょうか。極論すれば、キリスト教信仰は、まさに神の御子のご降誕、すなわち神の受肉の奥義(ミュステリオン)を根拠とする啓示宗教である、ということになります。キリスト教は、正しい意味で神の御子のご降誕を祝うことで、本当のキリスト教となったのであり、教会もまた、正しい意味でクリスマス礼拝を確立することで、真の教会として確立できたのではないでしょうか。

 

教会の信仰の歴史において、前回「ニケア信条」のお話をしましたが、キリストは「神」であると告白することに、教会は大きな戸惑いを覚えました。しかし同時にまた、キリストを「人間」であると告白することにも、大変な困難があったのです。なぜなら、人であれば神ではないのと同じように、神であれば人ではないからです。前回の説教で、アリウス派は、キリストが被造物であって神ではない、としたのですが、反対に、キリストが神であるならば人ではなく、神が人のような姿で現れたのだ、ということになります。こうした考え方を「キリスト仮現説」と申します。語源は「ドコー」というギリシャ語で「主観的には人間のように見えても、客観的には人間の本性本質はない」という意味です。十一人の使徒をはじめ教会は、長い間、キリストが「神の本質」であるということに、戸惑い躊躇して来たのですが、同じように、キリストが人間であることにも、戸惑い続けたのでした。したがって教会は長い間、本当の意味で「クリスマス」を祝うことができなかったのです。クリスマスを正しい意味で祝えるようになるためには、キリストが真の「神の御子」であり、同時にまた、聖霊によって処女マリアに宿り、処女マリアから「人間」としての本質本性を受け継いだ、ということを認め、受け入れ信じることが決定的な意味をもったのです。キリストが神であり人である、とする信仰の確立が、キリスト教会の存立を決定づけていたのです。キリストが「神の本性」と同時にまた「人間の本性」を持つという信仰は、「神人両性」のキリスト論と言います。英語ではtwo naturesです。父・子・聖霊という三つの位格(3つのペルソナthree persons)のうちの一つである「子」というペルソナ(one person)であり、同じ一つの神である、とするのが「三位一体」です。これを守ったのが、ニケア信条です。次いで、その神の御子は、「神」である本質と、同時にまた「人」である本質という二つの本質本性(two natures)を持つ、という教えを守り抜いたのが、カルケドン信条です。このキリストにおける「神の受肉」と「神人の日本性」が、はっきりと教会の中で了解されたところで、初めて本当の意味でクリスマスは祝うことができるのです。

 

ハイデルベルク信仰問答35の答えで、「永遠の神の御子が、聖霊の働きを通して、処女マリアの肉と血から真の人間本性をご自身にお受けになり、また実際のダビデの子孫となり、罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられた」と、神の御子の受肉を告白します。実は、既にお気づきかと存じますが、この信仰表現は、明らかに「神の受肉」を言い表した「ニケア信条」(325根、381年)を経由しつつ、キリストの「神人両性」を告白する「カルケドン信条」(451年)から受け継いだ教えであることが分かります。言い換えれば、ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条を基本信条全体から読み直して、特にニケア信条とカルケドン信条を通して、より深く掘り下げ、より堅固に、そしてより確かに、福音の真理を言い表そうとしているのです。実際の教会史を辿りますと、それまで戸惑い続けきた全世界の教会は、451年カルケドン(Chalcedon)の第4回公会議において、キリストの神性のみを主張するキリスト「単性」説(one nature)を斥けて、キリストの「神人二本性」(two natures)を採択し確定します。そのカルケドン定式によれば「われらの主イエス・キリストは、唯一同じ御子であって、神性においても完全であり、また人性においても完全である。真の神(Theon alethos)にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成る真の人間(anthropon alethos)である。神性においては父と同一本質(homoousion)であり、人性においてはわれらと同質(homoousion hemin)にして、罪を除く (chori hamartias)すべてにおいてわれらと等しい(homion)。」と規定しています。

 

「神の独り子が、聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれる」(使徒信条)とするキリストのご降誕は、「神の受肉」(ニケア信条)であり、「キリストの神人両性」(カルケドン信条)を本質とする出来事なのです。これは、人間の側の理屈からすれば、或いは科学や人間の理性からすれば、あり得ない、とても考えられないことです。教会の内外の区別を超えて、正しい意味でクリスマスを迎えるには、決して容易いことではないのです。ヨハネは「1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と証言し、人知を超えた神の隠された真理であり、この世では測りがたい出来事である、と説いています。地上に住む人間の側からでは、どうしても越えがたい、辿り着くことのできない天上の真理というものがあるのです。したがって、天の神の側から、神自らがご自身の真理を啓示する、という形による以外に、どうしても示し得ない天の真理であります。その神が自ら天から地上に降るのです。まさに神自らが、キリストとして、啓示そのものとなったのです。しかもそれは、聖霊によりて処女マリアの胎内に宿り、処女マリアより「人」として、人間イエスとして、生まれるという出来事によって、示される神の真理であり啓示であります。それによって、すなわち御子のご降誕のクリスマスによって、天の神の真理は、地上の真理と成って実現したのです。

 

神の御子のご降誕のクリスマスを、今、私たちは祝うのですが、なぜ御子のご降誕は、神の受肉であったのでありましょうか。なぜ、キリストは、神であり人である、とする神人両性でなければならなかったのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答16はこう告白します。まず「なぜ、救い主である仲保者は、真実(まこと)の人で、罪のない義(ただ)しい人でなければならないのか。」と問い、「神は、神の義を求め罪を償うことを要求しておられるからです。人間はその本性において罪を犯したのでその同じ人間本性において自分の罪を自ら償い神の義を全うしなければなりません。しかし罪人である者が、他者の罪を償うことはできません。」と答えます。人類を「救う」とは、どういうことでしょうか。それは聖書に「この子は自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)と預言されていた通りです。民が、全人類が、人間本性の根源からその本質において、罪と死の定めから解放されることにあります。しかも決定的なことは、人間自らが犯した罪を、人間は自らその人間本性において完全に償い尽くして、義しい存在となることにあります。そのように罪を根こそぎ根源から完全に償うには、人間でなければならないのは当然であります。神の御前に完全にただしくあるためには、人間本性の根源から、神の義と神への従順が獲得されなければならないはずであります。したがって、あくまでも「人間」がその本性の根本から償い、神の義を獲得するのでなければなりません。先ほど、カルケドン信条の一部を紹介しましたが、その中でキリストは「すべてにおいてわれらと等しい(homion)。」と規定していました。私たちが罪から救われるために、すなわち罪の償いが、「神の受肉」とキリストの「神人両性」を必要としていたのです。

しかし不幸なことに、人間本性は、それ自体その根源から、罪により破綻して義を失い、死と滅びに堕落しております。汚れた者が汚れた者を清くできないように、人間は誰一人として人間を救うことはできないのです。キリストの人性については、「罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられた」とありましたように、ハイデルベルク信仰問答は、「罪を除く (chori hamartias)すべてにおいてわれらと等しい(homion)」と規定したカルケドン信条に従って、「永遠の神の御子が、聖霊の働きを通して、処女マリアの肉と血から真の人間本性をご自身にお受けになり、また実際のダビデの子孫となり、罪を除くほかは、あらゆることで兄弟と全く同じとなられた」と告白しています。神の御子であり、したがって罪のないお方が、人間として罪を償うのであります。

 

さらに問答17は「なぜ、救い主なる仲保者は、同時にまた真実(まこと)の神でなければならないのか。」と問い、「救い主なる仲保者は、その神である本性の力によって、神の怒りによる裁きの重荷をその人間である本性において担い尽くし耐え抜かれ、そうして、私たちに神の義と命とを取り戻し回復してくださるのです。」と答えています。ご記憶の方もおいでかと存じますが、3月の説教で触れた所です。ここに貫かれている信仰の核心は「贖罪」です。罪が償われ、罪から救われるために、人間における徹底的な贖罪が求められています。そのためには、贖罪者は「人間」でなければならない、と説いています。もっと大切なことは、キリストが、人間として苦難を受けて、十字架で肉を裂き血を流して罪を償われた、という事実です。キリストは、徹頭徹尾、人間として人間の償うべき罪を償われました。それが十字架でありましょう。言い換えれば、「聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」というクリスマスの告白は十字架を本質としており、十字架によって支えられ、十字架によって貫かれて、はじめて意味を持つのであります。なぜなら、御子のご降誕の目的は、人類の完全なる罪の贖罪であり、そのためには人間として十字架での犠牲と贖いを必要としたからであります。キリストがマリアから生まれて、人となられたのは、人間の勝利と救いを獲得するためでした。人知を超えた神のご計画とその啓示、特に御子が処女マリアから生まれて、民を罪から救うために十字架での贖罪死を遂げる、という神の隠された真理を知り、理解して、さらにそれを心から認めて受け入れる、ということは決して容易いことではないように思われます。民を罪から救うために、十字架において肉を裂き血を流すという神への贖罪と従順が求められることも、余りにも奥の深い、まさに奥義(ミュステリオン)であります。しかし、キリストは、ご自身の身体である教会において、聖霊によるみ言葉を通して、私たちを導き続けてくださいます。キリストの身体である教会において、私たちは、クリスマスという出来事のただ中に生まれ、生き、この世の生涯を終え、永遠の命に至るのです。闇が光によって真昼のように照らされるように、全世界は、まさに人となられた御子による完全な贖いの光の中に包まれたのです。

2020年12月13日「主なる神の独り子と神の子たち」 磯部理一郎 牧師

2020.12.13 小金井西ノ台教会 待降第3主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答33~34

子なる神について(3)

 

 

問33 (司式者)

「私たちも神の子であるのに、

なぜ、イエス・キリストは、『その独り子』すなわち神の独り子として生まれた御子、と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「ただイエス・キリストお独りが、永遠からの生まれつきの神の御子だからです。

しかし私たちは、主イエス・キリストによる恵みゆえに、養子として受け入れられ、

神の子とされたのです。」

 

 

問34 (司式者)

「なぜ、あなたは、イエス・キリストを『我らの主』と呼ぶのか。」

答え (会衆)

「イエス・キリストは、私たちを肉体や魂に至るまで、罪からそして悪魔のあらゆる支配から、

金銀ではなく貴きご自身の血潮を代価として支払い、

ご自分のもとにご自身のものとして救い出し贖ってくださったからです。」

☛ 『』は、使徒信条からの引用であるため、「日本基督教団信仰告白」内の使徒信条の翻訳を尊重して、

引用しました。

 

2020.12.13 小金井西ノ台教会 待降節第3主日

ハイデルベルク信仰問答講解説教45(問答33~34)

説教「主なる神の御子と神の子たち」

聖書 ヨハネによる福音書1章6~18節

ガラテヤの信徒への手紙3章21~29節

 

主イエス・キリストは、「イエス」(神は救い給う)というお名前が付けられ、そして「預言者にして教師」「大祭司」「王」という三つの職務を担う永遠の「キリスト」(油塗られたもの)として、「神によって任命され、聖霊によって聖別されました」。しかし、さらにもう一つ、最も大切な呼び名があります。それが「神の御子」「神の独り子」という呼び名です。ハイデルベルク信仰問答33は「私たちも神の子であるのに、なぜ、イエス・キリストは、『その独り子』すなわち神の独り子として生まれた御子、と呼ばれるのか。」と、その呼び名の意味をたずねています。この「神の独り子」という表現は、キリスト教の「神」の定義を根本から決定づける信仰表現であります。したがいまして、本日は、神の独り子ということについて、少々厳密に、そして丁寧なお話をさせていただきたいと存じます。どうか、煩雑な点は、ご容赦ください。キリスト教の根幹となる信仰なので、どうしても一度は、きちんと筋道を立てて、お話ししておかなければならないことです。

 

「神の独り子」と言い表した、その主たる目的は、あのナザレからやって来た、あの十字架刑により処刑されて死んだ、そしてあの三日目に甦った主イエス・キリストとは、単に特別な人間ではなくて、その本質は「神」である、と宣言することにあります。ユダヤ社会で、神と言えば、万物を創造した、あの「十戒」に登場する唯一の神であります。その神と主イエスは、同じ本質を持つ神である、したがって造り主は、父なる神であり、主イエスは、子なる神である、と告白するのです。しかしこれは、主イエスご自身が啓示した、主ご自身のみ言葉と教えによるものであります。

ヨハネは福音書の中で、主イエスご自身による教えの中心は「エゴー・エイミ」(わたしはある、わたしは~である)にあることを徹底して証言します(6,8、11,14章)。この「エゴー・エイミ」という表現は、ギリシャ語ですが、実は、古くはギリシャ語の七十人訳聖書に遡ります。出エジプト記3章でモーセは神に尋ねます。「3:13わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」とエジプト脱出のために、神に選ばれ立てられたモーセは、神の名を問う場面です。すると神はモーセにご自身の名を明らかにします。「3:14わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」と神はモーセに答えます。この「わたしはある」という神の名を、七十人訳聖書はギリシャで「エゴー・エイミ」と訳しています。つまり、主イエスはご自身から、モーセに啓示した神の名を、ご自身の名として用いて、ご自身を啓示する「自己啓示」の言葉なのです。「1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神この方が神を示されたのである。」とヨハネが証言する通り、ヨハネ福音書による中心メッセージがあります。

もう一つ、興味深い形で、主イエスが「神」であることを証言するのが、マタイによる福音書28章です。「28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会いひれ伏した。しかし、疑う者もいた。28:18 イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイ28:16~20)。この記述によれば、イスカリオテのユダを除く十一人の弟子たちは、ガリラヤの山に行き、ついに復活の主イエスに会いひれ伏すのですが、「しかし、疑う者もいた」と証言します。復活の主を疑ったとは考えられません。なぜなら、既に多くのユダヤ人たちは、ファリサイ派の人々をはじめ、復活があることを信じ認めていたからです。ましてや、十一人の弟子たちは、40日40夜に渡って、すでに「復活の主」と寝食を共にしていました。では、何を疑ったのでしょうか。「疑った」という字の本来の意味は「躊躇した」という意味です。したがって弟子たちは、ある行動に躊躇していたのではないでしょうか。ある行動とは、その直前で「ひれ伏した」(プロスクネオー)という行為です。これは、ただお独り万物の造り主なる「神」に対してのみに、適用される「礼拝」行為を意味する特別な字です。つまり復活のイエスを「神」である主(アドナイ、キュリオス)として告白し礼拝することに躊躇したのではないか、と推察されます。そこで主イエスは、間髪を入れずに、ご自身を「神」である主として伏し拝むことに戸惑い躊躇する十一人の弟子たちに対して、『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』と宣言します。こうしてマタイの教会は、十字架に死に三日目に復活したイエスは「神」の子であり、したがって「神」である、という信仰の確信に堅く立ち、宣教に向かうことになります。つまりマタイの教会は、確かに「三位一体の神」を告白し礼拝する、というユダヤ教からキリスト教に転換する、決定的な分水嶺を乗り越えたのではないかと思います。イエスを「神」である主(キュリオス)と告白して礼拝する、という決定的な神認識の峠を越えることで、教会は、初めて正しい意味で、キリストの身体である「キリスト教会」として形成されました。言い換えれば、啓示された神さまの本当のこと、すなわちイエス・キリストとは果たしてだれかということが、信仰として一致した言葉で、「神」の子である、と確認整理される必要があったと言えます。この神であるイエス・キリストの確信に堅く立って、そこで初めて、クリスマスの真相の意味は明らかになり、そして深められたと考えられます。このように、新約聖書の中にも、主イエス・キリストは「神」であり、造り主との関係から言えば、「神の独り子」である、という主の自己啓示の言葉として、証言されています。しかし、それでも、実は教会は、主イエス・キリストが、造り主である神と全く同じ神である、と告白することに躊躇し続けたのです。

 

ハイデルベルク信仰問答は、「使徒信条」を用いて、公同教会の信仰を告白する、という構成になっています。この使徒信条を基礎にして解き明かすという方法について、問答22は「では、キリスト者が信ずべき信仰箇条とは何か。」と問い、「福音において私たちに約束される、すべてのことです。その全体は、公同普遍で疑い得ないキリスト教信仰箇条(即ち『使徒信条』)のうちに、私たちのために纏められて教えている、すべてのことです。」と答えて、直ちに「使徒信条」の解き明かしに移っています。この「『その独り子』すなわち「『神の独り子』として生まれた御子」という言い表しは、「その独り子」と使徒信条にありますように、「父なる神」の「御子」、しかも「ただ独りの御子」であることを言い表しています。これは、キリスト教の神の根幹にかかわることで、「父なる神」も「神」であり、同時にまた「御子」も「独り子」なる「神」であることを表します。単刀直入に言えば、主イエス・キリストも、父なる神と全く同じ「神」である、と告白している言葉です。つまりキリスト教の「神」について信仰告白では、「父・子・聖霊」という三つの位格(persona)が、同時にまた、同じ一つの「神の本質」(substantia)から成り、其々の位格は共に同一同等とする「三位一体の神」であり、この三一体の神こそ唯一真の神である、とする「神」の教理が、キリスト教を決定づけています。ハイデルベルク信仰問答は、この「三位一体の神」の信仰を、使徒信条から受け継ぐのです。「使徒信条」の名前は、アウグスティヌスの恩師として知られるアンブロシウスの『教皇シリキウス書簡』(390年頃)に登場しますが、その起源はとても古く、ギリシャ語とラテン語による洗礼信条であった「古ローマ定式」にあり、270年頃まで遡ることができる、と考えられています。

 

「神の独り子」という表現について、「使徒信条」に加えて、もう一つ、さらに重要な役割を担う信条があります。「ニケア信条」です。ニケア信条は、一般に「原ニケア信条」(325年)と呼ばれる最初のニケア信条と、三位一体と三位格の同質同等を確定した「ニケア・コンスタンティのポリス信条」(381年)を指しますが、通常、「ニケア信条」と言えば、後者を指します。主イエス・キリストを、父なる神と同一の神としてよいのか、とその躊躇と戸惑いの中で、教会を二分する大論争が引き起こされ、ローマ皇帝コンスタンティヌスによって公会議がニケア(ニカイア)に招集され、アリウス派の主張するように、主イエスは、被造物である「人間」なのか、はたまたアタナシウス派の説くように、「神」なのか、という大論争となました。そして381年ニケア・コンスタンティのポリス会議で、アタナシウス派の「ホモウシオス」(子は父と同一本質である)と決着し、神の「三位一体」が確定したのです。

 

そのニケア信条を紹介しますと、

「われらは、唯一の主イエス・キリストを、神の子[ton fion tou Theou]を、(325)

われらは、唯一の主イエス・キリストを、神の独り子[ton fion tou Theou ton monogene]を、(381)

父から生まれた独り子[monogene]、父の本質[ousias]の中から外に同時に存在しており[touteestin]、(325)

あらゆる世に先立って父より生まれ(381)、

神からの神、光からの光、真の神からの真の神、造られずして生まれ[gennethenta]、(325・381)

父と同質本質[homoousion]であって、万物はすべて主によって創造された。(325)

父と同質本質[homoousion]であって、天地の万物はすべて主によって創造された。(381)」

という言葉で、キリストが「神」であることを言い表しています。

 

ハイデルベルク信仰問答がさらに意味深く重要な点がここにあります。ハイデルベルク信仰問答は、直接に「ニケア信条」を掲げる、という形を構成上はとっていませんが、それゆえ信条を解釈する上で一層重要なことですが、使徒信条の本質をニケア信条から解き明かしていることです。言い換えれば、ハイデルベルク信仰問答の最も意味ある教理的方法は、使徒信条をニケア信条によってさらに深く掘り下げて、信仰を言い表そうとしている点にあります。キリスト論において、ニケア信条を信徒信条によってさらに深く掘り下げる、という面もありますが、ここでハイデルベルク信仰問答は、表の告白は使徒信条ですが、その裏打ちはニケア信条をもって担おうとしているのです。使徒信条は、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神の3項目を、救済史的にかつ並列的に展開し、一人称単数形「われは」で、公の信仰を言い表す信条です。ニケア信条は、父と子と聖霊の3項目の本質的でその内的関係を内在的本質として展開し、一人称複数形「われらは」で公の信仰を言い表す信条です。「福音」の信仰の骨格を担う、東西其々に普遍的な公同の信仰を言い表す信条を、相互補完的に継承しているのです。こうした教理は、「神の相互内在性」(ペリコレーシス、キルクミンケッチオ)として展開されます。ですから、西方教会の信仰の根幹を担う使徒信条を、改めてニケア信条やカルケドン信条を根拠にして、より深くそして厳密に読み解くのであります。そうした態度が、問答33の問いには大変よく現れており、その典型的な言葉として、「神の独り子」「神から生まれた神の独り子」という聖書の言葉をさらに深く掘り下げて解釈しつつ、受け継いでいます。問答33の答えで「ただイエス・キリストお独りが、永遠からの生まれつきの神の御子だからです。しかし私たちは、主イエス・キリストのおかげよる恵みから、養子として受け入れられ、神の子とされたのです。」と説き証します。主イエス・キリストを「神の永遠の独り子」と宣言告白するに至るのです。このように明らかに、ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条の「その(神の)独り子」を、ニケア信条から掘り下げて解き明かしています。

 

続いて問答34は「なぜ、あなたは、イエス・キリストを『我らの主』と呼ぶのか。」と、主(アドナイ)と呼ぶ意味を問います。主とは、ギリシャ語で「キュリオス」ヘブライ語で「アドナイ」ですが、その本質は「神」を指します。有名な話で「主の名をみだりに唱えてはならない」とする十戒の戒めにしたがって、聖書を読むときすら、ユダヤ人たちは神の名前である「ヤッハウェ」を「アドナイ」と読み替えているうちに、長い間、本当の神の名が分からなくなってしまったほどです。まさにその主なる神の「主」を、使徒たちの原始教会は「イエス」に用いたのです。問答34は答えはとても意味深い形で応答しています。「イエス・キリストは、私たちを肉体や魂に至るまで罪からそして悪魔のあらゆる支配から、金銀ではなく貴きご自身の血潮を代価として支払いご自分のもとにご自身のものとして救い出し贖ってくださったからです。」と告白して、ただ神だから「主」と告白するのではなくて、唯一真である神の御子が、私たちのために、キリストとして罪を償い、罪から救われた、という所にこそ、われらの「主」である神の本当のお姿を見出しているのであります。すなわち、贖罪の中に、唯一真の神はご自身を啓示した、だからこそ、贖罪者であるイエス・キリストこそ、われらの唯一真の主である、と言い表したのではないでしょうか。永遠の神が、人間本性のうちに受肉して、罪を償い、復活という新しい命を人類にもたらした、その受肉の神による贖罪と復活に、まことの「主」としてのお姿を見ているのです。

2020年12月6日「油塗られたキリストの務めとキリスト者」 磯部理一郎 牧師

2020.12.6 小金井西ノ台教会 待降第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答31~32

子なる神について(2)

 

問31 (司式者)

「なぜ、救い主イエスは『キリスト』すなわち『油塗られた者』と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「主イエスは、私たちに神の隠された知恵と意志を完全に啓示し給う最高の預言者及び教師に

ご自身の身体による唯一つの犠牲によって私たちを贖い、

永久に執り成しをもって父なる神の前で私たちの責任を背負い給う唯一の大祭司に

私たちをご自身のことばと聖霊によって統べ治め、

獲得された救いのうちに守り養い給う私たちの永遠の王に

父なる神によって任命され、聖霊によって聖別されているからです。」

 

 

問32 (司式者)

「なぜ、あなたは、ひとりの『キリストのもの』と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「わたしは、信仰を通してキリストの身体に属する一つの肢体(えだ)となり、

そしてキリストの塗油にもあずかります。

それゆえ、わたしもまた、キリストの御名を告白し

キリストにおいて、わたし自身も一つの生ける神への感謝の献げものとなり、

この世では、自由な良心をもって罪や悪魔と闘い抜き

後の永遠の世では、キリストと共に被造物全体を統べ治めるからです。」

 

2020.12.6 小金井西ノ台教会 待降節第2主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答31~32

説教「油塗られたキリストの務めとキリスト者」

聖書 申命記18章15~22節

ペトロの手紙一2章9~10節

 

アドヴェント第1主日では、「イエス」(神は救い給う)というお名前について、お話を致しましたが、本日は、もう一つのお名前、イエス・キリストの「キリスト」について、お話をいたします。ハイデルベルク信仰問答31は「なぜ、救い主イエスは『キリスト』すなわち『油塗られた者』と呼ばれるのか。」と問うています。そして答えで「主イエスは、私たちに神の隠された知恵と意志を完全に啓示し給う最高の預言者及び教師に、ご自身の身体による唯一つの犠牲によって私たちを贖い、永久に執り成しをもって父なる神の前で私たちの責任を背負い給う唯一の大祭司に、私たちをご自身のことばと聖霊によって統べ治め、獲得された救いのうちに守り養い給う私たちの永遠の王に父なる神によって任命され聖霊によって聖別されているからです。」と答えています。

まず、イエス・キリストの「キリスト」というお名前から申しますと、実は「名前」というよりは、むしろ「職務」と申し上げた方がふさわしいと思います。「キリスト」とは、ギリシャ語では「クリストス」(Christos)、ヘブライ語では「マーシーアハ」(油注がれた者)と言い、「マーシャフ」(油を注ぐ)から派生した言葉です。イエスのように、個人の名前ではありません。イエスさまの「職務」「役職」を示す用語で、具体的には、ユダヤで「王」「祭司」「預言者」がその職務に任命され就職するときに、「油を塗って」職務に就かせていました。つまり、任職され職務に就くときに「油を塗る」という儀式をしたのです。ただし、そこで最も重要なことは、その任職の際に塗られた「油」は、物理的な油を超えて、「聖霊」による任職のしるしであり、神によって聖別されたことを象徴していることです(イザヤ61:1)。油を注いで塗る、という塗油の儀式は、神の霊が降り神によって聖別されることを示すのです(Ⅰサムエル10:1,10,16:13~14)。特に主イエス・キリストの場合は、永遠の昔から、神のご計画のもとで、永遠にその職務に任じられていた、と理解されます。そうした神の永遠のご計画において、油塗られて任職されていたキリストが、時間と空間による歴史的において、処女マリアのうちに「聖霊によって宿った」(マタイ1:20)のであり、「イエス」という個人の名前を付けることで、世に対しても「自分の民を罪から救う」というキリストの任務が明らかに示されたのです。また、ヨルダン川で洗礼者ヨハネより主が洗礼をお受けになるとき、「1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。1:11 すると、『あなたはわたしの愛する子わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」と証言されます。聖霊が降るとき、イエスはまさに聖霊の「油注がれ」、すなわち「キリスト」という神の務めに就いたことが、公に世に宣言されたのです(マタ3:16,マコ1:10,ルカ3:22,ヨハ1:32,3:34)。この聖霊による塗油について、問答は「父なる神によって任命され聖霊によって聖別されている」と告白しています。

 

では、主イエスは、どのような「職務」に油注がれたのでしょうか。キリストとなったのですが、すなわち聖霊の油を注がれたのですが、それによって、どのような「神の務め」におつきになったのでしょうか。ハイデルベルク信仰問答31は、ユダヤの伝統に基づいて「預言者および教師」「大祭司」そして「王」という三つの職務におつきになったことを明記します。第一の職務として「預言者および教師」としての主イエス、すなわち「民を罪から救う」ためには、是非とも引き受けなければならないキリストとしての務めが、預言者および教師の務めでありました。問答は「私たちに神の隠された知恵と意志を完全に啓示し給う最高の預言者及び教師に」と告白します。キリストとして、つまり教師および預言者として、私たちに「神の隠された知恵と意志を完全に啓示する」と告げます。とても意味深長なのは「神の隠された知恵と意志」という言い方です。この世の社会も人間も有限であり、神の被造物ですから、神の愛と恵みの及ぶ限りにおいて、或いは神さまが容認される限りにおいて、世界も人間も「神を知る」ことが許されます。有限は無限を包み捕らえることはできませんので、無限なる神が、有限なる被造物を包み捕らえる限りにおいて、有限なる被造物は神の愛と憐れみの光に照らされて、その光のもとで、初めて存在の場を獲得し、或いは真理の道を知ることができます。したがって神の知恵は全て隠されており、知恵や意志があらわれるのは、まさに神の愛と慈しみの光が万物を包み照らすとき、すなわち神自らのご意志でご自身を啓示されるときだけ、であります。神は、人類に対する神の愛と慈しみをもって、キリストを預言者および教師として、キリストの教えを通して、人々に神の知恵と意志をあらわし、啓示するお務めにお遣わしになられた、ということになります。

パウロはこうした神の隠された知恵と意志を「ミュステリオン」(パウロ書簡21回使用、口語訳聖書「奥義」新共同訳聖書「神の秘められた計画」)という言葉で伝えています。この永遠に隠された神の知恵と意志を、主イエスは、「キリスト」として、神の救いのご計画を世に預言し教え、啓示する務めに就いたのです。そこで初めて、キリストを通して、私たちは神の知恵と御心に触れることが許されることになります。パウロは「2:2 それは、この人々が心を励まされ愛によって結び合わされ理解力を豊かに与えられ神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。」(コロサイ2:2)と述べています。事柄の本質を実に単刀直入に言い表した名言ではないでしょうか。キリストを受け入れ、キリストを知るとは、神の知恵と意志そのものを悟ることなのです。これが信仰の世界でありましょう。

 

では「神の隠された知恵と意志」とは、どのような知恵であり、また意志なのでしょうか。またそれが、どのように現されたのでしょうか。それが次の職務となってあらわされます。問答31は、キリストの第二の務めとして「ご自身の身体による唯一つの犠牲によって私たちを贖い永久に執り成しをもって父なる神の前で私たちの責任を背負い給う唯一の大祭司に」と告白します。つまりキリストは「唯一の大祭司」として「ご自身の身体による唯一の犠牲」となって、「私たちを贖う」というのです。神の隠された知恵と意志は、キリストにおいて現わされたのですが、それは、主イエスが「キリスト」として、すなわち、私たちを罪から救い贖うために、「唯一の大祭司」となり「ご自身のお身体による犠牲」としてお献げすることに現わされた、と告白します。「私たちを贖う」とありましたが、「贖う」という字の聖書の元々の意味は、「奴隷の者を、代価を支払って買い戻し、解放して自由にする」という字です。償うとは、まさに自分の血の代価を支払って、正義を取り戻すことです。したがって、主イエスの十字架の死そのものに神の本質的な知恵と意志が込められ現された、ということを意味します。しかもキリストは、唯一の犠牲として「永久に執り成しをもって父なる神の前で私たちの責任を背負う」のです。「執り成し」Fürbitteという言葉の前に「永久に、いつも、常に」immerdarという言葉がさらに置かれています。他者に代わって自分が償う、その償いと執り成しは、いつも、常に、そして永遠に、神の御前でキリストは背負い続けるのです。ということは、いつも、常に、永久に「大祭司」として、油塗られたキリストが、神と私たちの間に仲保者となられ、私たちのための償いと執り成しは神の御前でなされ続けるのであります。私たちがどう悔い改めようと、わたしたちがどんなに破れようと、そうした私たちの限界や破れを超えて、キリストは大祭司として、ご自身のお身体をもって償い、神の御前での執り成しを、いつも、常に、永久になし続けておられるのです。ここに、神の知恵と意志の本質が示されている、というのであります。これを「神の愛と憐れみ」と言わずして、果たして何というのでありましょうか。

 

そして神の知恵と意志は、ついに三つ目の職務において徹底されます。「キリスト」としての三つ目の職務は、「王」であります。問答31は「私たちをご自身のことばと聖霊によって統べ治め、獲得された救いのうちに守り養い給う私たちの永遠の王に」と告白します。神は、私たちを導き、統べ治めるのに、恐怖や暴力を用いずに、「ことば」と「聖霊」をもって導かれる、と告白します。ここは、神と人とが、「人格」的存在であるという観点から言って、とても大事なことです。愛と憐れみの主体も対象も、双方が、霊と魂のある心豊かな人格であります。恐怖や暴力をお用いにならないで、みことばと聖霊を働かせて、私たちを統べ治めるのです。ということは、裏を返して言えば、私たちも自分の自由な意志で、「聖霊」に対して徹底的に従順になり、「みことば」に対してどこまでも謙遜に聞き従うことが前提となります。教会での主の日の礼拝が、聖霊とみ言葉の導きのもとに貫かれていることの意味をいよいよ深く覚える必要があります。日曜日の礼拝における聖霊とみことばの中には、神の知恵と意志が現れ、そして何よりも神の統治と導きが込められ、示されている、ということになります。であれば、「みことば」に対して、すなわち目に見える言葉である「聖礼典」と目に見えない言葉である「説教」から成る「みことば」に対して、いよいよ慎重かつ注意深く、そして何よりも謙遜に信仰をもって、聞き分け見分ける、ということが重要になります。奇跡の力や権力的な暴力を用いて、神は私たちや万物世界を統べ治めようとはしないのです。神の国は、神の愛と憐れみに基づいて、聖霊とみことばを通して、しかも人間本性の中枢に当たる霊と魂とそして肉体の根源から回復してくださり、神の民として立たせてくださり、愛をもってキリストの身体としての神の国をお建てになるのであります。そこには何一つ暴力も、権力もなく、共に喜びと感謝とをもって互いに仕え合う国が生まれるのであります。

礼拝や教会から離れてしまうことの、事の大きさをここに改めて深く思いを致します。実は、ここにはとても悩ましい信仰の根本問題が潜んでいます。それは、一方で私たちの「信仰の意志」が強く問われています。そして、他方では、私たちの信仰に働く「聖霊の恵み」が問われるからです。やっぱり、死の最後に至るまで、最も大切なのは、自分の信仰による意志です。どこまでもみことばを謙遜に聞き分けて主に従い、礼拝を捧げようとする信仰による「意志」が求められます。しかし最後には、力尽き、弱り果てて、私たちは自分自身の意志そのものが破綻する、「終わり」のときを迎えます。力がまだ残り、まだ力を尽くすことができるのに、礼拝やみことばを聴くことを放棄してしまえば、それは罪による破れです。どんな言い訳や他人のせいにしても適わぬことです。しかし最後に力尽きたとき、私たちの意志は破綻します。私たち人間の意志で、罪と破れに打ち勝ち、義を獲得して、人生において命に勝利することはできないのです。結局、だれも皆、生まれ持った人間本性の根源から、神を神とする礼拝を貫き通すことはできないのです。だからこそ、キリストは、民のために、神の知恵を啓示する「預言者にして教師」、贖罪と贖いの「大祭司」そして永遠の国の「王」として求められるのです。だからこそ、神は御心を痛めて人類を憐れみ、御子をキリストとして世にお遣わしになられたのであります。そこで、キリストは、私たちに代わってご自身のお身体をもって償い、私たちのためにいつも常に永遠に執成すのです。「いつも常に永久に」とは、生まれる前から、そしてこの世に生を受け終わるときも、さらには死後においても、すべてを貫いて、償い執り成し続けられる、ということです。しかもその執り成しの中で、「獲得された救いのうちに守り養い給う」のであります。まさに愛と憐れみに包み込んで、弱り果て力尽きて破綻するわたしたちを永久に救いのうちに守り養うのです。この宣言は、何と「福音」と「慰め」に満ちた宣言告白ではないでしょうか。それが、キリストの「王」としての働きである、というのであります。したがって、私たちは、私たちのすべてをこの「王」による統治に委ねることができるのであります。

 

そこで問答はいよいよ私たち自身の「キリスト者」としての意味を明らかにします。問答32は「なぜ、あなたは、ひとりの『キリストのもの』と呼ばれるのか。」と問います。キリストは、わたしの本体であり、わたしは一つのキリストの身体であります。「ひとりの『キリストのもの』」という訳に、少し極端な印象をお受けになるかと思いますが、ein Christの直訳です。ドイツ語では「キリスト」はChristus、「キリスト者」はein Christと書くようです。聖書の言葉で申しますと、「クリスティアーノス」(「キリスト」の所有格、「キリストの者」)に由来する呼び名で、アンティオケで、教会の外の人々から呼ばれていた呼び名です(使徒11:26)。外から見ると、教会に集う人々が余りにもキリストと「一体」に見えたので、そこに境界線を引いて、別扱いにすることができないほど、みんなが一つの「キリスト」のように見えたのでありましょう。問答はその理由として「わたしは、信仰を通してキリストの身体に属する一つの肢体(えだ)となり、またキリストの塗られた油にもあずかります。それゆえ、わたしもまた、キリストの御名を告白し、キリストにおいてわたし自身も一つの生ける神への感謝の献げものとなり、この世では、自由な良心をもって罪や悪魔と闘い抜き、後の永遠の世では、キリストと共に被造物全体を統べ治めるからです。」と告白します。

結論から申しますと、力尽きて破綻するのは、私たちのキリストの身体としての「本体」ではありません。私たちの人間本性、その本体は「キリストの身体」であります。それはあくまでも私たちの「古い人間本性」であり、キリストの恵みを受け入れ認めることのできない不信仰なる本体です。ひとりのキリストの身体に属する肢体として、私たちは新しい復活の人間本性のもとにあります。キリストの身体とされ、十字架の犠牲と復活の命にあずかる、勝利と喜びの本体であります。使徒パウロは、とても力強い名言を残しています。「6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られその死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。6:7 死んだ者は、罪から解放されています。6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:3~8)

ここで、決定的な意味を持つ言葉が、「キリストの身体に属する一つの肢体(えだ)である」という告白です。しかも「キリストにおいてわたし自身も一つの生ける神への感謝の献げもの」である、という事実です。しかも「 キリストと共に被造物全体を統べ治める」とまで言い切っています。この驚異的で、不屈の強さは、「わたし」が主語であり、あくまでも信仰を通して実現する新しい「わたし」であります。しかしこの新しい「わたし」を決定づけ、貫くのは、実は「わたし」ではありません。「王」であるキリストであります。神の恵みにより、神の知恵と意志において、私たちはその身体とされたからです。「選ばれる」ということは、そういう恵みの中にある、ということなのです。人間にはどうすることもできない、しかし神の完全な救いのうちに、わたしたちは選ばれ、守られ、養われ続けるのであります。ペトロは「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民王の系統を引く祭司聖なる国民神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、/『かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている』のです。」(Ⅰペトロ2:9~10)と語っています。

2020年11月29日「イエスと名付けられた神の独り子」 磯部理一郎 牧師

2020.11.22, 29  小金井西ノ台教会 聖霊降臨後第26主日礼拝、待降第1主日礼拝

信仰告白『ハイデルベルク信仰問答』問答29~30

子なる神について(1)

 

 

問29 (司式者)

「なぜ、神の御子は『イエス』すなわち『救い主』と呼ばれるのか。」

答え (会衆)

「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。

唯一の永遠の救いは、ただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができるからです。」

 

 

問30 (司式者)

「では、聖人自分自身に、或いは何か別の所に救いと平安を求める人々は、

唯一永遠の救い主イエスを信じている(と言える)のか。」

答え 「いいえ。そうした人々は、救い主イエスを同じように賞賛しても、

その行為によって、唯一永遠の救い主、救世主イエスを否定しています。

結局、イエスは唯一完全な救世主でないのか、

それとも、この永遠の救い主を真の信仰をもって受け入れ

自分の救いに必要な全てをイエスにおいて間違いなく獲得するか、

そのどちらかです。」

2020.11.29 小金井西ノ台教会 待降節第1主日礼拝

ハイデルベルク信仰問答講解説教43(問答29~30 ⑵)

説教「イエスと名付けられた神の独り子」

聖書 マタイによる福音書1章18~25節

マルコによる福音書2章13~17節

 

本日は、4週間余りの待降節の第Ⅰ主日となります。四本目の蝋燭が燈りますと、ご降誕をお迎えするクリスマスであります。マタイによる福音書1章20節以下によれば、「1:20ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と、天使はヨセフに命じます。ヨセフは、処女マリアの胎内に宿る男の子が生まれると、神の使いに命じられた通り、生まれて来た男の子に「イエス」と名付けます。「イエス」(ギリシャ語の「イエースース」)は、旧約聖書の「ヨシュア」(ヘブライ語の「イェーシューア」)という名前で、「主は救い」という意味です。「この子は自分の民を罪から救う」、それが「イエス」という名の所以です。ここで最も大切なことは、「イエス」は「民を罪から救う」ということです。「名は体を表す」という名言がありますが、名前は単に名前に終わらず、その存在の「本質」を表します。「イエス」という名の意義は、その名と共に、その本体、その本質である「民を罪から救う」お方である、ということにあります。

 

この「救う」(ソーゾー)というギリシャ語は、新約聖書では主に福音書やパウロ書簡に106回登場します。「神が民を罪と死から救い出して解放する」という意味で用いられます。「救う」という用語は、聖書の中で、どのように用いられているか、さらに掘り下げ、聖書神学しますと、前提となる三つのことが、救いの背景にあることが分かってきます。一つは「贖罪」です。つまり聖書は「救う」という場合、常に罪を償うことを前提としている、ということです。「イエス」と名付けられて「民を罪から救う」のは、「贖罪者」としてご自身の命を神に贖罪の犠牲を献げて生涯を終えるお方である、ということになります。マタイで「自分の民の罪から救う」から、さらにパウロはローマの信徒への手紙で「5:9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(リビングバイブル:キリスト様は罪人のために血さえ流してくださったのですから、神様が私たちを無罪と宣言した今は、もっとすばらしいことをしてくださるに違いありません。 今やキリスト様は、やがて来る神様の怒りから完全に救い出してくださるのです。)5:10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」と告げます。「罪から救う」という用い方の背景には、「キリストの血によって義とされ」「神の怒りから救われる」ことが、つまり、キリストの血による贖罪に基づく神の赦しが含意されるのです。

二つ目は「恵み」です。「救い」は、神からの恵みとして与えられる賜物である、という意味になります。イエスは、神による民への大きな「恵み」として生まれ、神による恵みとしてその生涯を尽くすお方です。口語訳のエペソ書は「2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは恵みによるのである。2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」と述べています。イエスは、神ご自身による神の恵みとして、神が与える救いであることが確認されます。

そして三つ目は「栄光」です。「救い」が実現するとき、そこには神が完全に神とされる、神の栄光が示されるからです。「栄光」とは、本来「神の栄光」であり、神が神として完全な勝利を果たして、神本来のお姿を明らかにすることを言います。コリント前書でもパウロは「1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と、「イエス」すなわち救いの本質は、イエスの十字架にあり、主イエスの十字架にこそ、神の力と栄光が完全に表されている、と宣言します。世には無力な敗北の死にしか見えない主イエスの十字架は、実は神の御子による十字架の死を通して実現された人類救済の贖罪であり、しかもその十字架の贖罪は、神の愛と栄光が最も力強く表明される場であった、という神の事実が啓示される場となったのであります。

このように「イエス」(神は救い給う)とは、民を罪から救い出して罪と死から解放するのですが、「イエス」は、民に代わって民の罪を完全に償い、ご自身の命を十字架の死において償いの犠牲として献げる「贖罪者」であり、そしてこの「イエス」において、神は神のお姿を完全に現し啓示したのです。それが「イエス」という名であります。「イエス」は、十字架の死におけるただ一つの犠牲の中に、神が神である勝利を完全に明らかにし、神の栄光が表明したのです。「イエス」とは「民を罪から救う」という意図で命名されましたが、その「救う」という字には「贖罪者として罪の償いを果たす」「神よりの恵みの賜物である」「神の完全な栄光をあらわす」という三つの意味が含まれます。この「イエス」の名を、即ち「救い主」という名について、ハイデルベルク信仰問答29は「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださるからです。唯一の永遠の救いはただ主イエスお独りだけに、求められまた見出すことができる」と告白します。

 

さて次に、この「イエス」すなわち「救い主」を「信仰をもって受け入れる」ということについて、問答30から学びます。待降節、すなわち主イエスのご降誕を待ち望む季節になりましたが、主イエスのご降誕を待ち望むうえで、最も大切で、最も相応しい、そして最も必要なこととは何でしょうか。それは「真の信仰」であります。問答30は「では、聖人や自分自身に、或いは何か別の所に救いと平安を求める人々は、唯一永遠の救い主イエスを信じている(と言える)のか。」と問います。この問いは、前回の説教でも触れましたが、救いをイエスのほかに、或いはイエスと並んで「別の所に求める」、つまりイエスを救いのone of themとするのか、それとも、唯一の救い主とするのか、と問います。私たちは素朴に平和な幸せや不老長寿なる健康を求ます。あれも求めこれも求めます。キリスト教で結婚式を挙げて結婚を祝い、クリスマスを家族で祝い、神社に初詣をして親族一同の無事を祈り、或いはお寺で葬式をして親族を葬ります。無分別と言えば無分別ですが、素朴な平安と救いの祈願と言えば、実に素朴な願いであります。なぜ、それが咎められなければいけないのか、と言って、多くの日本人は、キリスト教の宗教としての非寛容さを厳しく非難するのではないか、と推察します。だったら、どんな宗教でも仲よくしようよ、ということになります。しかし問題の本質は、真実な意味で「救い」であり、本当の「平和平安」はどこから来るのか、ということです。忘れてはならないのは、「罪の支配による死と滅び」に定められている、という人間の根本問題をどう解決するか、ということにあります。先ほど、救うという用語は、罪を償うという贖罪を前提として用いられていることをお話しましたが、救いとは、まさに罪を完全に贖い、神の義を回復することにほかならないのです。

少し戻りますが、問答13は「だが私たち人間が、自分の力で、これを償うことができるか。」と問い、答えで「できません。完全に償うことができないばかりか、私たちは、自分の負うべき罪責を日々いよいよ大きくしています。」告白します。罪を改善できず、罪責は日々膨らみ大きくしている、と告白します。したがって、その直前の問答12は「私たち人間は、神の正しい裁きによって、この世における処罰もまた永遠の処罰も、受けねばならないのは、当然のことです。ではどうすれば、この罰を逃れ、再び神の恵みを得ることができるか。」と問い、「神は、神ご自身の義が十分に行われ満たされることを望んでいます。それゆえ神の義のために私たち自身か、或いはほかの誰かが完全にこれを償うのでなければなりません。」と告白します。単刀直入に言えば、罪から救うとは、罪の償いを果たすことになります。では、どうすれば罪は償えるのか。問答16は「なぜ、救い主である仲保者は、真実(まこと)の人で、罪のない義(ただ)しい人でなければならないのか。」と問い、「神は、神の義を求め、罪を償うことを要求しておられるからです。人間はその本性において罪を犯したので、その同じ人間本性において自分の罪を自ら償い神の義を全うしなければなりません。しかし罪人である者が他者の罪を償うことはできません。」と答えます。まずは、罪を犯した本人である人間自身がその人間本性の根源から罪を償い、神の義を回復することです。罪を犯した人間でもない、ましてや、他のどんな被造物に、人間の犯した罪を完全に償い、神の命の祝福を取り戻すことができるのか、という問題です。しかも罪の支配の中に堕ちた者が自らを罪の中から引き上げることは不可能であります。「真の人間」で「罪のない義しい人」など、果たしてどこにいるのでしょうか。まさにパウロの告白するように、「7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ7:24~25)。罪からの救いこそが、唯一真の救いであることを知り、しかもその罪から解放できるお方とは、十字架で罪を償ってくだり、神の義を回復してくださったイエス・キリストお独りだけであることを知ったのであります。このように「罪から救う」という名前が「イエス」という名前であります。死と滅びに運命づける罪の支配から、人間本性が根源的に開放されない限り、本当の安息も平安も人間には生まれないのです。マルコによる福音書2章13節以下で、律法学者が「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問います。すると、主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えます。イエスとは「罪人を招く」お方であることを明らかにします。人は死老病生をはじめとする四苦八苦から逃れることはできません。「罪」が、死と滅びによって、人間本性の根源を支配しているからです。イエスは、まさにその罪人を神のもとに招くために、罪から解放するために来られた、と言明されたのです。

 

したがって、問答29は「救い主イエスは、私たちを私たちの罪から永遠に救い出してくださる」と告白します。また問答30は答えで「いいえ。そうした人々は、救い主イエスを同じように賞賛しても、その行為によって、唯一永遠の救い主、救世主イエスを否定しています。結局、イエスは唯一完全な救世主でないのか、それとも、この永遠の救い主を真の信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要な全てをイエスにおいて間違いなく獲得するか、そのどちらかです。」ときっぱりと、主イエスただお独りだけを、真の信仰をもって受け入れることで、救いに必要な全てにあずかる、と告白します。ここで、問答は「唯一完全な救世主」であるイエスを認め、受け入れる人間の側の信仰を求めます。罪から救う救い主は、イエスただお独りであることを正しく知って、自分の救い主であると認めること、そしてそのただ独りの救い主であるイエスを信仰を持って受け入れることで、初めて救いに必要なすべてを得ることができる、と教えます。自分を罪の支配から完全な償いをもって解放してくださるのは誰か、あなたに分かるか、というわけです。厳密にいえば、それを分かるようにしてくださるのも、神さまからの恵みによるのですが、その前に、あなたはそれを少なくても、心から信じて心から求めますか、ということです。心から信じ、心から罪からの贖いを求めて、待つことができますか、という私たちの態度を神は問うておられるのです。神は人間をロボットや機械のように扱いません。神は人間をご自身と同じ人格として尊重し霊と魂とを伴う「意志」をお問いになります、しかも神はその心溢れる神のみことばを通して、私たち人間の意志をお問いになるのです。弱くても弱いながらも、どうしようもない限界を抱えながらも、それでも人としての心からの思いを、あなたは心から信じ心から求めていますか、と問われるのです。信仰に、完全な信仰はない、と思います。絶えず、そして人それぞれの限界と精一杯の中で、神は其々の事情の中で、心から神を信じ、心から神の愛と憐れみを求めますか、と問われるのであります。

その神の問いに、私たちは少しでも誠実にお応えできるように、悔い改めを繰り返しつつ、いよいよ学びを深めつつ、日々新たな信仰をもってお応えします。キリストの身体である教会において、信仰の学びにいよいよ深く導かれ、福音の説教を通して益々救いの確かさを確信するに至ります。まさに救いという真理に、アーメンという信仰の証明を与えてくださいます。神は、主イエスを信じる信仰を通して、私たちに悔い改めを引き起こし、福音の真理を気づかされて信仰の確信が与えられ、キリストによる魂と命の養いのすべてを導かれます。

 

信仰とは、神の真理を識別して正しく認識することでもあります。ハイデルベルク信仰問答は随所で、信仰とは「認識」であり「信頼」であると告白します。その中核を成す問答21は「では、真(まこと)の信仰とは何か。」と問い、「真(まこと)の信仰とは一つの確かな認識です。わたしはこの確かな認識を通して、神がみことばに啓示したことすべてが真理であることを悟りこの真理に堅く立つことができます。信仰は、この確かな認識によるだけでなく、心からの神への信頼でもあります。即ち、神はその純粋な憐れみから、ただキリストの功績ゆえに、無償で、ほかの人々だけでなく私たちにも、罪の赦しと永遠の義を与え救いの至福をもたらしてくださる、という心からの神への信頼です。この神への信頼は福音を通して聖霊が働き私たちの内に引き起こしてくださいます。」と答えます。ここには、救いの道筋の根幹が、非常に簡潔に、表白されているのではないでしょうか。「罪」という字は「ハマルティア」と言って、本来向かうべき目的や的から外れて離反する、という意味です。神に向かうべき者が神に背き神から離反したことを言います。反対に、悔い改めという字は「メタノイア」と言って、方向を転換して本来向かうべき所に立ち帰ることを意味します。誤りを認めて、正しく本来の道へと立ち帰るのです。そのためには、罪を認めて告白し、真理を正しく知って、真理の光に照らされつつ、本来の道へと立ち帰るのでなければなりません。その道筋こそ、信仰の道であります。クリスマスを象徴する闇と光は、まさにこの闇である罪の支配を知り認めることであり、またその闇から救い出す光となる御子の到来を知り認めることであります。問答21は、その立ち帰るべき正しい道こそ、信仰による正しい神の認識であると言い、信仰による堅い神への信頼である、と告白したのではないでしょうか。イエスは、神の独り子にして、私たちの罪を償う唯一真の救い主である、と知り、すべてをイエスに委ね依り頼むのです。まさにこうした主イエスの信仰によって、クリスマスを迎える備えをなし、待降節は待ち望むものではないでしょうか。待降節は、所謂、世間のクリスマス気分ではなく、ただ独りの救い主の認識をいよいよ確かに知り学ぶことにあります。そして主イエスの贖罪と救いの確信をいよいよ堅くし祈ることにあります。信仰の認識が深くし、信仰の信頼を固くするのであります。